十二 鎮漣
嫌な空気が筑後全域に漂っている。
鎮漣がそう感じたのは、七月、筑後川右岸の下田城を包囲している最中だった。筑後川と、籠城のために作られた新たな水堀に囲まれた下田城は、水の上に浮かんでいるようにも見える。
籠城する堤貞元は、もとは大友家譜代の家臣だったが、近頃、龍造寺家の姫を迎え、反大友の旗幟を鮮明にしていた。
「龍造寺家の縁者か」
毛利家との和睦を結んだ宗麟の狙いは、肥前で力を伸ばしつつある龍造寺家の力を削ぐことにあるのだろう。豊後からの行軍も容易く、大友派の筑後勢に囲まれた堤貞元は、格好の標的だった。
大友宗麟みずから筑後高良山に本陣を置き、三老の一人である吉弘鑑理が二万の兵を率いて攻城の指揮を執っている。貞元は新たな堀までこしらえて籠城しているが、多勢に無勢なうえ、吉弘鑑理はきっての戦上手だった。落城も間もなくだろう。
「ご自身を見ているようですか?」
声をかけてきたのは、この数年でいくぶん顔に皺の増えた統光だった。川岸にぽつんと生えた椿に寄りかかり、兜を脱いだ。
「堤殿は隆信殿の姪を迎えたがために、御屋形様に攻められています。十郎様の奥方は、隆信公の実の娘であらせられる」
「嫌なことを言う。それだけで見れば、柳川が攻められてもおかしくはないな」
「筑後の国人衆も一様にそう思っておりましょう。柳川のうつけはなぜ放置なのかと、山下城の麟久殿などは陣所で罵っていると伝わってきています。大殿に直接言う気概は無いようですが」
「麟久殿には嫌われたな」
「それはそうでしょうな。侍島の戦のおり、もしも十郎様の言葉に従っていれば勝っていたかもしれないのです。そうなれば、その時に毛利元就のたくらみは潰え、龍造寺家の台頭もなかったでしょう。麟久殿は、あの折のことを十郎様が言いふらしはせぬか心配なのですよ」
「もとは麟久殿の策で、それを採らなかったのは大友家が遣わした佐藤殿だ。麟久殿が気にされることではないと思うが」
「それがしもそう思いますが。何かを疑う者の視野は狭くなるものです。陣中はお気を付けください。後方から矢が飛んでこぬともかぎりませぬ」
それほど愚かな人ではないだろうと言って、鎮漣は腕を組んだ。
肌を刺すような嫌な気配は、麟久の敵意かとも思ったが、日増しに強くなるその気配は、麟久のものだけとも思えなかった。筑後勢が自分に疑いの目を向けてくることは、いつも通りだが、それ以上の刺々しさがある。
この気配が何なのか分からないうちに、堤貞元が降伏してきた。
降伏をとりなしたのは、父だった。蒲池宗雪が、また御屋形様への忠義を示した。筑後勢は妬みと共に称賛し、そしてその子の不出来を蔑んだ。
筑後衆と共に、高良山の本陣へ向かったのは、八月一日のことだった。
大友宗麟への拝謁は、初めてのことだった。
「宗雪よ。歴来の忠義、ご苦労である」
伏した鎮漣の耳に入った宗麟の声は、乱暴な癇癪持ちと噂される男とは思えぬほど、穏やかな声音だった。
顔を上げた鎮漣は、その異相に目を奪われた。剃髪した頭は赤黒く焼け、身体はこれでもかと言うほど引き締まっている。丹生島に築城し、滅多に島から出てこず、大書院の奥で策謀にふけっていると聞いていたが、そんな甘い男でないことは、一目で分かった。
「隣に控える若武者は?」
「愚息の鎮漣にございます」
目を細めた宗麟が、頬を緩めた。
「ほう、お主が、龍造寺の小童の婿か」
どうやら玉鶴姫の輿入れのことは、快く思われてはいないようだった。感情を殺し俯くと、宗麟の嵐のような笑い声が響いた。
「ふん。さようなことで畏縮するな、鎮漣。誰がどの娘と夫婦になろうと、知ったことではない。大友に忠を示せば、余は咎めぬ。背かば、罰する。役立つのであれば、褒美を与える。ただそれだけだ」
大友家先代の義鑑と違い、宗麟はひどく冷酷な裁きをすると言われている。だが、そこには宗麟なりの筋があるのだろう。
大友家に役立つのであれば、いかなる者も咎めはしない。
日本にやってきたフランシスコ・ザビエルを重用し、豊後府内でのキリスト教の布教を許したことも、彼らが大友家に役立つと判断したからだ。古い権門である寺社衆の反発は強く、宇佐の国衆たちの反発を招くことも度々だったが、それと引き換えに、宗麟は鉄砲という強力な武器を誰よりも豊富に揃え、拡大した交易によって巨万の富を手に入れた。
