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   九 孫四郎

 長門国赤間関(現在の山口県下関市)──。
 大友家と領土を接する大名たちを連合させ、一挙に大友家を滅ぼす。龍造寺隆信と孫四郎が画策を始めてから二年、その準備も大詰めを迎えていた。眼前の黒々とした荒波に背伸びをして、鍋島孫四郎直茂は手拭いを放り投げた。木下昌直が頭上で掴んだ。
 隆信の酒量が増えた──。
 佐嘉の城下に流れる噂を昌直が知らせてきたのは、永禄二年(西暦一五五九年)の五月も半ばをすぎた頃だった。暑い時期になってきたというのに、その生真面目な性格ゆえか、肩衣を着崩すこともなく額に大粒の汗を浮かべている。
「汗を拭け、昌直。遠路はるばる、ご苦労であった」
「船でしたので、それほどのことでは」
 にこりともせずに首を振った昌直に、孫四郎は苦笑した。
 互いに同年だが、昌直が龍造寺家に仕え始めたのはごく最近のことで、隆信がことさら面白がって家臣にした男だった。もとは京のあたりで生まれ、武蔵坊弁慶の刀狩りのようなことをして武芸を磨いてきたという。
 武者修行の旅の途中、遠縁の木下覚順を頼って肥前まで来た昌直が、佐嘉城下で野良犬のように噛みついてきたのが出会いだった。隆信を守ることで必死だった。かろうじて組み伏せることができたが、昌直が太刀ではなく、得意の槍を持っていれば勝負は違った形になっただろうと思う。
 隆信はその場で昌直を召し抱えることを決め、孫四郎に世話を命じた。佐嘉に戻って以来、現れだした隆信の癖でもあるが、素性の分からない者でも面白いと思えば金に糸目をつけず次々に召し抱える。そのため、佐嘉には様々な者が集うようになっていた。
 老臣たちの中には眉間に皺寄せる者もいるが、孫四郎の目には、かつてない活気に満ちているように見えたし、何より明らかに兵が強くなっている。
 汗を拭いた昌直が、砂浜の上に用意した鰆と数種の貝に視線を落とした。
「腹が減ったであろう。まずは飯だ。握り飯もある」
 砂浜に薪を組み上げ、杉の枝を昌直に手渡した。細工が苦手なことを知っている昌直が苦笑しながら、小刀を取り出す。手際よく、板の形に整え、火鑽棒をこすりつける溝をつけた。
「火口は?」
「用意してある」
 傍らの岩の横に置いた燕の巣のような枯草は、冬に作り置いていたものだ。頷いた昌直が、火鑽棒を杉の板に押し付け、左右に動かし始めた。小さな煙が出始め、しばらくすると黒い火種が小石程度の大きさになる。それを昌直が火口に押し込み、ゆっくりと息を吹きかけた。
 すぐに、火口から茜色の炎が噴き出した。組んだ薪の中に押し込み、昌直がその周りに石を積み上げる。
「風の通りを考えられませ」
 旅慣れている昌直の言葉に苦笑し、孫四郎は傍らに胡坐をかいた。瓢箪から酒を注ぎ、昌直に渡す。
「それで、殿の酒量が増えているというのは真か? もとより蟒蛇のような方ではあった」
「それがしがこの目で見たわけではござらぬが、はて。この噂は孫四郎殿が流したとばかり思っておりましたが」
 芝居がかって呟く昌直に、孫四郎は笑みを大きくした。世情を、よく見ている。ただ刀や槍が強いというだけではなく、この男は一軍を率いさせても強いだろう。
「分かっているのであればいい。今は、大友に警戒させるわけにはいかぬからな。勝利に驕る、とるにたりないうつけ殿と思われておいたほうが良かろう」
 隆信と孫四郎が地道に築き上げた大友包囲網は、安芸の毛利元就や肥後の相良家を加え、筑前の国人衆たちも取り込み始めている。昌直が自ら赤間関に迎えに来たのは、調略が最後の段階に入ったことを知らせていた。
 今、大友家を下手に刺激して龍造寺家を狙わせるわけにはいかなかった。
