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  七 鎮漣

 城内の大書院に兄鎮久の怒声が響いたのは、父宗雪が筑前の筑紫攻めの陣立てを伝えた時だった。
「なぜ、この軟弱者が先陣の大将など」
 庭の片隅にひっそりと揺れる笹から、鶯が慌てたように飛び立つ。
 あの緑色の小鳥のように、自分も逃げ出すことができれば、どれほど楽だろうか。いっそ逃げ出してしまおうか。鬼の形相でこちらを睨む兄と、あからさまに不安にさいなまれた老臣たちの顔を見て、鎮漣は口をつぐんだ。
 大人数を前にして、手に持った白扇が震えることは無くなった。
 この四年間、心身を傾けてきた木綿栽培が軌道に乗ったことは、ある種の自信に繋がったのだろうと思う。領内で生産される木綿は、まだ他国へ売り出すほどの量にはなっていないが蒲池兵の戦衣をまかなうには十分な量となった。細流を整えたことで夏場でも病が流行ることはほとんど無くなっている。
 老臣たちの中には、龍造寺隆信や鍋島孫四郎の助力があったからだと言う者も多いが、それでも構わなかった。誰が成し遂げたかではなく、民が救われればそれでいいのだ。
 民とともに泥まみれになった。爪の隙間は、いつも土で汚れていた。
 兄の鎮久などは、爪の汚れを嗤い、口うるさく刀の鍛錬をせよと言ってきた。それは兄上にお任せしますと、ことさら戦から逃げて来たのは、自分が領主として戦場に出て役に立つとは思えなかったからだ。戦が、嫌いだった。
 廃嫡すべきという声も、このところ父が無視できないほど大きくなった。
 領土を接する田尻親種ちかたねはもとより、一族である山下城主の蒲池麟久や、もとは鎮漣に目をかけ実の息子を傍に仕えさせている蒲池家宿老の大木鎮堯すら、鎮久を世継ぎにと言い出す始末だ。
 その流れ自体は、鎮漣の思惑通りだった。鎮久を当主に望む声を大きくするため、みずから猿楽に没頭し、遊興に耽るうつけという印象も植え付けてきた。
 それをどこで間違ったのか。短く息を吐きだすと、胡座する身体を父へ向けた。
「先陣の大将をそれがしが務めるのは、誰も得心しますまい」
 兄がよく言ったと言わんばかりに鼻を鳴らしたが、父の大きな瞳が険しくなったのを見て慌てて俯いた。
「儂の決めたことに、物申すというのか」
 静かな言葉は、怒りを堪えている証だった。居並ぶ老臣たちが口をつぐんだ。父宗雪の威容は、この一、二年でさらに増した。龍造寺隆信の庇護を大友家に認めさせ、龍造寺と縁戚関係を結んだことで、筑後での勢いは頭一つ抜けていることを誰もが認めている。
 だがそれは、蒲池家にとって禍福どちらに転ぶか分からないことでもあった。
「父上のお考えは理解します」
「ほう。いくばくかの政の才は認めよう。だが戦を知らぬお主が、儂の何を理解しているというのだ」
「鷹が生んだ鳶、蛙になれぬ蛙子と呼ばれ、老臣たちからも廃嫡を望まれるそれがしに、蒲池の家を継ぐに値する功名を得させようとされておられます」
 あからさまな苛立ちを見せる父を横目に、鎮漣は老臣たちを見渡した。
 誰もが断るべきだと鎮漣を見つめている。中には、憎しみの形相で見ている者もあった。戦にろくに出たこともない大将のもとでは手柄など上げようもなく、鎮漣が討たれれば、もろとも討ち死にするしかない。なまじ生き延びたとしても、処断されることが目に見えている。
 鎮漣が彼らの立場であっても、そんな大将の下で働きたいとは思わない。
 気持ちは分かると心の中で頷きながら、鎮漣は父へ身体を向けた。
「父上のお気持ちはありがたく存じます。されど、たびの戦、それがしの指揮によって蒲池の家が敗れれば、お家そのものが断絶の危機に陥りましょう」
