十三 玉鶴姫
書簡の文字には、普段からは考えられないほどの焦りが滲んでいる。
鍋島孫四郎が、これほど焦慮にかられることは珍しい。書簡の端を握りしめながら、玉鶴姫はまだ幼い侍女に粽を渡して下らせた。
永禄十一年の十二月──。
城内の人の気配は少ない。大友家の戦となれば、いかなる場所でも出陣する蒲池家にとっては珍しいことではないが、今回は、様子が違う。蒲池家どころか、大友家の滅びさえかかっている戦だ。城内の女たちも、即座に武装できるよう支度していた。
「遠乗りに行きます」
下女たちに命じた玉鶴姫に、目を吊り上げたのは鎮漣の母である貞心院だった。単衣に身を包み、肩を怒らせている。
「何をされるおつもりです」
輿入れしてきた時から、己の保身しか考えていないこの義母が嫌いだった。かつて鎮漣の廃嫡を最も強く願っていたのは、貞心院自身だという。腹を痛めた我が子を殺したくないという母の願いではない。武士の子としてあまりにも情けない我が子を、なかったことにしようと、幾度も刺客を送ったという。
その刺客の手から鎮漣を護ってきたのが、大木統光だった。
鎮漣のことを己のための道具としか思っていない。それが、父隆信の瞳を思い出すようで気に食わなかった。
「民が怯えております。それを鎮めるのは、我らのつとめでしょう」
そう言い捨てると、呆気にとられる下女たちを追い抜き、曳かれて来た葦毛の馬に飛び乗った。
戦の世にあっては、女も男以上に強くなくてはならないと教えられてきた。
馬上の技術だけではなく、長刀の腕でも並みの男に負けることはない。供は十名。駆け始めてすぐ、身体が凍え始めた。白い息が、流れるように後方へ消えていく。乾いた馬蹄の音は気分を高揚させ、身にまとわりついた澱のような城内の空気が洗い流されていくようにも感じた。
城下の人々が左右に分かれていく。
騎馬を操り、民と親しむ玉鶴姫の姿は、柳川どころか筑後でも評判になっていた。怯懦な良人と、淑やかさのかけらもない正室。風変わりな夫婦と思われているのだろう。だが、自分の姿を見た民が、笑顔になっていくのが分かった。
宗雪のみならず、鎮漣も出陣し、柳川に残っているのは女たちばかりだ。男が不在の城は、女が代わって城を守るのが、鎌倉以来の習わし。貞心院では柳川は守れない。鎮漣に代わって、民を護るのは自分の役目だった。
柳小路の突き当たりにある館に馬を繋げると、厨の中から慌てたように隻眼の老人が飛び出してきた。鎮漣が師事している猿楽師だった。糸で吊るされているかのように背筋を伸ばす宗顕は、顔の皺ほど歳を感じさせない。
「これは、奥方様。どうされました」
宗顕が頭を下げようとするのを押しとどめ、玉鶴姫は館の中を見回した。
「りん殿は?」
「崇久寺にて算術を習っておる頃でしょうか。嫌だ嫌だという割には、どうやら算術に才がありそうでしてな」
宗顕が娘を溺愛していることは、城下でもよく知られていた。京下りの芸人であり、鎮漣の師であるため、自然と耳目を集めている。目尻の皺を深くした宗顕に、玉鶴姫は頭を下げた。宗顕がぎょっとしたように腰を浮かせた。
「りん殿に謝らねばと思い、本日は参ったのです」
「りんが何か?」
不安げな表情をする宗顕に、玉鶴姫は首を左右に振った。
「先日、崇久寺に貞心院様が赴かれた時、芸人の子などと、厳しく詰られたようで。怖い思いをさせていないかと」
「りんから聞いておりましたが、わざわざ奥方様が?」
目を見開いた宗顕が、深々と頭を下げた。
「お気遣い痛み入ります。りんも己の立場をわきまえております」
「いえ、民こそ柳川の石垣。申し訳ないことをしたと、お伝えください」
身体を強張らせた宗顕が、ぎこちなく頷いた。
「せっかくおいで下さったのです。ささ、こちらへ」
そう言って宗顕に導かれたのは、庭を眺められる広庇だった。
「すぐに茶を用意させますゆえ、お待ちください」
一時もしないうちに、館の下女が煎茶を運んできた。猿楽師の一座も、同じ敷地内の長屋に住んでいるため、そのうちの一人なのだろう。
地面に跪いた宗顕に、玉鶴姫は苦笑して庇に座らせた。
「殿の師に跪かせるなどできはしません」
「かたじけなく」
恐縮するように宗顕が頭の裏を掻いた。
「蒲池様は、戦場でも抜群の功を立てられているとか」
