四 孫四郎(承前)

 不意の言葉に、鎮漣しげなみが狼狽した。鎮久の側役たちは、話題が鎮漣に向いたことで俄かに元気を取り戻したようだった。硬直して動けずにいる鎮漣が口を開くよりも早く、傍らに座る統光むねみつが立ち上がった。
まご四郎しろう殿、我が主はこの数日所労に悩まされており」
「統光、俺の顔を潰すつもりか」
 鎮久しげひさの声だった。鎮漣が打ち据えられることを予想して、どこか嬉々とした気配を感じさせる。鎮久の傍仕えの者たちが、同調するように笑った。
 鬱陶しさを感じながらも、孫四郎が恐縮してみせた。
「一手で構いませぬ」
 この数日で見極められなかった蒲池家の正嫡を、なんとか知りたかった。剣の強さが全てとは思わないが、その遣い方において、人となりは知れる。
 首を垂れた統光の後ろで、鎮漣が誰か助けてくれる人を探すように視線を左右させた。
 そのあまりにも情けない様に、測るほどではないかもしれぬと思った時、ふと鎮漣の視線がくりやの方に留まった。何を見ている。苛立ちとともに視線を向けると、そこには酒の甕を抱えた玉鶴姫たまつるひめがいた。くすりと笑い、鎮漣へと会釈をしていた。
 鎮漣の怯えが、小さくなった。
 それを見た瞬間、苛立ちが怒りに変わった。
 隆信たかのぶがなぜ自らの娘を伴ったのか、気づいていないわけではなかった。隆信は、孫四郎が玉鶴姫に慕情を抱いていることにも気づいているだろう。そのうえで、柳川との関係を強固にするために、伴ってきたのだ。いずれ柳川を手にするためにも必要なことだと、孫四郎も分かっている。情と理を切り離さなければ、乱世は生きてはいけない。
 だが、これほどまで軟弱な男がと思うと、心から怒りが溢れてきた。
 足腰が立たなくなるまで、打ち据える。
「十郎殿」
 鎮漣の名を呟いた時、統光を押しのけるように鎮漣が前に出てきた。統光すら驚きを滲ませている。
「一手でよろしいのですね?」
 鎮漣の瞳には、すでに涙が溜まっていた。
 断って惰弱を蔑まれるよりも、打ち据えられてでも勝負を買ったという形にしたいのだろう。愚かな——逃げていれば、怪我せずに済んだものを。
 頷き、孫四郎は自分のものと同じ木太刀を鎮漣に渡した。
「落ち着けよ、孫四郎」
 隆信の声が背後から響いた。やり過ぎるなということだろう。振り返ることはせず、孫四郎は木太刀を下段に構えた。
 鎮漣は正眼。こちらの剣を防ぐことだけを考えている。
 鎮久はこけおどしではあったが威勢があった。だが、鎮漣から伝わってくるのは、怯えだけだ。わざと隙を見せた。打ち込ませ、せんを取るつもりだったが、孫四郎に隙ができたことすら気づいていないようだ。
 苛立ちが激しくなった。
「落ち着け」
 再び、隆信の声が聞こえた。その時、鎮漣が一歩下がった。つられて前に出る。刹那、いつの間にか八双に持ち替えられた鎮漣の木刀が、唸りを上げて迫ってきた。
 孫四郎の姿勢は崩れている。
 追い込まれた状況が信じられなかった。まともに打たれる。
 腹の底から叫んだ。気合とともに、渾身の力で木太刀を振り上げる。鎮漣の木刀がぶつかる直前、ふっと剣閃が消えた。鎮漣が大きく飛びすさっていた。上気した顔をこちらに向け、肩で息をしている。木太刀を持っているのもやっとという様子だ。
 見ている者からすれば、鎮漣が逃げただけのように見えたはずだ。だが、違う。間合いを外されたのだ。そして、打ち合いになれば分が悪いと見るや鎮漣は、勝利の可能性をあっさりと捨てて逃げた。
 空を切った木太刀を正眼に構え、孫四郎も距離を取る。
 殺すつもりで、この男を試す。雑音が消え、視界から鎮漣以外のものがすっと消えた。その時——。
「それまでにせよ」
 響いたのは、隆信の厳しい声だった。
