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二十二 孫四郎


 踏み入れてはいけない場所に、隆信は踏み込んだ。
 酒見城から佐嘉へ疾駆する馬上で、鍋島孫四郎は幾度となく拳を握りしめた。いきおい、馬の脚も速くなる。なぜ、自分がいない時に、柳川攻めなどという愚かな決断をしたのか。義兄の、このところとみに肥満した身体を思い浮かべると、悔しさがこみ上げてきた。
 真正面から攻めるならば、まだいい。隆信は蒲池鎮漣を陥れ、ありもしない叛心を咎めて騙し討ちのようにして攻めようとしているのだ。勝ったとしても、国人衆たちの信を失う。負ければ、全てを失いかねない暴挙だった。
 従者の追いすがる声を待たずに駆け、佐嘉に辿りついたのは夜半だった。下弦の月は朧雲に隠れ、陰気な気配を城下に落としている。
 雨が降る。
 夜空を見て、孫四郎は臍を噛んだ。降るのは、血の雨だ。
「十郎、お主の小賢しさが招いたことだぞ」
 柳川の友の名を吐き捨て、屋敷へ馬を繋いだ。出迎えた父へ挨拶を済ませると、父の継室となった慶ぎん尼のもとへ向かった。主君である隆信にとっては、実の母でもある。
「お久しゅうございます」
 茶室で待っていたのは、背筋をまっすぐに伸ばし、僅かも老いを感じさせない慶ぎん尼だった。若い頃、傾城と言われた容姿は今も衰えていない。凛とした空気を身にまとい、かつて龍造寺家が大友家六万の大軍に囲まれた時、隆信や孫四郎を叱咤して出陣させたのも慶ぎん尼だった。
 膝行して茵の上に座った。
「火急の用があると聞きました」
 柔らかな声だが、孫四郎を警戒するような硬さがある。不吉なものを感じた。
「殿は柳川を攻める心づもりだと聞きました」
 慶ぎん尼の眉間に、細い皺が走った。
「左様なことで筑後の目付を放り出して、佐嘉に戻ってまいったのですか」
「龍家にとっての大事にございます」
 低く、そう言い切った。
 慶ぎん尼は女ながらに龍家の政を補佐してきた過去がある。人を見る目は確かであり、家臣はもとより、筑後の国人衆についても、その性格や嗜好などを細かに把握していた。隆信の飛躍は、勇猛な家臣団とともに、老成した慶ぎん尼の目利きがあったと言っても過言ではない。
 だが、齢六十を超え、近頃は屋敷に引きこもることも多い。情勢に疎くなっていてもおかしくはなかった。
「柳川は天下の堅城でございます。今、龍家が攻めて敗れでもすれば、二十年をかけて束ね上げた肥前、筑後、肥後を全て失うかもしれませぬ」
「孫四郎殿、そなたは五州の太守たる隆信殿が、柳川の一城に敗れると、そう申すのですか」
 なじるような言葉に、孫四郎は意を決して頷いた。
「今、柳川を攻めれば、十中八九、龍家は敗けましょう」
「戦に関する孫四郎殿の目は確かだと思いますが。龍家の勝ちは一しかないと?」
「残る一は、引き分けに持ち込むことです」
 慶ぎん尼の瞳に、怒りに似たものが浮かんだ。実子が、柳川のうつけと罵られてきた鎮漣に敗れると言われたことに腹を立てたのだろうか。口を開こうとした孫四郎を、慶ぎん尼が視線で押さえた。
「それほど、鎮漣殿は手強いのですか」
「守りの戦では、私を超えましょう」
 息を呑む慶ぎん尼を見据え、孫四郎は言葉を続けた。
「十郎は、戦が嫌いな男です。しかし、それは戦の巧拙とは関わりありません。筑後中どころか、西海道を見渡してみても、十郎ほどの戦巧者は数えるほど。龍家が南の島津家と雌雄を決する時、大友家の軍神戸次道雪の攻勢に耐えうるのは、十郎だけだと考えておりました」
「隆信殿のもとにも、百武殿や木下殿、成松殿、江里口殿といった勇士がおりましょう」
「天空の鳥と、籠の中の虫を比べるようなものです」
 龍家四天王と呼ばれる歴戦の武士だが、彼らは前線の将としては稀有の才を持っている。だが、一軍の将としては、鎮漣に遠く及ばない。
 慶ぎん尼が、深く息を吐きだした。
「姫は、よき良人を持ったようですね」
 玉鶴姫のことだ。慶ぎん尼にとっては孫にあたる。
「妾も、柳川のことは気にかけておりました。そも、龍家にとっては大恩ある家です。隆信殿のみならず、私の父である龍造寺家兼が少弐家に追われた時も、蒲池殿は龍造寺を迎え入れてくださいました」
