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   八 宗顕

 とがった石が、使い古した足袋を突き破ったようだった。
 思わずうめき声をあげて、宗顕そうけんは慌てて右足を抱えて道に座り込んだ。京からの旅の途中、博多で購ったばかりだったが、粗悪な品を掴まされたのだろうか。舌打ちをしかけて、心配そうに宗顕の顔を覗き込むりんに気づき、強がった笑みを浮かべた。
「大丈夫じゃ、りん。心配するでないぞ」
 そう嘯いて足袋を脱ぐと、足の裏から血が流れていた。嘆息を呑み込み、宗顕はりんにも道の脇で休むように言った。肩で切りそろえた黒髪を揺らし、りんが両膝を抱えて岩の上に腰を下ろした。疲れているのだろう。言葉を発することもなく、りんが俯いた。頬が赤く膨らんでいる。
「もう少しの辛抱じゃ。あと四日もすれば、柳川に辿りつく。ついたら腹いっぱい食わせてやるからな」
 機嫌を取るようにやさしく言葉を発した。
 りんは、宗顕が四十を超えて生まれた子だった。
 六歳になったばかりの娘に、過酷な旅をさせていることに忸怩たる思いがある。すまないなと心の中で呟き、足袋を新しいものに替えた。
 猿楽師として柳川に招かれたのは、昨年の暮れのことだった。
 京の猿楽一座の長男として生まれたが、生来の隻眼のために後継者には選ばれないことは分かっていた。華々しく活躍する弟たちを見上げながら、それでも父祖から受け継いだ猿楽の技は磨き続けてきた。腕で劣ると思ったことは一度もない。
 だからこそ、柳川からの誘いがあった時、飛び上がらんばかりに驚喜した。りんの母が流行り病で死んだ直後のことだ。金さえあれば、医者に診せることができたはずだった。京に居続けても、弟の子どもたちのように、りんに贅沢させてやることもできない。母のように、病で死なせてしまうかもしれない。そう思えば、戦の絶えない道中でも、歯を食いしばって進むことができた。
 山陽では毛利元就という安芸の大名が、あちこちに兵を出して、情け容赦のない戦を繰り返していた。道中、一歩森の中に足を踏み入れれば、腐臭がそこかしこから漂っていた。戦によって死んだ者の腐った臭いだ。震えるりんを背に負って、歩いてきた。
 芸人というのは、京でこそ持て囃されもする。大名のお抱えともなれば、そこらの百姓が一生かかっても手にできない富と名誉を手に入れることもできる。だが、そうでなければ日々の食い扶持にも事欠き、蔑まれもする存在なのだ。
 隠れるように進んできた旅も、柳川に辿りつけば、全てが変わる。りんにも楽をさせることができる。そう期待を胸に抱いてきた宗顕だったが、足止めされた博多で嫌な噂を聞いていた。
 四月、鎌倉以来の名門である大友家が、天拝山城の筑紫惟門と戦い、大敗した。戦の勝敗は時の運もある。勝敗自体に驚くことはなかったが、敗れた大友軍の中に、宗顕を招いた柳川の蒲池家がいた。
 惣領である蒲池宗雪は大友軍の総崩れを防ぎ、筑後の盟主としての面目を保ったという。だが、宗顕を招いた蒲池鎮漣という後継ぎは、戦に敗れるきっかけを作ったとして、そのきようぶりが嘲笑混じりに噂されていたのだ。
 鎮漣のお抱えとなったとしても、すぐに滅びるかもしれない。そう思うと、不安で押しつぶされそうだった。
「路銀も残りわずかか」
 巾着の中を覗き込み、宗顕はため息をついた。
 とんだ貧乏くじを引いたのではないだろうか。怖気とともにこみ上げてくる考えを押し殺し、宗顕は立ち上がった。ここまで来たのだ。京に戻るにしても、路銀を稼ぐ必要がある。柳川の蒲池鎮漣が、武士として見込みが無さそうであれば、早々に他の領主の元に逃げ込むことも考えなければならない。
 幸い、西海道には大友や島津といった数寄すきを解する家もある。
「りん、そろそろ行こうか」
 母を失ったばかりの我が子に、無理な旅をさせてしまったのだ。少しでも心落ち着く場所を与えてやりたかった。
 柳川に入ったのは、六月に入ってからだった。博多からは一月かかっている。龍造寺と筑後は敵対しているという話で、ともすれば間者と疑われかねない出で立ちだったが、娘と二人連れということで、厳しく咎められることはなかった。
 りんの手を引いて城下に入った宗顕は、思わず水堀を覗き込み、澄んだ水面に感嘆の声を上げた。
「これは、見事な町じゃのう」
 京から柳川まで、数多くの城下町を見てきたが、柳川ほど清潔な町は無かった。町中を縦横に走る水路は、淀むことなく流れ、水堀に漂いがちな悪臭もない。なにより、行き交う人々の身ぎれいさが、嬉しかった。木綿織の小袖は流行りを取り入れているようで、様々な模様に染められている。それだけでも、柳川の町の豊かさが伝わってきた。
 博多で聞いた嫌な噂によって落ち込んでいた心が、勇気づけられた気がした。
 用意されていたのは、おうしゆうこうに面する旅籠だった。食事を出す宿は、珍しい。それこそ、博多や大坂など、金を持っている商人の町にしかない。
 運ばれてきた膳を見て、りんが嬉しそうな表情をしていた。
「ちと、よいか」
 旅籠の主人を呼び止め、宗顕は紐を通した三十文を握らせた。まだ若い男だが、足を悪くしているのだろう。右足を引きずるようにしている。