 有無を言わさぬ言葉に、周りの光景が戻ってきた。わけが分からないというように蒲池家中の者たちは呆気にとられている。鎮久は鎮漣に向かって逃げるなと吠えているが、隆信だけが厳しいまなざしを孫四郎に向け、それをそのまま鎮漣に移した。
「いや、良いものを見た。本当であれば、蒲池のご家中にも自慢の孫四郎の剣をお見せしたいところだが、今日はいささか、きれがない。また日を改めて」
 そう言って場を強引にまとめると、隆信はさっさと主殿に引っ込んでいった。
 残された者たちが、隣の者と目をかわし、一人、また一人と戻っていく。鎮漣は庭の端で、放心したように木太刀を握りしめて立っている。統光が近づき、何やら声をかけていた。
 ふと厨の方を見ると、先ほどまでそこにいたはずの玉鶴姫の姿はなかった。
 幼いとはいえ、隆信の娘で、昔から剣を握ってきた少女だ。もしかすると、孫四郎が間合いを外されたことを見抜いたかもしれない。情けないところを見せたと思った。
 顔を左手で覆い、孫四郎は息を吐きだした。

 陽が沈み始める前に、蒲池家の主従は一木村を出立した。
 篝火を立て始めると、すぐに夜の闇が空に広がった。耳を澄ませば、筑後川のせせらぎが聞こえる。川を渡れば、佐嘉城の細作(密偵)が無数にいるはずだ。
 目と鼻の先に敵がいると分かっていながら、それでも手足をゆったり伸ばすことができるのは、ここが蒲池宗雪の勢力下だからだ。隆信の警固を命じられた百の兵が、近くに夜営している。与えられた館も、五百人ほどの敵であれば二日三日は耐えられるだろう。その間に、柳川城下から援兵が来る。
 鈴虫の音を聞きながら、館周辺を見回った孫四郎は、そのまま隆信の待つ主殿へ行った。
 瓦灯の細い明かりが照らすのは、その手元くらいだ。
 暗がりの中で、隆信は一人、杯を傾けていた。
「鎮久であれば、容易い」
 昼間の声とは似ても似つかない、腹の底に響くような声だった。
 蒲池を継がせるならば、庶長子である鎮久の方が与しやすいということだろう。やはり隆信は鎮漣を見抜き、警戒している。
 不遜でも傲慢でもなく、自分の剣の腕は龍造寺家中でも比肩する者が無いと思っている。真剣で立ち合えば、隆信にすら負けない自信があった。その自分が、怒りで視界を狭くしていたとはいえ、わずか十二歳の鎮漣に間合いを外された。隆信は、それを重く受け止めているようだった。
 上座とも下座とも判断のつかない場所に置かれた褥に、孫四郎も座った。
「しかしながら、それまで鎮久では持ちますまい」
 暗闇の中で、隆信の瞳が鋭く光った。
「佐嘉を取り戻すまでに、二年。村中の本家を潰し、憎きしよう一族を滅ぼすまでに五年。大村や有馬、松浦を下して肥前を平定するまでに十年はかかりましょう。柳川を奪うということは、すなわち豊前、豊後、肥後、筑後、筑前に力を蓄える巨大な大友家と正面からぶつかることを意味します。肥前をがっちりと固めておかねば、太刀打ちできますまい」
「鎮久が愚かとはいえ、柳川の家中とその兵は強い。城を護る程度はできよう」
「大友の屋形は、家を継いだばかりで領土の野心も強い。この先、豊前や日向、肥後各地で戦となるでしょう。戦が続けば、己を過信する鎮久は必ずどこかで死にます。その時、筑後の要衝柳川を、大友の屋形が見逃すとは思いませぬ」
「ふむ。戸次べつき道雪どうせつなどが入れば、大ごとだな」
 呟く隆信の表情が曇った。
 戸次道雪の名を知らぬ者は、西海道にはいない。大友家の宿老として数多の戦を指揮し、生涯無敗。大友家の躍進を支える文武に長けた将として、京はおろか、遠く甲斐(現在の山梨県)の大名にも称賛されているという。天地を結ぶ雷を刀でち切ったなどという、俄かに信じがたい話もあるが、誰もが道雪であればと首を縦に振る。
 隆信が目を閉じた。