「大恩ある蒲池を滅ぼせば、この先、龍家が南へ翼を広げようとしても、進んで降る者はいなくなるでしょう。殿の天下への悲願は、夢となります」
「孫四郎殿」
 慶ぎん尼が背を伸ばした。瞼が、かすかに痙攣している。
「主君の言葉は、一度口にすれば二度と戻らぬもの。柳川との戦の行く末は、分かりました。されど、それでもなお孫四郎殿の役目は、隆信殿を勝たせることです。蒲池家への大恩と、隆信殿の意思は切り分けて考えなさい。鎮漣殿は龍家を裏切り、島津についたのです」
 そう言い切った慶ぎん尼の顔は、それ以上の余地がないことを物語っていた。
 五州の太守となり、気に入らないことがあれば家臣を手打ちにする隆信も、慶ぎん尼の言葉だけは素直に聞き入れる。慶ぎん尼からの諫言を期待していたが、それも叶わないようだった。
 英邁な女性だが、その一生は常に裏切りによって彩られてきた。裏切りこそが、戦乱の世と考えているふしがある。哀しき性を表しているようにも見えた。
「茶を飲んでいかれますか?」
 慶ぎん尼の言葉に首を横に振り、孫四郎は屋敷を辞すると、すぐさま馬を東へ走らせた。うっすらとした雲が、血のような朝焼けに染まっている。木槌の冴えた音が、須古城には響き渡っていた。六年前、苦心の末に陥落させた要害であり、肥前の東西行路の要衝にあたる。
 家督を嫡子に譲ることを決めた隆信が、隠居所として新たに造営を進めていた。
 隆信の姿はすぐに見つかった。
 六人がかりの駕籠は、平原でよく目立つ。その傍に、大杯を抱えて須古城を眺める隆信がいた。下馬して近づくと、孫四郎の姿に気づいた隆信が、ばつの悪そうな表情をした。
「孫四郎、お主には酒見城にあって筑後の重石となることを命じておったはずだが」
「上手く重石として筑後を制しておりましたが、近く騒乱が起きそうと見ましたゆえ」
 静かに言うと、隆信が傍にいた従者たちに下がるように命じた。蜘蛛の子を散らすように、草むらに消えていく。
 でっぷりと肥えた身体をゆすり隆信が立ち上がった。
「柳川の謀叛じゃ。孫四郎、決して赦すな」
「そう仕向けられましたな」
「なんじゃと」
 赤く濁った瞳が、孫四郎に向いた。
「島津へ内通していたのは、山下城の蒲池麟久でした。十郎は、龍家への謀叛人である麟久を討ち、殿への忠誠を示したはずです」
「それも柳川の策であろう。島津から届けられた書簡には、蒲池十郎の名が記してあったわ」
「山下城の嫡子の名も、十郎でしたな」
 静かな対峙になった。
「柳川を騙し討ちにすることを、誰に唆されました」
 孫四郎の言葉に、隆信が舌打ちして盃の酒を呑みほした。
「島津からの書を持ってきたのは、鷹尾城の田尻丹後守じゃ」
 隆信の口から飛び出てきた名前に、孫四郎は呆然となった。鎮漣の叔父ではないか。筑後にあって、古来より柳川と最も結びつきの強いのが、鷹尾城の田尻家だ。
 隆信が投げ捨てた盃が、地面に突き立った。
「孫四郎。お主が鎮漣を高く評しておることは承知している。だが、それと同じかそれ以上に儂も鎮漣を評しておるのだ。お主は、味方であることの利を見ているようだがな、儂は彼奴が敵になった時の害を見ておる」
「十郎が裏切ることはございません」
 隆信が、民を想う武士である限り、鎮漣は裏切らない。だが、隆信の瞳に浮かぶのは、猜疑に満ちた光だけだった。
「儂は、これまで幾度も彼奴に煮え湯を飲まされてきた。お主もそうであろう。毛利と手を結び、大友を追い詰めた時も、鎮漣の読みで全てを覆された。筑後へ攻め入った時もそうだ。真っ先に鎮漣が降ってきたことで、筑後のほぼ全ての国人たちが戦いもせずに降った」
 それこそが天下人の戦いだろう。戦わずして、降せるならば、それに越したことはない。鎮漣は、筑後経略でそれを隆信に伝えたかったはずだ。
 だが、疑い深い隆信はそうは思っていない。
「たいした戦もなく筑後を制したことで、心の中で龍家に足を向けている者も多くが生き残った。一度でも龍家が傾けば、すぐさま矢を向けてくるような連中だ。孫四郎よ。あれがまことに龍家のためになるとでも思っておるのか」
「傾かなければよいのです。それを成し続けた者が、天下を手にするのでしょう」
