十六 孫四郎
天正六年(西暦一五七八)七月──
島原の海に舞うのは、白鴎の吠えるような鳴き声だった。
有明海を一望できる丘の上。鍋島孫四郎は額の汗をぬぐい、海を越えた先に広がる肥後の大地に目を細めた。気だるげな青臭い匂いと、かまびすしい蝉の声は、大地の逞しさを感じさせる。冬が生きとし生けるものを枯らそうとも、必ず再び芽吹く。
大友包囲網を破られてから、十年が経っていた。
蒲池鎮漣によって開けられた一穴から崩れ、龍造寺による西海道統一は、十年遅れたといってもいい。悔しさに身を震わせ、大友家の圧力を躱しながら、肥前を統一してきた。
家中の雰囲気は、十年前と大きく変わった。あの頃は、荒武者の集まりであり、一見すれば凶賊とも見紛うばかりだった。主君たる隆信は、眉目秀麗な武士ではあったが、かえって絵巻物に出てくるばさら者のように見えたものだ。
ここ数年で隆信の腹は大きく突き出した。貫禄と言う者もいるが、孫四郎の目には、隆信の怠惰さが出始めているように見える。戦では果敢、政においても千里を見通す瞳に曇りはない。ただ、もとより備わっていた残虐な気質が、このところ増しているような気もしていた。つい先日も、些細なことで従者を手打ちにしている。
すぐ目の前で、旨そうに瓢の酒を呷る隆信を見て、孫四郎は時の流れを感じた。
十年という時は、人を変える。腕が立つと見れば、隆信にさえ槍を向けた木下昌直も、今では一軍の将として老成し、龍造寺の四天王と呼ばれている。かつて肩衣だけを纏い、柳川に流浪した隆信は、いまや西肥前を統一し、筑前、筑後、肥後にまでも手をかけていた。
「地を這う蛇が空駆ける龍となり、千里を行く駿馬が駑馬になるには、十分な時でした」
呟いた言葉に、隆信が濡れた口元を拭った。
「蛇は俺か」
気分を害した風でもなく、隆信が笑う。
「宗麟坊主もこれまでだな」
隆信が空になった瓢を背後に投げ捨てた。周囲を固めていた従者が音もなく拾い上げ、また木立の中に戻っていく。仰々しく守られることを嫌う隆信は、人目につかぬことを従者に徹底させている。
怯えるように下がる従者から目を離した。
「筑後中が混乱しております」
いや、筑後どころではない。三前三後にまたがる大友家の領内が、大友宗麟の宣言によって混乱に見舞われていた。
「であろうな。日向を伴天連の王国にするなど、誰もが吃驚する」
「宗麟の伴天連への傾倒ぶりは常軌を逸しております」
苦笑して、隆信が大あくびをした。
「宗麟の英邁さは、俺も認めておった。有用であれば、古黴の生えたような朝廷や幕府を使い、新しき南蛮の業を使う。豊後の大友家が、かつてない版図を手にしたのは、戸次道雪の強さを宗麟が使いこなしたがゆえ。若い頃の宗麟は、俺の理想でもあった」
「初めて耳にします」
「口にしたことはなかったな。だがまあ、もはや見る影もない。力を手にしたがゆえに、驕り、現実が見えなくなった」
隆信の頬に、凄惨な笑みが浮かんだ。
「かつての宗麟は、必ず勝てる戦を好んだ」
隆信の声に蔑むような響きはない。それが正しいことだと、孫四郎も分かっていた。
「戦は勝たねば全てを失う。必勝を期すことは、当然のことだ。敵を圧倒する大兵力を、いかに戦場に集めるか。いかに敵をやせ細らせるか。かつての宗麟は千の敵を殺すため、万の味方を集わせることに心を砕き、勝ち続けてきた。それこそが奴の強さであった」