「十郎鎮漣か。蒲池家中は見る目の無い者が多いな。あれは、場を与えてはならぬ男だ」
「殿もそう見られましたか」
「お前もか」
 揺れる瓦灯の明かりを見つめ、孫四郎は頷いた。
「立場が人を変える。その最たる人かもしれぬと見ました。立ち合いの時、渋っていた鎮漣殿を立たせたのは、厨から姿を現した姫でした。私に敵わぬと知りながら、立ち上がり、窮余の策を見出そうとしておりました」
 戦の強さは、刀の強さではない。勝てぬ時に凌ぐ術を模索し、勝てる瞬間に襲い掛かることを決められるか否かなのだ。はなから勝つことを諦め、負けぬことに徹しようとした鎮漣は、将としての目は鎮久よりも持っているように思える。
 唸り声が聞こえた。
 隆信とは兄弟のように育ってきたのだ。その心のうちは、手に取るように分かる。
「孫四郎」
 隆信が目を開いた。その瞳には、己が策謀への愉悦があった。
「鎮久であれば、正面から叩き潰せる。だが、鎮漣が家督を継ぐとなれば、柳川に楔を打っておかねばならぬ」
「姫を、嫁がせますか」
 隆信が頷く。
「姫もろとも鎮漣を殺さねばならぬ時、お前にそれができるか?」
 背筋の凍るような言葉だった。鎮漣に玉鶴姫を嫁がせ、一朝事あればもろとも殺すと、隆信は言っている。目に入れても痛くないほどに可愛がってきた娘を、殺せるかと家臣に問うているのだ。
 隆信が残酷なだけの男であれば、ついて行く価値は無い。だが、目の前の水際立った顔立ちの貴公子は、誰もが怯えることのない世を創りたいと心から願っている。一族を皆殺しにされ、夜も寝られなかった過去が、隆信をしてそう決心させたのだ。
 そのために、隆信は血も涙も捨てた。人として壊れたと言ってもいいだろう。だが、だからこそ、進むことのできる道もある。
 この男になら、捨て石にされても構わないと孫四郎は思っていた。
 戦の世、信義だけでは滅びゆくだけだと、平穏な柳川を見てそう確信した。義を重んずる宗雪の奮闘によって柳川は平穏に包まれている。だが、その田畑で笑っているのは老いた者か、童がほとんどだった。戦によって死んだ者の数が、あまりにも多すぎる。
 この世で武士が義を背負って生きていくことは、すなわち民に死を押し付けることだった。
 何度か息を吸い込み、しずかに吐き出した。
「鎮漣がいかなる将になろうと、私の敵ではありませぬ」
 理のために、情を捨てる。才ある者がそうしなければ、この世は変わらない。玉鶴姫に抱いた慕情を、心の奥底にしまい込むことが、民の平穏に繫がるというならば、いくらでも隠してみせる。
 脳裏に浮かんだのは、花を摘む幼い頃の玉鶴姫の姿だった。
 その横顔に惚れたのは、もう三年も前のことだ。
 玉鶴姫の幸せを願う自分がいる。だが、隆信が貴重な娘を自分に嫁がせることが無いことは分かっている。血のつながった息女の存在は、戦の世にあって他家と自家を結ぶ貴重なものなのだ。
 宗雪が生きている限り、玉鶴姫の命が失われることはないだろう。ならば、鎮漣のもとに預けておくことが、玉鶴姫の幸せかもしれない。
「殺せるか」
 ふたたび問うてきた隆信に、孫四郎は一度頷いた。殺すことはできる。だが、自分であればその命を救ってみせると思った。いかに鎮漣が優れていようと、自分がそれ以上の武士となればいいだけだった。自分が、鎮漣を従え、玉鶴姫を護る。
「鎮漣の心はいまだ白色。なにものにも染まっておりませぬ。殿の志を伝え、殿の麾下となすことが第一かと」
 孫四郎が隆信を知るように、隆信もまた自分の心を分かっている。それを認めさせる武士となることを、隆信も望んでいる。
 隆信が、小さく笑った。

   五

 父・宗雪から呼び出されたのは、年が変わった天文二十一年(西暦一五五二年)三月のことだった。
 崇久寺での日課を終えて城内の大書院に向かうと、父が頰杖をついて待っていた。