宗麟が立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。身体が強張る。不意に、鎮漣の肩に宗麟が扇をあてた。
「道雪がの、気にかけておった」
宗麟の口から出た名前に、父が呆気にとられたように目を丸くし、急に咳込んだ。
「それは有難く」
戸次道雪は無数の忍びを領内に放ち、大小の戦全てを把握しているという。初陣から一度も敗北を知らず、まさに大友家の戦の象徴とも言うべき武士だ。
なぜ道雪ほどの武士が、自分を気にかけていたのだろうか。
「案ずるな。筑紫惟門との戦のおりに見せた戦ぶりじゃ。道雪が褒めるのは珍しい。鎮漣よ。大友家のため、宗雪と同じく励め」
そう言って扇を握らされた。
直後、脳裏に浮かんだのは崇久寺に広がる卒塔婆の群れだった。励めとは、柳川の民を殺せということなのか。口を開けば、迂闊な言葉が飛び出しそうで、鎮漣は受け取った扇を恭しく頭の上に掲げ、感情を抑えこんだ。
戦が終わり、柳川に帰還してからも筑後に漂う嫌な気配は消えるどころか、日増しに強くなっていった。老臣たちは馬鹿げたことだと取り合わなかったが、大友家が毛利家の拠点を落とせば落とすほど、なぜか鎮漣は落ち着かなくなっていった。
その気配の正体に気づいたのは、永禄十年(西暦一五六七年)の正月。日課となっていた地図の書き込みを見て、鎮漣は思わず口を右手でふさいだ。
「なぜ、誰も気づいておらぬ──」
いや、気づくはずもない。天地が逆さにならなければ、起こりえないと、誰もが確信している。
自分が気づいたのは、毎日毎日飽きもせずに地図を睨みつけ、新たな報せがあれば書き込み、そして考え続けてきたからだ。
道が一つ、できていた。
大友家の軍が近づけない、門司から筑前までの道が一つ。
「統光、蒲池家の船を最大限に動かして、堺から兵粮をありったけ購ってくるのだ。金蔵を空にしてもいい!」
老臣たちはついに鎮漣の気が触れたと喚いたが、思わず彼らを一喝していた。
何かを察したのだろう。いつもは反対ばかりする兄が、自ら船に乗り込んだ。大友家の存亡は、最初の一戦を凌げるかどうかにかかっている。凌げば、勝つことは難しくとも、負けない戦はできる。
昨年の秋、筑豊は空前の飢饉に襲われた。
長い旱魃によって田は干上がり、わずかに実った稲も、毛利家や大友家に叛く者の手に渡ってはならぬと、岩屋城の高橋鑑種が徹底的な刈田(収穫前の作物を刈り取ること)を行っていた。
筑豊の兵粮は、いま岩屋城と宝満山城、そしてその眼下に広がる大宰府に集積されている。大友家に頑強に抵抗している筑紫惟門の居城のすぐ傍であり、大友家の本拠である豊前から軍を送ろうとすれば、古処山城の秋月種実が邪魔になる。
今、毛利軍が大挙して押し寄せてくれば、飢饉に苦しむ豊前の大友勢は兵粮なしに戦わねばならず、太宰府の兵粮がなければ、十日と持たないだろう。その危機的な状況を、明敏な歴戦の高橋鑑種が気づいていないはずがない。にもかかわらず、なぜ高橋鑑種は強引な刈田を断行したのか。
四月、毛利元就が尼子家を滅ぼし、安芸の吉田郡山城に帰還したという報せが柳川に届いた。その報せを握りしめた二月後のことだった。
高橋鑑種、謀反す──。
その報せは、筑後中を一気に混乱に陥れた。間違いなく、毛利元就と連動している。高橋鑑種に呼応し、古処山城の秋月種実、宗像社の社人たちが続けざまに蜂起し、原田隆種、筑紫惟門も大友家を打倒する好機とばかりに軍勢を岩屋城に送り込んでいる。
父の怒号が柳川の空に響き、慌ただしく戦支度をしている最中、飛び込んできた報せに、大書院に集った老臣たちが一同、膝から崩れ落ちた。
立花鑑載、立花山城にて大友家から離反──。
高橋に続き立花までも離反することは、さすがに想定の外だった。老臣の中には、蒲池家も毛利に降るべきではと言う者までいた。
「兵粮庫を吐きだせ。筑後勢の兵糧を、我らが担うのだ」
老臣たちを叱咤し、鎮漣は宗雪と共に柳川を出陣した。昨年来、備蓄してきた兵粮を吐きだすことで、筑後勢が次々に集まり、一月後には秋月種実の籠もる古処山城を包囲していた。
「毛利だけには、勝たせるわけにはいかぬ」
鎮漣が備えたのは、大友家の勝利のためではなかった。