「筑後の逆賊を討つ戦では、多少なりとも。されど、真の敵は姿を見せておりません。勝負は、安芸の毛利元就公が渡海してきた後でしょうね」
「上方までも、謀神毛利元就の雷名は轟いておりました」
茶をすすりながら、宗顕がそう言った。京から下ってきた宗顕は、旅の途中で毛利領を通ってきている。ここに来たのは、毛利元就という男がどういう武士なのか、聞けるかもしれないと思ったからだった。
「僅かな所領から、今では山陰山陽一の弓取りとなられた。謀の巧みさもさることながら、その歩みは実に慎重で、賭けというものをなさいません。ゆえに、戦となっても、十に九の戦場で勝利を手にされる」
「宗顕殿は、毛利勢が勝つかもしれぬと思っておられるのですか?」
どうですかのうと宗顕が唸った。
「戦の上手さで言えば、毛利公に軍配が上がりましょう。されど、その領内は決して豊かとは言えませんでした。苛政は虎よりもと申します通り、相次ぐ戦によって、民は疲弊しきっておりました。どこかで無理がくると、儂などは見ておりますのじゃ」
茶を置き、宗顕が手をさする。
「こうして茶をゆるりと呑む暇も、山陽にはありませんでしてな。蒲池様も大殿は戦ばかりではあるが、十郎様はよくよく民を見て、民のことを考えておられる。木綿の商いで得た銭も、惜しみなく民のために使っておられ、柳川は民にとっても実に住みよい場所にございます」
「城下の者もそう思ってくれておりますか?」
鎮漣や宗雪がいない城下で、民がどんな噂をしあっているのかが気になっていた。宗顕が二、三度頷いた。
「十郎様は唐墨が大層お好きだったことをご存じですか?」
何のことかと首を傾げた玉鶴姫に、宗顕が苦笑した。
「水堀の普請を、十郎様自ら見分されていた折のことです。舟に乗って遊んでいた童が波に揉まれ、水に投げ出されたことがありました。懐に商人から購ったばかりの唐墨を抱いておられた十郎様は、迷わず水の中に飛び込み、童を救われました」
「さようなことが」
「ええ。されど、その水堀は足がつくほどの深さしかありませんでな。飛びこまずとも童を水から救うことはできたのです。助けたのち、それに気づかれた十郎様は、されど悔しき顔一つせず、童たちの頭を撫で、その場を去られました」
微笑む鎮漣の姿が思い浮かぶようだった。
「ここにきて三番目物の猿楽を舞われた後、酒を用意した時、そこで初めて大いに嘆かれておられました」
大陸からの交易でしか手に入らない唐墨は、大層貴重なものだ。贅を嫌う鎮漣が、唐墨を好んでいると聞いたことはなかった。怪訝な顔に気づいたのだろう。宗顕が頷いた。
「それ以来、十郎様は唐墨を食べてはおられませぬ。滅多に手に入らぬ唐墨を台無しにしたことを童たちに気負わせたくはないと、十郎様は申しておりました。そこまですることでもないと儂などは思いましたがのう」
「……殿らしいですね」
口をついた言葉に、宗顕が嬉しそうに頷いた。
「民の忠誠は、間違いなく十郎様に向いております。十郎様を蔑むような者も、時折現れますが、城下でさようなことを口にすれば、民から袋叩きにあいますでな」
悪戯な笑みを浮かべ、宗顕が長屋の方へ目を向けた。
「今思えば、十郎様が猿楽に耽るようになったのも、自らの器を隠すためだったのでしょうな。筑後の国人衆は、遊興に耽る十郎様を嘲り、龍造寺殿や筑紫殿の耳にもそれが入っていた。誰も十郎様のことなど歯牙にもかけていなかった。されど、それがゆえに十郎様の備えによって、大友家は窮地を脱することができたのです」
誇らしげに語った宗顕が、息を吐きだした。
「奥方様が懸念されているのは、大殿や十郎様不在の城下に、蒲池の御家を貶めるような不届き者が入り込まないかということでしょう」
隻眼を鋭く光らせ、宗顕が笑った。
「我ら芸人は、夜に紛れ、息を殺して町に忍ぶ術にも長けております。十郎様に仇なす者がいれば、儂らが許しませぬ」
それに、と宗顕が微笑んだ。
「我ら芸人と、こうして茶を飲んでくださる奥方様への忠義もございます。りんにも気を遣ってくださる。柳川に来てよかったと、心からそう思います」
穏やかにそう言った宗顕に頭を下げ、玉鶴姫は立ち上がった。高揚していることを気づかれたくなくて、足早に馬に飛び乗った。