「近頃は励んでいるらしいではないか」
 珍しく、父の表情は柔らかい。この一年ほど、大友家の戦が無く、領内で過ごすことが多かったせいだろう。その身体にいつもまとっていた戦場の厳しさが薄れているようにも感じた。優しげな言葉になんと応えればいいのか分からず押し黙る鎮漣に、父が目を細めた。
「惚れた女子でもできたか」
 唐突な言葉に、鎮漣は慌てて首を左右に振った。
「いえ。左様なことはございませぬ。成すべきことを、成しているだけでございます」
「固いな、十郎。もうちと、心に遊びを持て」
「遊び、でございますか」
「固いだけの枝は、力を加えればすぐに折れるが、柳の枝は容易に折れはせぬ。その遊びに、女子は惚れるものぞ」
 つねにしかめっ面で戦のことを考えている父から、そのような言葉を聞かされるとは思っていなかった。驚いた鎮漣に、父もまたらしくないことを言ったと思ったのだろう、横を向き、咳をこぼした。
「十郎、以前からお主が言っておったことだが、やってみよ」
「木綿栽培のことでございますか?」
 父が頷いた。
「半年、領内を細かく見分してみたが、お主の言う通り、道は荒れて糞尿も田畑の傍らに野放図に溜められているだけだ。戦に明け暮れてきたがゆえと言いたいが、領主としての務めを果たしていないこともまた事実であったと突きつけられた」
 戦を自省する言葉は、初めて聞いた。父の戦によって多くの民が死んだことには違いない。だが、こうして言葉にされると、責める言葉が見つからなかった。
「父上の戦働きがあったからこそ、柳川は誰からも攻められることなく平穏を享受してきました」
 慌ててそう言った鎮漣に、父が苦笑した。
「左様なことは、お主に言われずとも分かっておるよ。が、それだけでは足りぬことも分かっておるのだ。ただ、儂には悠長に柳川の政を取り仕切る暇もなさそうでのう」
「また戦でございますか」
「天草に逃れた菊池が、またぞろ蠢き始めておる。せっかく拾った命。大人しくしておけばいいものをのう。早ければ今年の暮れにも兵を動かさねばなるまい。そうなれば、鎮久を連れていく」
「兄上を?」
「あ奴は戦場での働きが好きなようだ。お主にその半分でもあ奴の無謀さがあればいいのだがな。されど向き不向きはしょうがない。なればこそ、お主は政でその価値を示さねばならぬ」
 父が膝に立てた白扇を持ち上げ、肩を二、三度たたいた。
「家中が割れておるのは、お主も分かっておるな」
「はい」
「鎮久を世継ぎにと言う者も、近頃増えてきた。家中のものばかりではなく、たか城のじりまでもが書簡を送ってきおった。筑後筆頭である柳川の動揺は、筑後の動揺に繫がるとしてのう」
「私は兄上に仕えても構いませぬ」
「というが、あれもあれで戦一辺倒。家を継がせるには心もとない」
 疲れ切ったような息を吐き、父がこめかみを搔いた。
「木綿栽培を、誰がお前に入れ知恵したかは知らぬが、ひとまずはやってみよ。多くの肥を使う木綿は、細流せせなぎ(下水)を整えることにも繫がる。なにより、木綿は高く売れる。目の付け所は良い。大がかりな普請となるが、一木村の隆信殿や孫四郎殿の力を借りて進めよ」
 隆信という言葉に、頰が熱くなるのを感じた。水面下で、自分と玉鶴姫の縁談の話が進んでいることは知っていた。
 龍造寺家の主従を一木村へ送り届けた時、兄と鎮漣は鍋島孫四郎と立ち合った。それがどのように伝わったか知らないが、以来、父からの風当たりは少しだけ弱くなり、鎮漣の言葉にも耳を貸すようになっていた。
「いずれ、佐嘉を取り戻した隆信殿と柳川が結べば、大きな力となる」
 父の瞳が、鋭く光った。
 本当の狙いは、そこだろう。柳川の南北を敵に挟まれており、隆信が佐嘉城を取り戻せば、北に対する負担は減る。隆信と結ぶことは、蒲池家にとっても重要なことだ。