 父の瞳の中に揺らぎが見えた。やはり、父も蒲池家の危うさを分かっている。押すべきはここだと思った。
「蒲池の柳川城は筑後でも、いえ、西海道でも随一の堅城です。戦に強く、大友家への忠誠厚い父上であればこそ、御屋形様は柳川を蒲池家に任せています。されど、その後継ぎが戦下手と知れれば、御屋形様は柳川を蒲池には任せておけぬと思われましょう」
 蒲池家がいくら忠義を尽くそうと、大友家にとっては外様の領主に過ぎないのだ。命じれば都合よく死んでいく。崇久寺に増えていく卒塔婆がそれを物語っているではないか。
 筑後が大友家の傘下にあるといえども、その支配に抵抗する者は少なくない。筑後南部の川崎や三池、溝口、ばるらは、かつて反大友勢力の急先鋒であったし、何より山下城の蒲池麟久の父親は、大友家の仇敵であった大内家と通じて筑後を混乱に陥れた張本人でもある。
 大友家への反骨心を忘れぬ者に、柳川城が落とされれば、大友家の筑後支配は一気に衰退する。
「その瞳は千里を見通し、策謀に長けること三国志時代の諸葛孔明のごとしと言われる御屋形様が、蒲池家の弱みを見逃すとは思えませぬ」
「お主の敗北ごときで、御屋形様が蒲池家を潰すなど、たわけたことを抜かすな。儂の忠義は御屋形様もよく知っておられる」
 言葉は強いが、それに見合うほどの勢いはない。やはり、父もそれを危惧している。
 言葉を重ねようとした鎮漣に、だが父が首を横に振った。
「此度の陣立ては、戸次殿によって決められたもの。拒むことは許されぬ」
 父の口からこぼれた言葉が、しんとした大書院にこだました。次の瞬間、老臣たちが騒めきだした。鎮漣自身、血の気が引くのを感じた。
 やはり、大友の御屋形様は蒲池家の正嫡がうつけであることを知っておるのだ。
 戦で負けさせて、柳川を召し上げようとしておるに違いない。
 いっそのこと、若君は所労(病気)ということにして、いやいや、むしろ鎮久様を若君と偽ってみてはどうか。
 もはやそこには、鎮漣への配慮などなかった。父も、それを止めるでもなく一座を見つめている。
 戸次道雪の雷名は、田の畦道を泥だらけで駆ける童でも知っている。大友宗麟と祖を同じくして、兵を率いれば生涯無敗、刀の一閃は雷を断ち、主君宗麟すら道雪の言葉には諾以外の返答を持たぬと言われる。それでいて主君への忠誠心は誰よりも厚く、大友家に仇なす者には味方であろうと容赦しない。
 倒れそうになる上半身に何とか力を籠めた鎮漣を見て、父が瞑目した。
「このことは、筑後衆にも知れ渡っておる。山下城の麟久や、鷹尾城の田尻親種らも出陣するのだ。鎮久を影武者に仕立てることはできぬ」
 鎮漣の不様な戦いぶりを筑後国衆は嘲笑うのだろう。
 父が、閉じていた目を開いた。
「負けることも、無様な戦をすることも許されん」
 老臣たちを睨みつけた父に、大書院の空気が張り詰めた。
「出陣は、六月。天拝山てんぱいざん城に籠る筑紫惟門を討つ」
 断が下れば、もはや老臣たちが否と言うことはできない。平伏する老臣たちの中で、鎮漣が見つけたのは、統光の不敵な笑みだった。

 流れの速い筑後川を渡ったのは、年が変わった永禄二年(西暦一五五九年)三月に入ってからだった。
 筑後諸城の兵をあわせれば五千にも及ぶ大軍であり、その中でも柳川勢は千二百の兵を率いている。蒲池家と田尻家が従える水軍衆が、二昼夜寝ずに働いた。泥のように浜辺で眠りこける益荒男たちに見舞いの兵糧を残すと、鎮漣は先陣の出発を命じた。
「駆けるぞ」
 傍で馬をかる大木統光が、小さく頷いた。
 急行軍だった。柳川から二日で筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)まで駆け、そこで筑後諸城からの軍を待つと、大友家の軍監を迎えた直後、筑後川を渡った。