「大友宗麟の目は、しばらく毛利殿に引き付けてもらうさ」
「謀神毛利元就ですか。孫四郎殿はいたく気に入られていたようですな」
 昌直の言葉に、孫四郎は肩を竦めた。
「物事の捉え方、考え方はよく似ていた。私が考えた大友家への攻囲網も、二言三言で全て理解された。だが、惜しいかな」
「歳ですか」
「三年前に、六旬(還暦)を越えておられる」
 頷きながら、孫四郎は腕を組んだ。直接向き合った毛利元就という男は、確かに途方もない大きさがあった。こちらの考えは全て見通され、あまつさえ上回る策を助言されもした。
 それでも元就に惹かれなかったのは、どこか物足りなさを感じたからなのだろう。
 毛利元就の悲願は、旧主大内家の遺領をあまねく制圧し、上回る力を得ることにある。謀神と呼ばれるほど軍略に抜きんでており、その悲願も、遠くない日に実現するだろう。
 だが、元就から感じたのは、それだけだった。
 元就が見ているのは、力だけだ。大内の旧領を制し、毛利の力を盤石にして、ひたすら内側を固めることだけを考えている。
 天下を見てはいない。それがはっきりと伝わってきた。
 伏龍──龍造寺隆信は、もっと大きなものを見ている。かつて柳川に追われ、無一文となった隆信は、その時からすでに西海道を制し、京へ打って出るという夢物語を放言していた。あまりに根拠なき自信だったが、それほどの莫迦でなければこの世は変えられない。元就を見てこそ、隆信の大きさを孫四郎は感じていた。
 伏龍は、謀神に勝る──。
 昌直が思い出したように口を開く。
「元就には優れた三人の息子がいると聞きます」
「備中に出陣する前に会った。たしかに優れた者たちだった。隆元殿は父親の奸智を受け継いでいる。吉川家を継いだ元春殿は、その武勇で言えば山陽一であろう。小早川家を継いだ隆景殿は、軍略、政において隙の無い一代の傑物だ」
 元就の三人の息子の評を聞いて、昌直がはじめて相好を崩した。
「孫四郎殿が誰かを褒める時は、己の方が勝っていると思っている時だ。左様か左様か。ならば、殿が西海道の覇者になる道は、揺るぎませんな」
 そういうことになるな、とは口にせず、孫四郎は腕を組んだ。
「軽口はその辺にしておけ。昌直。戦が始まるぞ」
 孫四郎の言葉に、昌直が嬉しそうに肩を回した。
「毛利殿が決断されましたか」
「うむ。備中を制した毛利軍は、返す刀で石見を攻めている。が、これもじき片付くだろう。石見への途上から、書簡をくださった。六月、元就殿は豊前の門司を攻められる」
「自らですか?」
「いや、まずは大内家の旧臣を使うだろうな。毛利殿が安芸の一領主からここまで飛躍したのは、その慎重さゆえだ」
「大友家は、三老を動かしましょうか?」
「誰が動くかは分からぬが、昨年来、大友家は毛利家との決戦に向けて編成を大きく変えている。強力な軍勢が送り込まれることは間違いない」
「では、その間に我らは山内の神代討伐ですな」
 昌直の言葉に頷いた。
「筑紫殿が筑後勢に大勝したおかげで、我らは後背の憂いなく神代を討てる」
 先月、大友家の軍監に率いられた一万の筑後勢が、筑紫惟門の籠る天拝山城を攻め、大敗していた。筑後の名のある者も、多くが戦場に散ったという。
「筑後勢の立て直しにはそれなりの時間がかかるだろうな」
「ええ。筑後勢の中にも、大友家の無策に憤り、叛心を抱いている者もいると聞きます」
「筑後から攻められることは、ほぼないだろうが──」
 断言できないのは、気になっている男がいるからだった。
「蒲池十郎の動きについての報せはあるか?」
 筑後の柳川には、玉鶴姫が嫁いだ蒲池十郎鎮漣がいる。
