一七 鎮漣
憧憬が人を滅ぼすのだろう。
崩れ落ちた伽藍の中央では、焼け焦げた柱が、降り注ぐ雨に打たれていた。境内には瓦礫がうずたかく積まれ、無惨に引き裂かれた法衣姿の僧たちが、地に突っ伏して肩を震わせている。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏──。
聞こえてきたのは、恐怖に顔を引きつらせながら、柱に縄をかけて引き倒そうとする大友兵の念仏だった。それを止めようと、立ち上がった一人の若い僧が、大友兵によって強かに頬を打たれた。
鎮漣が止める間もなかった。
よろけた僧が背中から倒れた先には、空に向かって延びる柱が一つ。断末魔の叫びは響かなかった。鉄瓶から水が溢れるような間抜けな音が、雨の隙間に広がる。若い僧の瞳からは生者の光が消え、その口からは朱色の血が流れ落ちた。
雨に濡れ、地に広がった朱はすぐに消えていく。
大友の兵たちの動きが止まった。胸から柱を突き出して死んだ僧に、誰もが固唾を飲む。全てを殺さねば、仏罰が下る。誰かがそう呟いた。
「統光」
そう呟くと、鎮漣は足早に木立の中に身を隠した。直後、興奮した大友兵が一斉に刀を抜き放った。
「止めなくとも?」
「止められまい」
鎮漣は静かに首肯した。
霧雨の中に、血飛沫が舞い上がった。大友兵の刀が、次々に僧の命を奪っていく。曇天を見上げる老僧が、鎮漣へと視線を向けた。堕ちてしまえ。老僧の口が動いた瞬間、皺首が宙へ飛んだ。
「仏罰は下ると思いますか?」
木立の陰では、いくぶんやつれた表情の統光が、背をもたれかけさせていた。仏に帰依する者にとって、目の前に広がる光景は、心を凍らせるものであることは間違いない。
武士は戦場での安心立命を願い、仏に帰依する。境内で僧たちを惨殺する大友兵にしても同様だ。加護を願い、仏に帰依する彼らが、仏に仕える者を殺している。決して許されぬ罪業だ。彼ら自身もそれを分かっているからこそ、恐怖で顔を引きつらせながら刀を、槍を振るっている。
せめて、天の仏に知らされぬようにと、泣きながら鏖殺してゆく。
「島津と戦って敗れることを、仏罰と言うのであれば、下るであろうな」
呟いた時、最後まで抗っていた僧が地に組み伏せられ、五人の兵が槍を押し込んだ。
泥水にまみれて襤褸のようになった骸に手を合わせると、鎮漣は統光を連れて大友宗麟の本陣へと馬を走らせた。
九月に入って、鎮漣は日向国縣(現在の宮崎県延岡市)に本陣を置く宗麟から呼び出された。
柳川からここまで、馬を走らせて四日。出兵準備を父と兄に任せた鎮漣は、二百騎を率いて寝る間を惜しんで駆けてきた。
宗麟は、龍造寺と縁戚関係にある鎮漣を殺すため、務志賀に呼び出したのかもしれない。
珍しく統光と、兄鎮久の意見があい、玉鶴姫までもが務志賀行きを止めた。龍造寺と鎮漣が手を結び、大友家を背後から襲う手筈を整えている。筑後の城下では、そのような噂が流れ始めていたこともある。誰かが鎮漣を陥れようとしていることは間違いなかったが、制止を振り切ったのは鎮漣自身だった。
戸次道雪への約定があった。
一度だけ、宗麟を見定めてほしいと頼んだ師の頼みを無下にすることはできなかった。
森を抜けた鎮漣は、思わず臍をかんだ。
天地を結ぶ黒煙が一つ。そのすぐ隣にも、もう一つ。次々に立ち昇り、瞬く間に数え切れぬほどの数になった。古から続く寺社仏閣が燃え盛る、炎の成れの果てだ。
曇天の隙間から、陽の光が差し込んでいる。
天が、人の愚かさを見ている。息を呑み込み、鎮漣は馬腹を蹴った。