「よいな十郎。しかと、隆信殿を知るがよい」
 それだけ言って、父は立ち上がり、奥へと姿を消した。

 統光を伴って一木村へ出向いたのは、それから十日後のことだった。
 隆信が暮らす原家の館が見えてくると、どこか心が浮つくような感覚に襲われた。通りすがる女童の姿を、つど見てしまうのは、誰を探しているのだろうか。分かり切った自問自答を、心の中で繰り返し、ため息を吐いた。
「何を探しておられます」
 隣を歩く統光の言葉には、探るような響きがある。
「何も探しておらぬ」
 少し気のせいた言葉だったか。後悔した時には、統光の横顔が綻んでいた。
「いえ、ずっと傅役もりやくを仰せつかってきた身としては、十郎様にも欲があるのを知ることができて嬉しいのですがね」
「安心したか?」
「縁組は、両者に利があるゆえ、結ばれるのです。蒲池家も北の守りを考えずに済む。龍造寺家も南を気にせずに済む。されど、隆信殿は言わずと知れた肥前の名将です。十郎様が情けなく振る舞えば、柳川は内側から龍造寺のものになりましょうなあ」
 言いながらも、統光は笑っている。
「まあ、安心されてください。この統光がおります」
 そう言い切る従者の言葉に、鎮漣は肩をすくめた。
 蒲池家中での大木統光の評は、才無き姫若の傍仕えというくらいのものだ。だが、その実、古今東西あらゆる文物に親しみ、人前で剣の腕を見せることはほとんどないが、鎮漣の傅役を決める時、柳川の達人たちをまったく寄せ付けなかったとも言われている。
「心配はしておらぬ。それよりも、木綿栽培のことで頭がいっぱいだ」
 昨年の夏、柳川では流行り病があった。
 父がいない時だったため、統光の父が城代として事態の収拾にあたったが、崇久寺には連日、青白い骸が運び込まれていた。
 たまたま、京下りの医者が柳川にいた。水が汚れている。医者の言葉に従って、上流の水が大量に城下に運び込まれた。しばらくすると病は治まったが、医者は柳川城周辺の田畑を指摘し、これ、、を改めなければ今年の夏も同じことになると言って去って行った。
 それが、田畑の肥ともなる人糞の扱いだった。
 今は、田を持つ者がそれぞれ田畑の近くのいたるところに肥溜めをつくり、時にそれが柳川を縦横に走る水路に流れ込んでいる。
 鎮漣が木綿栽培を思いついたのは、戦から帰還した柳川の兵が、あちこちが裂け、汚れ切った戦装束に身を包んでいる姿を見た時だ。
 木綿は戦装束として破れにくく、各地で重宝されている。西海道では交易が盛んなこともあって朝鮮から運び込まれたものが使われているが、遠く三河(現在の愛知県東部)の地ではその栽培に成功したとも伝わってきていた。
 木綿の栽培には、米よりも多くの肥が必要となるため、肥をいかに上手く捌くかが要となる。細流を整えることが最重要の課題であり、成功すれば流行り病を防ぐ術にもなるだろう。
 なにより、木綿の価値は高く、戦続きで失われていくばかりの蔵の金の足しになるかもしれない。重い賦役に苦しむ民を、少しは救えるとも思った。
 統光の視線を振り切るように、鎮漣は前に出た。
 龍造寺の主従は、稽古が終わったところなのだろう。互いに片肌脱ぎとなって広庇に腰を掛け、晴天を眺めていた。こちらに気づいた隆信がにこりと笑い、立ち上がった。
「おお、十郎殿ではござらぬか。いや、お見苦しい姿だがご容赦くだされ」
 そう言って、隆信は厨の方に湯を大声で命じた。
 一木村に隆信が滞在してすでに半年ほど経ち、その印象は大きく変わった。以前は剛毅果断、人の弱みに付け込むことも厭わない冷酷な将と思っていたが、近隣の民に親しまれ、車座になって民と握り飯を手に笑いあう光景を見れば、噂がいかにあてにならないものかが分かった。