「謀神の掌の中ということか」
 そう呟くと、鎮漣は春の淡い緑色の芽吹きが広がる筑紫野を正面に見据えた。平野の左右から迫り出す山嶺には、斑雪はだれが見える。兵を埋伏させるには、絶好の場所だと思った。
 筑前筑後勢で、至急、筑紫惟門を討つべし──。
 年が明けて、豊後から届けられた書簡は、大友家中の狼狽が伝わってくるようだった。
 大友家はいきなり四方に敵を抱えたような状況になっていた。
 一月、佐嘉城の龍造寺隆信がかつての主である少弐冬尚ふゆひさを攻め滅ぼし、東肥前を手中に収めた。つづく二月には天拝山城の筑紫惟門が博多に兵を繰り出し、大友家の代官を討っている。惟門の略奪は激しく、博多に停泊していた唐船も湊を離れたという。
 筑紫惟門の居城から博多は目と鼻の先の距離であり、明との交易が生む莫大な富を考えれば、惟門の動きは予想の範疇だ。なにより、少弐冬尚の討伐については、大友宗麟が裏で手を回した気配さえある。
 宗麟にすれば、龍造寺に貸しを作り、きたる毛利との決戦に向けて味方を増やすつもりだったのだろうが──。
「策士、策に溺れるとはこのことだな」
「十郎様、声を落とされてください」
 統光の厳しい言葉に、鎮漣は力無く首を振った。
 大友家を狼狽させたのは、毛利元就の神速の動きだった。
 元就が本拠とする安芸を出陣したのは二月初め。三人の息子、隆元、吉川元春、小早川隆景を従え備中(現在の岡山県西部)へ攻め入った元就は、わずか一月の間で備中全土を平定してみせた。毛利家の凄まじい侵攻は、伊予国の村上通康むらかみみちやすという水軍の大将の助力も大きく、それはそのまま、毛利家が海を越えて豊前に攻めてくる力を得たことを意味していた。
 筑紫の動きは元就に呼応するもので、宗麟が裏で糸を操っていたはずの龍造寺もまた、大友家へ明確に敵対していた。
「隆信殿が、いずれ御屋形様に叛くことは分かっていたが……」
 水ヶ江を奪還する直前のことだ。鍋島孫四郎を横に龍造寺隆信は、はっきりと権門を否定した。少弐や大友、島津を滅ぼさなければ、次の時代はこない。あの男はそう言った。その姿に、憧れに似た思いを抱いたのだ。
「だが、私にはまだ道が見えぬ。毛利殿を味方につけたとしても、西肥前を統一しただけの隆信殿では、大友家に打ち勝つことができるとは思えぬ」
「柳川が味方をすれば、いかがです?」
 探るような目を向けてきた統光に、鎮漣は首を振った。
「隆信殿の志は理解するが、今のこの状況では柳川がついたところで無理だ。大友家の底力は侮れない」
 口ではそう言ったが、何かが喉の奥に引っ掛かっていることも事実だった。龍造寺隆信は勇敢な武士だが、決して無謀ではない。孫四郎は、輪をかけて周到な将だ。彼らが、迂闊な手を取るとも思えなかった。    
「では、奥方様の監視は引き続き?」
 統光の言葉に、鎮漣は一つ頷いた。
 玉鶴姫がひそかに佐嘉への書簡を送っていることは知っていたが、鎮漣には、あえて隆信と敵対するつもりもなかった。それは同じく大友宗麟に対しても言えることで、柳川の民を守ることのできる道を、自分はひたすら行くだけだ。
「そろそろ、心中を打ち明けられても良いかと思いますが」
 呆れたような声の統光に、鎮漣は鼻から息を抜いた。
「それができるならば、苦労はしない」
 初めて見た瞬間、玉鶴姫の瞳に惚れてしまったのだ。
 夫婦となった今も、まっすぐに向きあえば、出会いの瞬間を思い出して口が回らなくなる。玉鶴姫が、自分を侮っているのは知っている。侮り、手玉にとれると思っていることを知っている。であればこそ、認めてもらいたかった。