今山の戦いでは、四千の龍造寺軍に対して、六万にも及ぶ兵を向けて来た。孫四郎の夜襲で宗麟の弟を討ったとはいえ、大兵に囲まれていた宗麟を討つことは叶わず、最終的には大友家に人質を差し出すことになった。
「勝ち続け、負けたとしてもその傷を最小限にとどめてきたのは、宗麟の慎重さゆえですね」
隆信が頷いた。
「だが、勝ちすぎたな。驕りが生まれるほどに、勝ち過ぎた。戸次道雪という無双の将もいたがゆえ、宗麟は自らの強さをはき違えた。ゆえに、愚かな戦を始めんとしておる」
筑後高良山の座主(大寺を統括する僧)から書簡が届けられたのは、島原に入る直前のことだ。
その書簡を広げ、隆信は当初半年と見ていた肥前南部の平定を、わずか二カ月で終わらせていた。敵味方ともに多大な死者が出たが、この先、西海道を制するためには必要な犠牲だった。
「豊後に送った草の者の報告では、書簡の内容はまことのようです。大友宗麟は宣教師カブラルの洗礼を受け、ドン・フランシスコと名乗りを変えています」
「宗麟は、フランシスコ・ザビエルと昵懇にしていたな」
「そこからの名づけでしょう」
「宗麟も、堕ちたな」
肩を震わせた隆信が、楽しそうに空を見上げた。
「他者を騙るは、自分ではないものへの憧れゆえ。決して手にできぬゆえ、憧れを心に抱くのだ。孫四郎、よいか」
「はっ」
「そうなれば、人は終いだ。日向を伴天連の国にする。どこまでも阿呆だな。宗麟の綺麗な憧れは、血みどろの現実となって地上に現れるぞ」
伴天連の国とするため、宗麟は日向の寺社を徹底的に破壊する気なのだという。
だが、攻める大友兵は、そのほとんどが仏門に身を置いている。戦から生きて帰るために仏に帰依する者が、どうして自ら伽藍を壊せようか。宗麟が脅せば、その場では従うかもしれない。だが、信仰を破壊された恨みは、やがて宗麟に向くことになる。
赤子にすら分かるような道理を、宗麟は見失っている。
大友家が抱える弱みを、戦巧者の島津家が見逃すはずもなかった。
「大友と島津の戦となるぞ」
「勝つのはどちらだと?」
「島津だ」
隆信がこともなげに断じた。
島津家の兵の気性の荒さは、西海道随一だ。当主義久と三人の優秀な弟に率いられた家臣団も、宗麟麾下の将と遜色ない。
かつて、宗麟が毛利元就と争った時、宗麟はより多くの兵を集めることに腐心し、内応者を作り出した。なにより地の利があった。だが、島津家との戦いは、これまでとは大きく違う。兵は拮抗し、地の利は島津家にある。なにより、島津家は後背を気にすることなく、全ての将兵を日向に向けられる。だが、大友家の支柱である軍神戸次道雪は、筑前を動くことはできない。
「道雪が日向に向かえば、勝ち筋も見えようが」
「そうなれば、私が筑前を一月のうちに平らげてみせましょう」
隆信が頷いた。
「ゆえに、道雪は動けぬ。宗麟は勝てぬ」
大きく伸びをして、隆信が有明海に背を向けた。
「備えるぞ、孫四郎。宗麟が敗れれば、すぐに筑後、肥後に兵を送る。筑前の筑紫、原田、秋月にも兵を整えさせておけ」
「御意。島津家には、我らが大友につくことはないと、納富但馬守から使者を送らせます」
鈍色の有明海には、三艘の廻船が飛沫をあげて北へ進んでいる。その舳先が行き着くのは、筑後のどこの湊なのか。
「蒲池家も、日向に向かいましょうな」
筑後を攻める時、最大の障害は柳川の蒲池家だ。
「宗雪が出陣すれば、筑後の守りは薄くなります」