 筑紫攻めに先陣の一部として参加していたが、筑後勢の中でも、柳川蒲池勢の損害が目に見えて少なかった。当主である蒲池宗雪の指揮であればとも思ったが、宗雪は本陣を守る配置であり、鎮漣こそが犠牲の大きい前線で指揮を執っていたという。
 昌直が書簡を取り出した。
「鎮漣は、敗北のきっかけを作ったとして筑後中から恨まれておりますな。山下城の蒲池麟久や、鷹尾城の田尻親種がそう触れ回っているようです」
「二人は十郎とともに堂上城を攻めていたはずだな」
「両家とも、壊滅に近い被害を受けています」
「犠牲の少ない十郎を妬んだか。が、最後まで前線に踏みとどまったのは十郎であろう」
「戦の最中、麟久と鎮漣が攻城の策を巡って対峙したとも聞こえています」
 孫四郎の記憶の中にある鎮漣は、自分よりも大きな存在の前では、途端に何も言えなくなる童だった。筑後の中でも、荒法師のような麟久と言い争う姿は想像がつかなかった。
「六年前、十郎と木刀を交えたことがある」
「殿が玉鶴姫を輿入れさせると決めたという立ち合いですか」
「うむ。十郎には、敵と己の力量差を見極める目はその時からあった。だが、それが才かと言えば、そんな大層なものでもない。童であれば、誰しもが素直に持っている目を、持ち続けているだけ」
「ではなぜ、輿入れを?」
 その言葉に、柳川城の二の丸で対峙した鎮漣がはっきりと瞼の裏に映った。間合いを外された。鎮漣がもう少し腕達者であれば、孫四郎は生涯で初めて負けていたかもしれない。
「十郎に非凡な才はない」
「それは、妬心からの言葉ですか?」
 玉鶴姫への淡い心があったことを昌直は知っている。気心の知れた男の挑発に、苛立ちが込み上げたが、なんとか苦笑いに変えた。
「あの男は、非才を受け入れたうえで、凡庸な決断をして動くことができる。他の者から見れば臆病な行動であっても、謗られることが明白なことでも、決断して動くことができるのだ」
 昌直が怪訝な表情をした。
「生きるため、当然のことでは?」
「お主は、行動できる側の男ゆえ不思議だろうがな。決断できたとしても、行動できぬ者の多さがお主はまだ見えておらぬ。非凡な決断をできる者は多い。だが、それを行動に移せるかどうかはまた別なのだ」
 筑後勢の天拝山城攻めについても、孫四郎は独自に分析していた。筑後勢が、蒲池麟久から出た背振山からの急襲策を採っていれば恐らく勝敗は変わっていたはずだ。
「十郎は、凡庸な決断をすぐに行動に移す。それを繰り返すことを倦まぬ。ゆえに、その決断は磨かれていく」
 いかにすれば失敗するのか、いかにすれば成功するのか。
 その蓄積が人に比べて多くなるのだ。柳川を発つ時、鎮漣は木綿栽培に着手していた。人取りを禁じる柳川では人足が足りず、無理だと思ったものだが、無数の失敗を積み重ねて、鎮漣は栽培を軌道に乗せ始めている。その経験が、鎮漣を花開かせ始めているのかもしれない。
 場を与えられれば、そこでもがき苦しみながらも、最後には立ち上がってくる。
 立ち合った鎮漣の姿に感じたのは、太陽のような輝きではなく、暗闇の中、背後から突如として追い抜かれるかもしれぬという恐怖だった。
「神代攻めの最中、筑後が動くことはまずないだろうが、柳川の動向だけは見張っておけ」
 自分が鎮漣の立場であれば、柳川の兵二千ほどを引き連れて佐嘉を攻める。城を落とさずとも、それで強力無比な神代勢と向き合う龍造寺軍は浮足立つ。
「楔を、打っておくか」
 しばらくは無視していても良いと思っていたが、孫四郎や隆信の想定よりも早く、育ち始めているかもしれない。
「昌直。十郎を非難する筑後勢の声を、もう少しばかり盛り上げろ。十郎が動きたくとも動けぬようにしておきたい」
 孫四郎の警戒心を珍しいものを見るような目で見ながらも、昌直は小さく頷いた。