 対等な思いとなった時、自分の想いを告げたかった。
「まあいい。隆信殿も、しばらくは少弐の残党と対峙することになる。大友の脅威にはなるまい。目下、考えるべきは毛利殿と筑紫殿といかに戦うかだ」
 いまや毛利元就は、長門、周防、安芸、備後、備中の五か国を制し、旧大内領以上の版図を手にしている。毛利家と全面対決となれば、西海道随一の兵力を誇る大友家といえど、死力を尽くした戦いとなる。戸次道雪、吉弘鑑理よしひろあきただうす鑑速あきはやら大友家の誇る三老を中心として、急速な編成替えが行われていた。
「皺寄せで戦わされる身だ。愚痴もこぼしたくなる」
「大友家が毛利に敗れれば、柳川の平穏は一夜にして崩れ去りましょう。筑紫勢は三千程度。兵力で考えれば、筑後勢だけでも十分に勝ち目はあります」
「そうは言うが、統光。筑紫殿との戦は容易ではないぞ」
 馬上、隣を進む統光が、おやという表情をして鎮漣の方を向いた。
「大殿や山下城の麟久様は一揉みに潰すと軍議では威勢よくおっしゃられていましたが。十郎様はどう読まれているのです?」
「船頭が多すぎる。父や麟久殿のみならず、田尻殿、それに久留米のもんちゆうじよ殿、いずれも戦場では比類なき武士だろうが、それは戸次殿のような総大将の指揮を受ければこそ。我が家はただでさえ、兄上が張り切って兵を追い立てている」
 先陣の大将を鎮漣に奪われた鎮久の兵は、鎮漣よりも半里ほど先で土煙を上げている。筑後の国衆だけでなく、その内部でも指揮が乱れているのだ。
 この戦は、負けるかもしれない。言葉にはせずとも、心中の不安は顔に出たようだった。
 統光が周囲を見渡して苦笑した。
「一軍を率いる方が、不安を表情に出してはなりませぬ。十郎様であれば大丈夫です」
 呑気な声だった。何を根拠にと言いそうになって、鎮漣は口をつぐみ、前を見据えた。統光の買いかぶりは今に始まったことではない。
 今も、鎧の下は汗でじっとりと濡れているのだ。敵が現れれば、失禁するかもしれない。それほどに張り詰めている。歯を食いしばり、鎮漣は馬腹を蹴った。

 軍議が招集されたのは、天拝山城まで三里約十二キロメートルの距離となった時だった。
 とうと呼ばれる谷間の地勢を見て、鎮漣は心が冷えた。味方は筑前と肥前の兵を加え一万を超えるほどに膨れ上がり、侍島の狭隘な土地にひしめき合っている。ここで挟撃されれば、逃げ場を失い全滅しかねない。
「せいぜい千か二千しか動かせないか……」
 西北に見上げる天拝山城を見て、鎮漣は唸り声を上げた。
 筑紫惟門の籠城する天拝山城は、その中腹と麓に飯盛城と堂上城という二つの支城を持つ天然の要害であり、一つずつ攻略していかなければ辿り着かないのだ。
 先陣で戦う兵は、それこそ死に物狂いで戦うだろう。だが、侍島で遊軍となる八千ほどの兵は戦が長引くほど、緊張が薄れていく。
 天幕に集まった諸将の中央には、大友家から派遣されてきたとうぎようぶのじようという柔和な顔つきの男が床几に腰かけていた。蒲池麟久、田尻親種、ほし鑑泰あきやす、問註所鑑晴あきはる、犬塚尚家らが並ぶ末席に鎮漣は腰かけた。
「筑後諸将の奮戦に期待する。歴戦の各々方であれば、赤子の手を捻るようなものであろう」
 そう言って剛毅に笑う刑部丞に、鎮漣は頭を抱えた。
 自分が戦を分かっているとは思わない。戦場に出たことがないのだ。その経験の無さは自覚している。だが、少なくとも大将然として居座りながら、道理にかなわぬことを平然と言い放つこの男よりはましだ。
 そう思って周囲を見回したが、筑後勢の中に刑部丞へ物申す気配はない。誰もが刑部丞の背後に大友宗麟の姿を見ている。下手に声を上げて睨まれまいとする空気が漂っていた。