 人数分の湯を厨から運んできたのは、この館に仕える下女のようだった。
「姫は所労で臥せっておりましてな」
 隆信の言葉に、慌てて首を振った。
「いえ、本日は姫に会うために参ったのではありません。されど、所労ですか。後ほど薬を届けさせます」
「お気遣いかたじけない」
 微笑む隆信の言葉を遮るように、割り込んできたのは孫四郎だった。その表情は硬く、苛立ちさえ滲んでいる。
「何か重要なことがあったのでは?」
 もう少しだけ玉鶴姫の様子を聞きたいと思ったが、気持ちを抑え込み、頷いた。
「領内の普請に力をお借りしたく」
「普請ですか」
 想定外の言葉だったのか、目を丸くする龍造寺家の主従に、代わって統光が口を開いた。
「柳川では、これより木綿の栽培を始めるつもりでおります」
「それはまた大層なことですね。しかし成功すれば、なるほど、柳川が抱える問題を改められるかもしれませぬな。病を防ぎ、金を落とす仕組み」
 すました顔で続けたのは、湯を一口飲んだ孫四郎だった。わずかに、木綿と言っただけだ。伝わってきたのは、孫四郎の見識の深さと、柳川の状況を見抜く鋭い洞察力だった。
「しかし、ここ柳川では難しいでしょうね」
「孫四郎よ、なぜそう思う」
 隆信の言葉に、孫四郎が眉間に人差し指をあてた。
「人足が足りませぬ」
「ほう」
「十郎殿、蒲池家では人取りが禁じられていますね」
「はい。父が蒲池の家督を継いで以来、それは徹底されてきました」
 父が、奇特な武士とも言われる所以だった。
 戦となれば、敵の城を攻め落とすことを目指す。だが、城郭に入れなかったその地の民は、攻め寄せた軍によって捕らえられ、人買いに売られていくことが世の常だ。売らずとも、領国へ連れ帰り、人足として働かせる。そうして戦を続けながら、各地の武士たちは領内を整えていくのだが、父は人取りと呼ばれるそれらの行為を、一切禁じてきた。
 孫四郎の眉が寄った。
「それが蒲池様とも言えますが、それゆえ、領内が荒んでいることも否めません。これから田植えが忙しくなる時期に、民を動かすことはできますまい」
「それは、そうかもしれませぬ」
「責めてはおりません。私も人取りは嫌いです」
 孫四郎がかすかに笑ったようだ。
「木綿の栽培が上手くいき、そこから銭が得られるようになれば、田を捨ててでもやる者は出てきましょうし、その銭をもとに普請や戦のみに動員できる者を作ることもできるでしょう。ふむ。そうなれば強い兵もできそうですね。が、それは遠い先の話です」
 流れる水のように出てくる孫四郎の言葉に、鎮漣のみならず統光も驚いていた。歳は自分よりも二歳年長なだけだが、その口から出た構想は、今まで聞いたこともないものだった。
「木綿の栽培には、数年の年月がかかります。それこそ、我らがここから旅だち、佐嘉へ戻った後までかかることでしょう」
 短く息を吐き、孫四郎が衣服を整えた。
「殿、これは蒲池様の返答です」
 孫四郎が、隆信の方を向いた。
「婿引出として、城なき我らへのお心遣いでしょう」
 傍で、統光が微笑んだ。最初から、聞かされていたのだろう。玉鶴姫と鎮漣の縁談を進めるにしても、所領を持たない隆信には、婿引出を用意することもままならない。ゆえに、その知恵を代わりにせよと、父は伝えようとしたのだ。
 隆信が笑い声をあげた。
「なるほど、瀟洒なことをされるものだ」
 立ち上がった隆信が、鎮漣の前に立った。
「十郎殿と姫の縁談は、それがしからお父君に申し入れた」
「左様でしたか」
「孫四郎との立ち合いで見せた動きに、感じ入ったのだ。鎮漣殿であれば、龍家の姫を、大事にしてくれるとも思った。柳川と佐嘉が結べば、怖いものは何もない」
 朗らかな笑みは、隆信の端正な風貌も相まって眩しくさえある。