「百戦して百勝する者などおらぬわ。いずれ、必ず足を掬われる。その時嘆いてみても、もはや遅いのだ。筑後を厳しく龍家のもとにまとめるためにも、筑後の国人衆に龍家への恐怖を刻む必要がある」
「ゆえに、柳川を騙し討ちにするのですか」
「鎮漣は厄介な男だ。取り除ける時に取り除いておかねば、必ずや禍根となる」
「殿には十郎の才が必要でございます。肉親を騙し討ちにするような策を披露する田尻の方が、よっぽど禍をもたらしましょう」
 孫四郎はなおも食い下がるも、思ったよりも隆信は冷静だった。怒りに任せて鎮漣を討とうとしているわけではない。冷徹に将来を見据えている。それだけに、柳川侵攻を覆すことは難しそうだった。
 ぽつりぽつりと、雨が降り始めた。
 雨に打たれる隆信が、じっと孫四郎を見つめてきた。
「まさか、鎮漣を恐れているわけではあるまいな」
 低い声だ。怒気を孕んでいる。感情の起伏が激しくなっているとは聞いていたが、これほどとは思っていなかった。刹那の変わり様に、孫四郎は驚いた。
「柳川は、堅き城にございます」
「笑止な。ただの水堀が多いというだけであろうが。水量が変えられるようだが、大軍で揉みつぶせば一月とかからぬ」
 柳川城の水堀は、その水位を変えられる。かつて、玉鶴姫からの報せの中にはそうあった。ある時を境に、柳川にとって不利となる報せは少なくなっていったが、隆信も覚えていたのだろう。だが、もしも孫四郎が柳川城主であれば、それ以上の仕掛けを備えるだろうとも思っていた。
 柳川城の周辺一帯を水浸しにしてしまえば、もはや手の出しようのない城となる。
 隆信のこめかみに、青筋がたっていた。
「負けることは許さぬぞ、孫四郎。お主も兵を率いて先陣を切るがよい。敗けて、おめおめと生きておられるとは思うなよ」
「私が負ければ、筑後、肥前中の国人衆が龍家に叛旗を翻しましょう」
 まっすぐと見返した孫四郎に、隆信が不快そうに横を向いた。しばらく押し黙っていた隆信が、こちらを見ることなく地面に突き立った盃を踏み抜いた。
 見事な漆塗りの盃が、真っ二つに割れた。

 天正八年(一五八〇年)──
 鎮漣が、龍家に先んじて三千の兵を柳川城に集結させたのは、年が明けた二月十日のことだった。柳川城下は、複雑に走る水路によって迷路のようになっているが、要所に逆茂木や乱杭を打ち、桝形も新たに造営しているという。
 すぐさま、隆信の嫡子龍造寺政家を大将とする一万二千の大軍が佐嘉を出陣した。孫四郎は、副将として参陣したが、若い政家に代わって実質的な大将だった。
 筑後中の国人衆に参集することを命じた。手を抜いて勝てる城と将でないことは、孫四郎が一番分かっている。筑後川を渡ると、続々と国人衆の旗が加わってきた。
 筑後十五城と呼ばれる国人衆は、柳川城を除いた十四名全てが参陣してきた。田尻丹後守の脂ぎった顔を見た瞬間、刀を抜きかけた孫四郎を、木下昌直が止めた。地面に尻をついた田尻が、怯えるように孫四郎を見上げた。なぜこの男が味方で、鎮漣が敵となっているのか。言葉を呑み込み、孫四郎は諸将を一か所に集めた。誰一人として、鎮漣の助命を嘆願する者はいなかった。
 兵が二万を超えた時、孫四郎は柳川城の包囲を命じた。
 筑後の全てが、柳川城の敵だった。
 それでも足りない。
 政家に過ぎたる策と言われながら、孫四郎は肥後北部の龍造寺家の与力にも出陣を命じた。肥後勢が合流してくれば、総兵力は七万に近くなるだろう。
「十郎、引く気はないようだな」
 分厚い包囲陣から、遠く水に浮かぶような美しい柳川城を見て、孫四郎は呟いた。
 地を這うような法螺貝の音が、天地の狭間を揺らしている。城内から見れば、龍造寺軍は雲霞の如く見えているはずだ。だが、柳川城からは一片の怯えすら感じられなかった。
 鎮漣に勝たせ、龍造寺もまた勝ったと見せる。そうして鎮漣を再び、龍造寺家の傘下に迎え入れることが、自分の使命だった。
「思えば、戦場でこうして戦ったことはなかったな」
 遠く、城内の櫓からこちらを見ているであろう鎮漣に語りかけた。
 兵を率いて向かい合ってしまった以上、互いに退くことはない。それ以上に、純粋な興味もあった。玉鶴姫が認めた男と、自分のどちらに天が微笑むのか。
「軍神の右腕か、龍の御者か」
 案ずるな──。
 そう孫四郎は心の中で呟いた。

 

(第18回につづく)