 不意に、怒りが腹の底から湧き上がってきた。
 兵を率いるとは、民を率いるということだ。であればこそ、率いる大将には兵を死なせない務めがあるのではないか。怒りは、何も言葉を発しない父へ対するものでもあった。
 話が陣立てへと移っていく。
「柳川の蒲池殿には、本陣を固めていただきたい」
 刑部丞の言葉に、父が静かに頭を下げた。
 筑後諸将が苦々しげな表情をしたことを、鎮漣は見逃さなかった。本陣の守りとなれば、流す血の量も少なくなる。
「それがしは本陣を固めますが、兵は二つに分けましょう。十郎、堂上城攻めの陣に入れ」
 父のその言葉で、筑後勢の顔がいくらか和らいだ。
 筑後勢の中でも大友家への忠義に厚い父が、本陣の備えを承知したことに安堵したのだろう。それ以降、刑部丞が口を開くことはなく、話は堂上城をいかに攻めるかに移っていった。途中、山下城の蒲池麟久がせめて天拝山城の背後に広がる振山ふりやまへ、兵を分けるべきだと口にしたが、時がかかりすぎると問註所鑑晴に一蹴された。
 軍議が終わったのは、夜も更けた頃だった。自陣に戻った鎮漣は、木陰に大木統光を呼びつけた。
「統光、どうすればいい」
 自分でもそうと分かる不安な声だった。
 蒲池麟久とともに、鎮漣は堂上城攻めの第二陣に振り分けられた。第一陣の兵は田尻親種率いる千二百、第二陣の兵が千八百。残る七千が、づめとして本陣を固める形だ。だが、決まっているのは編成だけで、いかに戦うかは諸将任せなのだ。
 このままでは、負けるとは言わないが、天拝山城どころか堂上城を攻め落とすこともままならないのではないか。昔から、不利な状況だけはよく目についた。目についてきたからこそ、逃げることも多かった。
「これが私一人であれば、今すぐに逃げ出している」
「十郎様の逃げの目利きは信頼に値しますからな。頭の隅に置いておきます」
「父や麟久殿は勝てると踏んでいるのかな」
 自分が抱く不安は、単に戦の経験が少ないからなのか。何を不安に思っているのか、言葉にできないもどかしさがあった。
 戦端が切られたのは、三月二十八日の早朝だった。
 喊声を上げて山道を攻め登っていく第一陣の勢いは、さすがに目を見張るものがあった。筑後でも蒲池両家に次ぐ勢力を誇る田尻親種は、第二陣の蒲池家に功を譲ってなるものかという思いもあるのだろう。
 田尻勢の突貫を見て、第二陣では兄鎮久が今か今かと槍をしごき始めた。
 一族の蒲池麟久が突撃の号令を下したのは、正午を越えてからだった。木立の中の急斜面を駆けのぼるだけで、体力がごっそりと持っていかれる。木立の隙間からさす陽の光に誘われ、ふらふらと飛び出した鎮漣は、あっと声を上げた。
 無数の矢が、空を暗くしていた。後ろから思いきり引っ張られ、木陰に押し込まれた。統光だ。
「死にたいのですか」
 恐ろしい声音に、首を竦めた。矢が途切れたその瞬間、麟久の号令が響いた。鎮久が飛び出していく。負けじと、千七百の兵たちが横に広がって木立から飛び出した。石垣があるが、六尺ほどの高さで、登りきったところにあるのも粗末な木の柵だけ。
 その向こう側にいる筑紫兵は五百ほどだろうか。
 勢いのままに勝てるかもしれない。そう思った時、鈍色の輝きの中に、黒く細い煙がいくつも立ち昇っているのが見えた。鉄砲。認識するよりも早く、天地を揺るがすかのような音が戦場に響いた。
 敵が鉄砲を備えているなど、田尻勢からの報せはなかった。今まで隠していたのだ。ばたばたと倒れていく味方をあざ笑うかのように、城壁の向こうでは鉄砲衆が後退し、代わりに前面に出てきた兵が弓を引き絞っている。
 下がるべきだ。恐怖からの判断か、理にかなったものなのかなどどうでもよかった。すぐにでも背を向けて逃げ出したい。聞こえたのは、麟久の撤退を命じる怒声だった。