「戦の世といえど、己のために戦をしてはならぬ。戦をするならば、それは民の、この国の平穏のためであるべきであろう」
 笑みを収めた隆信の言葉に、鎮漣は息を呑み込み頷いた。
 民を犠牲にして戦っていた父に対して、いつも鎮漣が思っていたことだった。
「十郎殿。この先、戦の世はさらに大きなうねりを伴って荒々しくなる。ゆえにのう、それがしは水ヶ江を取り戻せば、肥前統一のために戦う。肥前が終われば、少弐や大友、島津らとの戦になりましょう」
 大友との戦になるということは、柳川蒲池とも敵になるということだ。鎮漣が口を開くよりも早く、隆信が木の床に足を踏み下ろした。
「些細なことです。十郎殿。それがしが目指すのは、西海道などという小さなものではござらぬ。大友、島津らを麾下につけ、京に打って出る。我らが摑むべきは、天下の泰平。柳川の民だけではなく、乱世全ての民が願っていることでしょう」
 震えるような空気が静けさを取り戻した時、鎮漣は鼓動が高鳴っていることに気づいた。
「壮大なお言葉です」
「誰かが為さねばならぬこと。だが、古き世から力を引き継ぎ、己の家のことしか考えぬ大名たちには、決してできぬことだ。十郎殿」
 呼びかける言葉から、熱が伝わってくるようにも感じた。
「我らが為さねばならぬことだ」
「我らが……」
 鎮漣の呟きに、隆信が力強く頷いた。
「姫を、守ってくだされ」
 全身が熱くなった気がした。
 隆信の言葉は、自分が考えてきたことが間違っていなかったのだと思えるものだった。玉鶴姫を守り、隆信と結ぶことで、父の無謀な戦から民を救えるかもしれない。
 幾千の龍造寺家の旗が風にはためく京の光景が目に浮かんだ。大友のぎよう葉紋ようもんや、島津の十字紋が並び、隆信の左右には、孫四郎と自分が控えている。民のために、天下を制する。夢幻のような光景だった。
 気づいた時には、鎮漣もまた頷きを返していた。

 紺糸こんいとおどしの甲冑に身を包んだ隆信が、二百の蒲池兵と共に一木村を出陣したのは、それから一年半後の天文二十二年(西暦一五五三年)七月、蟬の鳴き声が喧しい朝のことだった。
 傍に控えるのは、十六歳となった鍋島孫四郎直茂。彼らの見事な武者ぶりを、その姿が見えなくなるまで鎮漣は立って見送った。勝てば全てを取り戻し、負ければただ死ぬのみの大勝負だ。別れ際の隆信の豪快な笑い声が、鎮漣の耳から消えぬうちに、その報せは柳川の城下を沸き立たせた。
 龍造寺隆信の佐嘉城奪還——。
 筑後川を渡り、鹿江かのえとくについた隆信を待っていたのは、鍋島清房きよふさ率いる三千の兵だった。村中本家の弾圧から逃れ、各地で息を潜めて二年を過ごしてきた者たちが、隆信の再起に立ち上がったという。
 鎧を忘れた者もあれば、刀ではなく鋤を持って現れた者もいる。だが、皆が一様に隆信の帰還を待ち望んでいた。
 威徳寺に集った軍勢は、隆信の指揮のもと瞬く間に村中城を攻め落とし、蓮池城や周囲の支城を次々に落としていった。隆信の攻撃は苛烈を極め、かつて隆信を追放した者は、そのほとんどが首となった。
 身も凍り付くような強さだが、それでも続いて柳川に届けられた報せは、鎮漣を安堵させた。隆信の戦では、一切の人取りが禁じられ、兵として徴集されていた民は、その全てが赦されたという。
 隆信は、民の平穏を守護する者だ。その想いが、確信に変わったような気がした。
 夏が終わり、秋を越え、冬が過ぎた。
 天文二十三年(西暦一五五四年)の春。
 柳川城の枝垂れ桜が満開になった頃、賑やかな囃子に包まれた柳川に、佐嘉城から姫が一人送られてきた。瞳に湛えられた憂いは三年前と変わらない。父親譲りの美貌は、少し大人びただろうか。
 大書院で迎えた鎮漣を前に、玉鶴姫が見せたのはあまりにも小さな微笑みだった。

 

(第3回につづく)