柳川の城内は、玉鶴姫にとって心地よいとは言い難い。
蒲池家は、代々豊前の大友家に忠誠を誓っており、当代の蒲池宗雪は大友宗麟からの信頼も厚い。それだけに、大友家に叛いた龍造寺隆信の娘というだけで、白い目で見られてきた。
蒲池鎮漣もまた、後継ぎでありながら家中の武士から疎まれる存在だった。童の頃は、何かあればすぐに泣き、とても武士の子とは思えぬほどだったという。
元服してからは闘争を避け、刀の修練から逃げ、かといって書に励むわけでもない。廃嫡すべきという家中の声は一度ならず沸き起こり、ついには他城の領主からさえ、要衝柳川の後継ぎとして相応しくないと非難を浴びた。
そんな鎮漣を愛してきたかと言えば、答えに困る。
だが、嫌いではないという感情があるのも確かだった。隆信や鍋島孫四郎に比べれば、くすんで見えないほどの才覚しかない。家中からの非難にもどこ吹く風で、自らを鍛えようとするわけでもない。遠乗りに行けば、玉鶴姫に似合うと言って綺麗な花を摘んでくる。兄の鎮久に怒鳴られては、側近の大木統光に泣き言を吐く。
鎮漣という男は、玉鶴姫が見て来た中で、誰よりも弱く、優しき武人だった。
しかしそれは、誰よりも人らしいということなのだろう。
人は弱く、嫌なことからは逃げ出したいと願う生きものだ。だが、人は生きている限り踏みとどまらなければならない場所がある。生きるためだったり、己の誇りのためだったり、その場所は人それぞれだが、鎮漣にとってのそれは、玉鶴姫に格好つけることだった。
そのために、弱き者を救うという蒲池の義を、自分のものにしようとしてきた。
気づいた時はあまりに馬鹿馬鹿しいと思ったが、だからこそ鎮漣は領内の政に誰よりも取り組み、そして玉鶴姫の前で無理に格好つけてきた。以来、鎮漣を見る目も、変わっていったように思う。
自分と鎮漣は、似た者同士なのだと、いつの頃か思い始めたのだ。
周囲から疎まれ、それでいて、自分が認めてほしいと願う相手からの視線を気にする。
龍造寺隆信や、孫四郎が、誰かの視線を気にしているところなど見たことがない。いつ、どの瞬間も、ただ己のために他者を虐げてでも前に進んでいくのが彼らなのだ。
何かを成す者は、そうなのだと思っていた。そうであるべきなのだと。
だからこそ、隆信や孫四郎とは似ても似つかぬ鎮漣を見て、最初はひどく苛立ちを感じた。鎮漣では、彼らを遮ることはできない。柳川はいずれ滅ぼされ、自分もそこで死ぬのだろうと、諦めに浸っていた。
輿入れしてきて以来、蒲池家中の者で親しくなった者は一人もいない。
蒲池家を背中から刺すために、送り込まれた。面と向かって言う者もいた。疎まれる敵の姫と親しむ者はいなかったし、玉鶴姫の方から近づくこともなかった。
殺すべき時に殺せなくなることが怖かった。
期待した役を果たせぬ道具を、父は許さない。龍造寺隆信から、子への愛情を向けられたことは一度もなかった。玉鶴姫へ向ける視線は、孫四郎へ向ける視線とは大いに違う。使える道具か否か。それだけだった。そして、自分も道具であることを全うしようと生きてきた。
駆けながら、思わず頬が緩むのを玉鶴姫はこらえきれなかった。
先頭を駆けている。誰にも見られていない。咳をして、玉鶴姫は表情を整えた。
だからこそ、嬉しいのだろう。
孫四郎の焦りは、自身と隆信が作り上げた巨大な大友包囲網が、たった一人、蟻のような小さき男によって一穴を開けられ、崩壊したことだった。
男は民に認められ、間違いなく才ある者たちの立つ場所に足を踏み入れた。
「才なくとも──」
風に紛れた言葉に、玉鶴姫は一度馬腹を蹴った。流れる景色がさらに速くなる。
立ち上がった鎮漣の姿は、自分もまた道具ではないと思えるかもしれぬと、玉鶴姫に気づかせたのだ。
才がなくとも、人は生きているというそれだけで価値があるのだと。
筑後川の流れは速い。
川岸で下馬し、玉鶴姫は丸い石を拾い上げた。河原に落ちている、凡百の石と変わらない。供はまだ遅れている。ちらりと振り返り、懐中から刺々しい青白い宝玉を地面に落とした。輿入れの際、父から持たされたものだ。
もしかすると、別の結末が待っているかもしれない。
思いきり右腕を振りおろした直後、粉々に砕け散った宝玉が、陽の光に煌めいて消えた。