 すぐ傍で、背に矢を喰らった兵が倒れ込んだ。まだ息はある。咄嗟にその腕を掴み、鎮漣は引きずるように木陰まで運んだ。右足にも銃創があるが、弾は抜けているようだった。
「息を止めるな」
 両翼に弓を間断なく撃たせ、鎮漣は徐々に後退を命じた。
 撤退の最中も矢玉で背を撃たれ続け、その日の戦死者だけでも三百を超えそうだった。
「叔父上、柳川蒲池勢を、背振山に向かわせてください」
 鎮漣が蒲池麟久に進言したのは、その日の夜だった。
「軍議で叔父上が申された策でしか、この城は落とせませぬ」
 鎧の上からでも体躯の逞しさが分かる。向かい合うだけでも怖かったが、鎮漣以外に進言できる者もいない。拳を握りながら、麟久を見上げた。
 軍記物語に出てくる荒武者のような麟久が、太い眉を吊り上げて唾を飛ばした。
「ここから逃げ出したいと申すか」
 恥を知れという麟久の怒声に、なにごとかと筑後勢が集まってきた。少し離れた場所で燃える松明が、ぱちりと弾けた。衆目を集める中、鎮漣は鼓動が速くなるのを感じて、拳を握りしめた。
「それは軍議で却下されたはずだ。蒸し返すな」
「されど」
「されどもくそもあるか。じき、敵の矢も玉も尽きる。背振山へ軍を割いたとしても、今からでは、背後に回り込むのには五日ほどもかかるわ。それまでに正面から落とせる」
「あまりにも犠牲が大きくなりすぎます」
 喉がつまるように感じながら、何とか絞り出した言葉に、だが麟久が見せたのは悲しげな表情だった。
「お主は救いがたい臆病者だな。この戦で変わるかと期待しておったが、たった一戦で腰が砕けたか」
 心配して集まってきた者たちも、怒声を浴びているのが鎮漣だと気づいて得心したようだった。やはり柳川のうつけか。嘲笑混じりの声が聞こえてきた。
 違う。いや、臆病者というのは間違ってはいない。甘んじて受け入れる。だが、このままでは味方は負ける。そう口にしようとした鎮漣は、横面に衝撃を感じて目を閉じた。
「話にならぬ。かりに別働隊を編成するとしても、敵か味方かも知れぬお主に任せるはずがなかろう。大友にそむいた龍造寺の姫などに惚れくさりおって。大友の御屋形様の敵ではないか。お主のようなうつけでは、いずれ毒婦に殺されることになろうな。ただで柳川を手に入れる龍造寺も楽なものよ」
 吐き捨てるような言葉に、思わず麟久に詰め寄っていた。すぐ目の前に、叔父の顔がある。怒りをあらわにすることなど、これまでなかった。だが、玉鶴姫の罵倒を耳にした瞬間、全身の血が煮えくり返っていた。
 お前に何が分かるのだ。大友に離反した龍造寺家の姫として、今もっとも不安な場所にいるのは玉鶴姫自身なのだ。疑われれば、磔にされてもおかしくない。そんな中で、鎮漣の身を案じてくれた。
 麟久は戦を好み、諸国の武芸者に教えを乞うては己のものにする刀の達者だ。統光が鎮漣の前に出ようとした。
「統光」
 咄嗟に止めていた。眉間に皺を寄せる統光をちらりと見て、麟久が嘲笑した。
「主が臆病者だと、家臣も軟弱になるようだな」
「私を罵倒するのは構いませぬ。されど、統光を侮辱することは許しませぬ」
「ほう。許せねばどうするというのだ」
 見下ろす麟久の顔には、にやにやと笑みが張り付いている。
 許さない。拳をゆっくりと開いた刹那、篝火が派手に倒れた。兄の鎮久だった。
「麟久殿、許されよ」
 いつになく神妙な顔つきの兄が近づいてきた。二度、鎮久に殴られた。
「それがしより、よく言い聞かせるゆえ、この場はおさめてくだされ」
 なお物足りなそうな表情をしながらも、麟久が舌打ちをした。
「明日以降の戦、臆病風に吹かれたら後ろから矢が飛んでくると思え」