 夜陰に紛れ、昌直とともに豊前に戻った孫四郎は、その足で城井谷城の城井民部少輔、長野城の長野胤盛と、大友家への反抗を示し合わせた。怪力無双、弓の名手でもある城井民部少輔は、当初、龍造寺家の主導する大友包囲網に難色を示していたが、民部少輔が寵愛する武士と木下昌直の立ち合いにおいて、昌直が肩衣にすら触れさせず勝利したことで、納得したようだった。
「筑前の原田殿のもとへ向かうぞ」
 昌直とともに筑前高祖城へ赴いた孫四郎を待ち構えていたのは、齢五十を過ぎたであろう原田隆種だった。飄々とした空気を纏う男だが、その身の内にある激情は、来歴からうかがい知れる。
 もとは大内義隆に服属していた。陶隆房が謀反を起こしたおりも、筑前で孤軍奮闘し、陶隆房の腹心である弘中隆兼と大友家の大軍に挟撃されるまで義を貫いた剛将だ。隆種が大友家への反抗を決めれば、筑前の国人衆は雪崩をうって大友に叛くだろう。
「おのれが、龍の御者か」
 馬場の暗がりに潜む孫四郎にかけられた言葉には、強い警戒心が滲んでいた。
「儂に何を望む」
 己の才覚に絶対の自信を持っている。若僧の掌で踊るものかという意思が伝わってきた。
「筑前の守護を。毛利が豊前を攻めます。我ら龍造寺は肥前を」
 暗闇の中で隆種の瞳が、月に照らされ強く光った。野心に満ちた瞳だ。
 踊らされないと意固地になる者ほど、簡単に転がされる。義を貫くとは、つまりは譲れないものがあるということであり、それをくすぐればいいだけだ。
 隆種の譲れないものは、己こそが筑前一の武将であるということ。
 人は、難しいようで、容易なものだ。隆種の首肯を確認すると、孫四郎は背を向けた。
「原田殿は、それほど大事なので?」
 昌直の目には、孫四郎が辞を低くするほどの人物には見えなかったのだろう。その問いかけに、孫四郎は肩を竦めた。
「本命は別にいる。だが、そ奴を口説くには、筑前でも有力な原田殿の名がいる」
 そのまま向かった場所に、昌直は息を呑んだ。筑前大宰府。宵闇に包まれた町を守るのは、大友家中にあって、筑前の守護代にも任じられた高橋鑑種だった。

 六月の終わり、孫四郎はようやく佐嘉へ帰還した。
 迎えた隆信は、溺れるような量の酒壺を抱えて藺草の匂いが香る広間に転がっていた。散乱する酒壺のかたわらに、傷だらけのしゃれこうべが三つ。かつて、隆信を裏切り柳川へ追放した土橋親子のものだ。怒りを抑えきれなくなると、隆信は一人部屋に籠もって、無惨に殺した彼らのしゃれこうべを切り刻む。
 その癖を知るのは、孫四郎のほかに昌直ぐらいだった。
 むくりと起き上がった隆信が、孫四郎と昌直を見て頭を掻いた。
「帰ったか」
 各地を飛び回り、国人衆はおろか、謀神と称される毛利元就を調略したことへの賛辞はなかった。背後の昌直が不服そうな顔をしたのだろう。
 隆信が鼻を鳴らした。
「鷹が飛ぶことを褒める莫迦がどこにおる」
 そう言って隆信がにやりとした。
「老いた元就ごとき、孫四郎の相手になるはずもあるまい。昌直、お主も傍におったのだ。筑前の調略が成功することは、送り出した時にすでに決まっておった」
 端整な顔つきの隆信にそう言われれば、武骨な武士でも舞い上がる。己の容姿をよく知り、その言葉がどう受け取られるかも知り抜いているのだ。宿敵である少弐家との闘争を通して、隆信は一つ大きくなった。
「夜明け前の暗闇だ。孫四郎、昌直。明かりは我らが持っておる。義などほざくうつけどもを殺し尽くし、民の世を創ろうではないか。いかなる手を使おうとも、勝てばよい」
 したたかに酔った隆信の鼻唄に、孫四郎は平伏した。
「大友を滅ぼすぞ」
 聞こえた隆信の低い呟きは、酒の匂いの中で孫四郎の身体の奥底に火を付けた。

 

(第7回につづく)