毛利家が勝てば、今以上の騒乱に包まれることは、火を見るよりも明らかだった。毛利家が大友家に並ぶ力があるのは認める。だが、毛利領は東西に広く延び、東には勢い凄まじい織田信長が近づいてきているのだ。
海を挟んだ西海道を、毛利家が支配し続けられるとは思えなかった。毛利の支配が弱まれば、敗れた大友家にとって代わろうと、有象無象の武士たちが争い始めるだろう。それは、決着することの無い泥沼のような戦になるはずだった。
「備蓄した兵粮を、日田まで運ばせます」
父の了承を得た鎮漣は、統光とともに兵を率いて日田まで押し出し、戸次道雪を総大将とする大友本軍を待ち受けた。
「蒲池家の功は、忘れぬ」
輿の上からそう言葉をかけたのは、精悍な気配を全身にまとう戸次道雪だった。傍についてきた老臣たちが萎縮する中、鎮漣は跪き声を上げた。
「立花様が裏切られるとは、想定の外でございました」
眉間に皺を寄せた道雪が、厳しい視線を送ってきた。
「鎮漣、お主の炯眼は知っておる。筑紫づれとの戦から、良き武者がおると思っておった。お主がおれば、宗雪殿の後も柳川は安泰じゃ」
戸次道雪が鎮漣のことを気にかけていたらしいという事実に、背後で跪く蒲池家中の者たちが動揺するのが分かった。鎮漣を蔑む家中に、道雪が釘を刺した形だった。
一つ、借りということになるのだろうか。見上げると、道雪が首を振った。
「蒲池家からの供出の申し出がなければ、我らの動きは遅れていた」
鎮漣を立てた程度では返せないということだろう。大身にもかかわらず、これほど屈託のない男もいるのだと思った。
「心せよ」
道雪の瞳が、まっすぐと鎮漣に向けられた。
「先を読む力。これは天賦では決してない。地道で凡庸な積み重ねが膨大であればこそ、初めてものになるもの。才だけの者には、届かぬものでもある」
来る日も来る日も、鎮漣の日課に付き合わされた大木統光が、隣で目を閉じた。
「ゆえにこそ、心せよ。鎮漣。届かぬ地も、この世にはある……」
視線を外した道雪が、遠く北の空へ向いた。
「絶望するでないぞ」
そう言って、道雪は風のように戦場へ駆けていった。
道雪の言葉が耳から消えぬうちに、筑後勢とともに父宗雪が追いついてきた。
「大手柄だ」
古処山城攻めの陣中、驚喜する宗雪の言葉に、これまで鎮漣を侮ってきた老臣たちが目を丸くしていた。兄鎮久は、何かを口にするわけでもなく、家中の様子を見守っている。
「先を読む力か……」
鎮久がそう呟いたのは、筑後勢が柳川の用意した兵粮を使って、炊煙を上げる夕暮れだった。刈り取られた田畑から、数百の煙が立ち昇っている。
「十郎。お主は、高橋殿の謀叛を見抜いていたのか」
夕暮れに照らされた兄の顔には、驚きが滲んでいる。
「見抜いていたわけではありませぬ。されど、高橋殿が裏切れば、大友家が窮地に追い込まれることが見えました。ゆえに、その備えだけはしておこうと動いたのです」
「堺まで米を買い集めさせていた時、いずれ腐る米を集めることで、お主は蒲池の家から見放されると思っていた」
「そうなったかもしれませぬ」
鎮久が首を振った。
「事実、高橋殿が謀反を起こし、お主の備えによって大友家は救われた。俺には到底できなかったことだ」
短く息を吸い込み、鎮久が悔しそうに笑った。
高橋や立花の離反は一大事だが、これは始まりに過ぎない。時が経てば、西からは龍造寺が、そして東の海を越えて、謀神に率いられた毛利の大軍が大挙してくる。
一時、秋月種実による奇襲を受け、休松の戦いで大友軍は撤退したが、戸次道雪の猛攻によって次々に離反した者を降していった。
永禄十一年(西暦一五六八年)の七月には、立花鑑載を自害に追い込み、つづく八月には秋月種実を降伏させた。そのいずれにも、鎮漣は戸次道雪の軍に従って戦功を重ねた。不思議と、戦場がよく見えた。兄と統光を両翼に置き、戦えば勝つ。道雪の指揮下ということもあるだろうが、戦を経る度に、自分が強くなっているような気がした。
しかし、心のどこかでそれも気休めに過ぎないと分かっていた。
「ついに、来るぞ」
煙を上げる立花山城の櫓を遠くに見つめ、鎮漣は傍に立つ鎮久と統光に呟いた。
小早川隆景、吉川元春を従えた毛利元就四万の大軍が、海を挟んだすぐ先にいた。