 兄が助けてくれたのか。
 荒々しい音とともに麟久が消えた後、集まっていた筑後の諸将もそれぞれの野営地に戻っていく。残された鎮久が、鬼の形相で鎮漣を睨みつけていた。
「十郎、どういうつもりだ。貴様の立場は分かっておろう。麟久殿の言葉通り、大友に叛いた龍造寺との繋がりある我らは、誰よりも果敢に戦わねば僻目で見られる。それは、貴様自身の言葉でもあったはずだ」
 あのまま続けていれば、麟久に討たれていたかもしれない。そう思うと、項垂れるしかなかった。
「申し訳ありませぬ」
 思いのほか出た素直な言葉に、鎮漣よりも兄の方が驚いたようだった。
「されど兄上。このままではお味方は負けます」
「まだ言うか」
「私が筑紫殿であれば、ただ籠城する策は採りませぬ。外に味方があればこそ、籠城戦は勝ち目が出ます。されど、筑紫殿に呼応しうる龍造寺家は西肥前の掃討に追われ、宗像の社人しやにんたちは毛利の援兵なしに動くことはできません」
「城外で戦っても勝ち目なしとの判断であろう。筑紫惟門には戦の経験はほとんどない」
「筑紫殿は、一時とはいえ毛利家に身を寄せ、謀神の戦を傍で見てきたのです」
 息を一つ飲み込み、鎮漣は深く息を吐いた。
「私であれば、天拝山城の後背にある背振山を伝って兵を送り、侍島の大友軍の本陣を狙います。侍島は狭隘な土地です。少数であろうと、夜襲でひとたび混乱に陥れば──」
「十郎様」
 鎮漣の言葉を遮ったのは、立ち上がり、埃を払った統光だった。
「お味方の敗北を口にする者は、疎まれます。お気をつけください」
 低く厳しい口調だが、その表情は鎮漣の言葉に喜びを隠しきれていない。戦を嫌う鎮漣が、戦況を見極めようとしているからだろう。鎮久が考え込むように腕を組み、大きな舌打ちをした。
「儂はもう寝る。十郎。明日までに、性根を入れ替えよ」
 鎮久が幕舎に戻ると、木立の中に二人、残された。
「先ほどは、なぜ私を止めたのです?」
 呟いた統光に、鎮漣は力無く首を振った。
「お主では、叔父上を殺しかねないだろう」
 筑後中から鎮漣が罵倒されているがゆえに、傍に仕える統光もまた懦夫だふと見なされている。だが、刀を抜けば、麟久が束になっても敵わない腕を持っているのだ。その力を、存分に使えていないのは、自分の力不足だと思った。
「すまぬ」
 敵の動きが変わったのは、そう呟いてから三日後のことだった。
 四月二日の夕暮れ時、鎮漣は心臓を鷲掴みにされたような感覚の中で、柳川蒲池勢に全軍前進を命じた。
「一歩たりとも退くな!」
 退けば、そのまま戦場の土くれとなる。直感がそう叫んでいた。
 狙われたのは、第一陣の田尻親種が退いた瞬間だった。
 連日、夕暮れと共に戦は中断していた。同士討ちの可能性もあり、何より兵数で劣る筑紫勢にとって、夜は休息の好機だった。
 田尻勢にはその油断があった。城門が開き、雪崩のように駆け下りてくる筑紫勢に、いとも容易く追い散らされた。さすがに親種自身は踏みとどまっていたが、時の問題に思えた。第二陣の麟久もすかさず前に出たが、陽が沈む直前のことで鎧を脱いでいた者も多い。
 堂上城だけではない。駆け下ってくる筑紫勢は千を超えている。飯盛城からも兵を回しているのだろう。
 不意に、背筋が凍った。筑紫惟門の手兵は三千のはずだ。ここで勝負を決めるつもりであれば、全軍を投入してきてもおかしくない。
 残る二千の兵はどこにいる。
 背後を振り返ろうとした時、前線で敵に囲まれた兄の姿が見えた。
「統光、兄が」
 咄嗟に駆けだしていた。遅れて統光が駆けてくる。必死だった。前に出ようとする蒲池勢をかき分けるように前に前に進む。落ちている槍に目がついた。拾い上げ、渾身の力で投げた。断末魔の叫びが響き、筑紫兵がはじけ飛ぶ。