呟いた言葉に、隆信が小さく唸った。その目には、どろりと濁った憎しみが見え隠れしている。
「孫四郎よ。まことにそう思うか?」
「あるところまでは」
「やはり、そうか」
隆信の目が、すっと細くなった。やはり、隆信も考えていることは同じようだった。筑後には、蒲池宗雪がいるがゆえに、龍造寺は手出しできない。大友宗麟や、筑後の大名たちはそう考えている。
だがこの十年、隆信と孫四郎が最も警戒してきたのは、かつて姫若とも呼ばれ、筑後中から蔑まれてきた蒲池鎮漣だった。
「十郎が柳川城を守ることになったとしても、筑後の大名たちが援兵を送ることはないでしょう。されど、十郎が守将として柳川に籠れば、宗雪よりも手強い」
玉鶴姫を娶り、龍造寺と大友の橋渡しを担ってきた鎮漣は、この十年で大友宗麟から数多くの感状を受けている。戦場でも、戸次道雪の麾下として、多大な戦功をあげてきた。
だが、かつて鎮漣を蔑み侮ってきた筑後の大名たちは、それを認められないようだった。妬みもあるのだろう。同族であるはずの蒲池麟久を筆頭に、鎮漣を排除する動きもいまだ根強い。
警戒すべき鎮漣の才は、その瞳だった。
現を誤りなく見つめ、ただ愚直に為すべきことを為す。戦の指揮を見ても、鎮漣が奇策をもって大勝したことはない。孫四郎が驚くような戦いぶりを見せたこともない。ただ、堅実に戦い、臆病者と謗られようとも敗勢の強い戦場を避け、勝つ戦場を選ぶことができる。
鎮漣が柳川に籠もれば、たとえ筑後中の大名が龍造寺に味方しようとも、早期の決着は難しいかもしれない。その間に、大友の大軍が駆けつけるだろう。
「我が娘ながら、情けないものよ」
舌打ちが聞こえた。鎮漣の背を刺すようにと嫁がされた玉鶴姫は、今では鎮漣を健気に支えているように見える。
かつて、自分が淡く想っていたほどの女性だ。泥臭くもあがき、道雪に認められ、隆信や自分に警戒されるほどとなった鎮漣の実力を見抜けぬはずもない。どこか誇らしく、同時に胸の奥に疼きがあることは否定できなかった。
「十郎を味方につけるべきかと」
息を吐きだし、孫四郎は口を開いた。
「十郎を引き入れれば、筑後中の大名が我らを敵とみなすかもしれませぬ。されど、それと引き換えにしてでも、幕下に置いておくべきです」
「鎮漣は、それほどの男か?」
「筑後を落とし、肥後を手に入れれば、我らは島津とぶつかりましょう。その時、背後の戸次道雪を遮る盾が必要です」
「婿殿が、軍神に勝てるとお主は思っておるのか」
「勝てずとも、劣らぬとは」
隆信の瞳の中に、燃えるような憎悪がはっきりと浮かんだ。
言葉には出さないが、隆信は鎮漣を恨んでいる。柳川を手中にするつもりで送り込んだ玉鶴姫は役に立たず、飛躍の時を十年も遅らされた。だが、言葉にすれば、鎮漣を見誤った己を認めることになるがゆえ、隆信は呪詛の言葉を押し殺している。
「家中で、戸次を抑えうるのは、殿か私しかおりませぬ」
島津と西海道をかけた決戦となれば、こちらも決死の覚悟で臨む必要がある。隆信や自分が陣頭に立って初めて五分。
息を整えるように、隆信が二度息を吐きだした。
「孫四郎。その見立てに、私情はないな」
隆信の声が、地を這うように昇ってきた。
玉鶴姫を殺したくないがゆえに、鎮漣を過度に優れていると思っていないか。隆信の言葉に、孫四郎は首を振った。