「京から長旅をしてきたゆえに、筑後の世情に疎くてのう」
 旅籠を用意したのは、鎮漣の傍仕えである大木統光という男だった。主人もまた、繋がりがあるのだろうが、城下での鎮漣の評判を知りたかった。
「ここの殿様は、いかなるお人か?」
 主人の表情は明るく、笑みが浮かんでいる。
「ははあ、さては御老公、心無い噂を耳にされましたな」
 不安な表情は隠していたつもりだったが、慌てて首を振った宗顕に、主人が二、三度頷いた。
「ご自身の目で見てもらうのが一番だと思いますがね。柳川の大殿様は、義心鉄の如しと謳われる名将。されど、その嫡子は鷹が生んだ鳶と、筑後では有名でございます」
「博多の町でもそのようなことを耳にしましてのう」
「手前などは、童の頃の殿を存じております。風に煽られれば地面につまずき、刀は重くて振るうことができない。書には、墨で落書きばかりのうつけ殿。柳川の者は、一度は耳目にしたことがあるでしょうな」
「では、噂は真のものだと?」
 一気に胸中に不安が広がった。主人が首を左右に振った。
「この柳川の町で、殿を嫌う者はおりますまい。柳川の水をご覧になったでしょう。ほんの数年前までは汚く濁り、夏になれば疫病が流行っておりました。されど、殿が民と共に泥にまみれて普請をなされて以来、一度も病はでておりませぬ」
 政には長けているということなのだろうか。束の間、安堵しかけて、宗顕はかぶりを振った。戦乱の世、政の才だけで領主として認められるほど甘くはない。戦の才が無ければ、領民に殺されることもあるのだ。
 口を固く結んだ宗顕に、主人が紙に包まれた焼き菓子を手渡してきた。
「松風です。りん殿に」
 そう言って、主人が笑った。
「明日、崇久寺に行かれるがよろしいでしょう。殿が猿楽を披露されます」
 若殿自らが──戦に弱いばかりか、猿楽に溺れているという噂もある。主人の背を見送った宗顕は、唸り声が自分の口から出ていることに気づいた。
 翌朝、旅籠の主人に教えられた道を通って、崇久寺に足を運んだ。近づくにつれて、賑やかな人だかりで道が混みあっている。りんの小さな手を離さぬように進み、なんとか境内に用意された舞台が見える場所まで近づいた。
 城の方角から、先触れの騎馬武者がやってきたのは、陽がやや傾き始めた頃だった。
 民の歓声があちこちから聞こえてくる。しばらくすると、十騎ほどに守られ、高い身分と思しき若い武士が現れた。目鼻立ちははっきりとしており、黒い肩衣を身にまとっている。貴公子然とした出で立ちで、武士の荒々しさは全くと言っていいほど感じ取れない。
 あれが、蒲池鎮漣か。
 口にこそ出さなかったが、宗顕は胸中に失望が広がるのを感じた。身体つきも武士とは思えない。京で武士の真似事をする若い公家の方が、よっぽど頼もしく見える。
 ただ、民からは好かれているのだろう。集まった者のほとんどが、屈託のない笑顔を鎮漣に向けている。
 注意深く辺りを見渡した宗顕は、崇久寺を囲む武士の表情に嘆息した。民とは対照的に、舞台にあがった鎮漣を苦々しげに眺めている。中にはあからさまに舌打ちしている者もいた。
 領民に好かれていても、麾下の武士から見放されているようでは、すぐに首と胴が切り離されるだろう。鎮漣には腹違いの兄がおり、武士の忠誠は兄に向かっているとも聞く。当主である蒲池宗雪が死ねば、代替わりで変事が起きるかもしれなかった。その時、鎮漣に肩入れしていれば、宗顕も巻き込まれかねない。
 柳川に落ち着くことはできないかもしれない。いざという時、逃げ出す備えは整えておかねばならないと思った。
 りんの頭を優しく撫でた。りんの小さな手が、宗顕の手を掴む。柔らかな手に、左手を重ねた。この子を守るために、郷里を捨てたのだ。
 猿楽を披露し終えた鎮漣が、境内の馬場に宗顕を呼び出した。りんを連れていくか迷ったが、一度旅籠に戻る暇もない。連れだって赴くと、先ほど見かけた目元の涼しい武士がいた。微笑みを浮かべ、宗顕を迎え入れた。
「遠路はるばる、よくぞ参られた」
 丁寧な言葉遣いに無言で応じると、鎮漣がりんに視線を向けた。
「柳川の童たちは、舟を水路に浮かべて遊ぶ。暑い日などは、すこぶる心地よいものだ。柳川に慣れた折にでも、用意させよう」
 自分に話しかけられたことは分かっているだろうが、これまでの道中、一目で芸人とわかる宗顕たちに、ここまで親しげに話しかけてきた武士はいなかった。身体を強張らせたりんに、鎮漣が苦笑し、どこに隠し持っていたのか、抱き人形を取り出して、りんの手に持たせた。
「じき、館を用意させる。宗顕殿、明日にでも早速宴をひらきたい」
 騎乗した鎮漣に深く頭を下げた。軽やかな蹄の音を頭上に聞きながら、りんを見ると、抱き人形を大事そうに握りしめている。
 誰にでも分け隔てなく接するからこそ、民から好かれているのだろう。だが、裏を返せば、戦乱の世で特権意識を持つ武士への否定でもある。
「自らの目で見よ、か」
 旅籠の主人の言葉を思い返した。
「噂通りのうつけとも思えぬが」
 遠くなった鎮漣の背中に呟き、宗顕はりんの手を握った。

 

(第6回につづく)