「十郎様、それがしが」
 そう残した統光が、鎮漣を追い越して敵兵の中に躍り込んだ。次々に血煙があがり、見る間に鎮久の周囲から敵が減っていく。その隙に、蒲池兵が隊列を組み、鎮久と統光の前でやりぶすまをつくった。
「右手の森に逃げよ」
 敵と対峙しながら木立の中に駆け込んでいく。先に駆け込んだものがその場で反転し、敵を妨害していく。生き残っているのは、四百ほどだろうか。頼りない木立をへだてて、同数ほどの敵と向かい合う格好になった。追ってはこない。
 すでに山道の麓では田尻勢や麟久勢が散々に追い立てられていた。陽が完全に沈み、周囲が闇に包まれたのを待って、鎮漣は兵を率いて駆けだした。明かりはつけるな。統光の声が響く。
「侍島に駆ける」
 統光が頷く。
 父と柳川勢が危ない。頭の中を巡るのは、それだけだった。開戦から五日、侍島の本陣は総大将である佐藤刑部丞からして大軍を恃み、酒盛りに興じていたという。父がそこまで油断するとは思えないが──。
 道なき道に足を取られながらも、必死で走った。刀を振る体力さえ残っているか怪しい。
 闇夜に、無数の銃声が轟いていた。味方のものではないことは確かだった。
 森が途切れる。兵と手負いの鎮久を待機させ、鎮漣は統光と二人で木陰を進んだ。
「十郎様、これは……」
 侍島に置かれていたはずの本陣は、地獄絵図と化していた。
 大友家の杏葉紋の入った天幕は無惨に引き倒され、首のない鎧武者の骸があちこちに転がっている。数百、いや千を超える骸が地面に折り重なるように倒れ、谷間には血の霧が立ち込めているようにも見えた。
 城攻めの第一陣、第二陣が追い立てられて、侍島の本陣に雪崩込んだところで、左右に埋伏まいふくしていた筑紫勢が本陣へと襲い掛かったのだろう。天拝山城から五日かけて、敵は背振山を越えてきたのだ。
 戦場のいたるところで筑後勢が追い立てられ、筑紫勢の槍の餌食となっていた。
「味方を救いながら、退く」
 それがいかに至難の業であるかは分かっていた。これだけの敗北となれば、山野に隠れる野武士たちは筑紫側につく。三千の筑紫勢は、明け方になれば五千にも一万にも膨れ上がる。それまでに筑後川を越えなければ、全滅もありえた。
 筑紫兵の背を討つように兵を動かした。逃げる筑後勢を吸収しながら、その数が千を超えたところで、鎮漣は安堵の息を吐きだした。
 血まみれではあるが、父宗雪が仁王のような姿で駆け込んできたのだ。
「十郎、よくぞ」
 その言葉を遠くに聞いた時、鎮漣は視界が暗転した。

 再び瞼を開いた時、緩やかな川の流れの上にいた。柔らかな陽が傾き始める。筑後川を渡る船の上で聞かされたのは、俄かに信じがたいほどの大敗だった。
 総大将として大友家から遣わされた佐藤刑部丞をはじめとして、問註所鑑晴、犬塚尚家、星野鑑泰ら筑後肥前の名のある者たちのほとんどが討ち取られていた。兵の損失はさらに大きく、三千以上が侍島の露となっていた。
 殿の位置となった田尻勢と麟久勢の被害はもっとも大きく、一族からも数えきれないほどの死者が出たという。
「これで、戦乱はさらに深くなる」
 龍造寺や筑紫の勢いは、ここからさらに増す。そしてその背後には毛利元就という難敵が控えているのだ。気性の激しい大友宗麟は、毛利に与した者たちを許さないだろう。すぐにでも報復の戦が始まる。
 柳川の平穏は、いつになったら、どうすれば訪れるのだろうか。
 逃げる蒲池勢を追ってきた野武士だろうか。百ほどの兵が、川岸で弓を引き絞っている。
 大友家に従うことが、柳川の民にとって良いことだとは、到底思えなかった。
 勢いなく空を飛んでくる矢を見つめ、鎮漣は口を強く結んだ。

 

(第5回につづく)