「木刀もまともに握れなかった童が、柳川の民を護るため、ここまで成長したのです。天下を望む殿にとって、あの男は必ずお役に立ちましょう」
隆信が民の希望である限り、鎮漣が裏切ることはない。そう続けようとした孫四郎は、隆信の顔に浮かんだ笑みを見て、言葉を飲み込んだ。引きつるような笑みだ。その後ろに、燃え盛る柳川の城を見たのは、錯覚だろうか。
隆信が背を向けた。
「ならば、お主に柳川は任せる」
歩き出した隆信を見送り、孫四郎は空を見上げた。
「昌直はおるか」
見計らったかのように、木下昌直が近づいてきた。生真面目な顔つきは変わっていない。変わったのは、三年前から蓄え始めた髭ぐらいだろう。同年の友に視線を向けると、昌直が呆れたように肩を竦めた。
「また面倒ごとですか」
「お前にしか頼めぬ」
「鎮漣殿を追えば?」
隆信との話は聞いていたのだろう。
「いや。蒲池鎮漣と龍造寺隆信が手を結んだ。筑後にそう触れて回れ。今、十郎は迷っているはずだ。大友に従うか否か。民を無視した戦を始める宗麟を、鎮漣は半ば見放している。だが、その父宗雪は、大友家への忠義を貫くつもりだ」
「父子に離間をかけますか」
「十郎の背を押したい」
「父を裏切り、大友家を裏切ったとなれば、鎮漣殿は筑後で居場所を失いましょうな」
昌直が、じっとこちらを見つめていた。
「何を恐れておられます」
耳にした言葉は、孫四郎の胸中にある触れられたくない部分だった。この男は、相手が嫌がることを鋭く見抜く。それが故の戦場の強さでもあるのだろう。厄介なものだ。鼻を鳴らし、孫四郎は舌打ちした。
「殿が西海道を統一するためには、十郎の力は役に立つ。だがな、昌直。あの男は己の道がいかに厳しいものかをよく知り、覚悟しておる」
「と申しますと?」
「龍造寺では柳川の民を護りえぬ。そう思えば、十郎は必ず牙を剥くく」
そうなった時、自分は鎮漣を討てるのか。木刀をもって向かい合った童に、場所を得ればどこまでも飛躍すると恐怖した。良くも悪くも、鎮漣は孫四郎の予想を超えて、自らが決めた場所で力をつけている。
昌直が言葉にした恐れは、確かに孫四郎の中にあるものだった。
だが、と続け、孫四郎は無理やり微笑みをつくった。
「誰よりも早く、十郎の力を認めていたのはこの私だ」
隆信の覇道を遮るのであれば、殺すしかない。筑後で孤立させるのは、その時に備えてのことだ。同時に、力無きままに立ち上がり、名だたる武士と並び立つまでに成長した鎮漣を称賛する気持ちもあるのだ。一木村で共に戦うと誓った友と、馬首を並べて戦う姿も、幾度となく想像した。
民の平穏を願う鎮漣を、死なせたくはない。冷酷ではあるが、民の平穏を願う点では同じ隆信に、鎮漣を殺させたくはなかった。
孫四郎の葛藤を見抜いたように、昌直が嘆息した。
「やはり、孫四郎殿は面倒なお方だ」
昌直の髭が動き、大きな笑みとなる。
「筑後のことは任せてくだされ。いかなる道となれど、孫四郎殿の前には私がおります」
隆信麾下の将の中でも、昌直は孫四郎の与力として動いている。龍の御者と呼ばれ、今や龍造寺の支柱と呼ばれる孫四郎が、唯一弱みを見せることのできる相手だ。
鎮漣の覚悟の強さに、気後れしているのだろうか。
記憶の中の童を見つめ、孫四郎は首を横に振った。あの男にできて、自分にできぬはずがない。隆信を西海道の王と成し、天下を取る。
いつの間にか茜色に染まった有明の海に、孫四郎はこめかみを掴んだ。