山裾から日向灘まで三角形の平地が広がり、緩やかなうねりを持つ北川が東西に流れている。人が住むに適した地であり、古来、日向の豪族が治めてきた。
平地を一望できるなだらかな丘陵に、十字の旗がたなびいている。斜面には羅紗の幔幕が張り巡らされ、行き交う人影の中には赤髪や金髪の異相も多い。大友宗麟が伴った伴天連の宣教師たちだろう。
新たに務志賀と名付けられた丘陵を見上げ、鎮漣は北川のほとりで馬を止めた。
「大殿は、本気なのであろうな」
日向を伴天連の王城となし、務志賀を政の中心とする。
大友宗麟の無茶とも言える命令が伝えられてきたのは、今年の五月のことだった。筑後に届けられた書状をその目で見ても、鎮漣は俄かに信じられなかった。だが七月に入ると、宗麟が宣教師の洗礼を受けてドン・フランシスコと名を変え、仏を信仰する宿老たちとの間に深刻な対立が生じていると伝わってきた。
昔から大友宗麟という男は、凡人には考えもつかない行動をとってきた。南蛮との交易にいち早く目をつけ、巨万の富を築いた。西海道では、誰もが忘れ去っていた幕府の名を利用して、随一の権勢を掴んだ。なにより、大友家を相続する時も、自らの父が家臣に殺されることを黙認して、まんまと跡目を継いでいる。
宗麟の打つ手は、常人には得体が知れない。だが、誰よりも先を読み、強大な力を手にしてきたのが大友宗麟という男だった。
もしかすると、此度の日向侵攻にも、宗麟一流の炯眼があるのかもしれない。自分ごときでは、天才の考えを読むことはできないとも思う。だが、だからこそ、己の目に映る無謀な現実だけは、避けなければならない。
遠く北から行軍してくる旗指物の群れが見えた。二万ほどの軍勢だろうか。威勢の良いかけ声が、雨雲を吹き飛ばすように響いている。
「府内の軍勢ですね」
統光が目を細めて呟く。率いている男は、宗麟の妻の兄として寵愛を受ける男だ。口ばかりの男で、大友家中からは忌み嫌われている。だが、大友宗麟はその事実すら見抜けず、日向攻めの総大将に任じている。譜代の家臣たちとの軋轢は極めて深く、戦の前から、大友家中は分裂していた。
「やはり、戸次様をお呼びするほかないように思います」
「道雪殿は、龍造寺と毛利の抑えだ。筑前から動けはせぬ」
大友家の動員兵力は、島津家よりも圧倒的に多い。だが、内部に不和を抱えたままでは、有利も消えていく。強烈な神格でまとめうる道雪がいればとは鎮漣も思う。
道雪を呼ばなかったのは、宗麟の衰えなのだろうか。
一度だけ見極めてほしいという道雪の声が、脳裏によぎった。
宗麟の本陣は、贅を尽くした豪奢さだった。羅紗の幔幕の内側には、朝鮮から取り寄せられた虎の皮が敷かれ、戦の恩賞にでもするつもりなのか、宗麟が収集してきた茶器が並べられている。
想像していたよりも、まともな瞳をしている。
床几に座る宗麟を見て、鎮漣はそう思った。初めて高良山の陣で見た時と変わらない。皮膚は赤黒く焼け、身体は引き締まっている。酒色に溺れているとも聞いたが、それ以上に己を厳しく鍛えているのだろう。向けられた鋭い視線に、鎮漣は片膝をついた。
「筑後衆の備えは、抜かりないであろうな」
前置きもなく向けられた言葉は、どこか詰問の響きがある。外様の死をいかほどのこととも思っていない。こみ上げてきた苛立ちを抑えた。
「柳川からは三千の兵を。筑後諸衆をあわせれば一万を超える軍勢になりましょう」
宗麟のぎょろりとした瞳が、しばらくしてふっと和らいだ。
「左様か。ご苦労であったな、鎮漣。出陣の直前に呼び出したのは、他でもない。筑後衆に、薩摩の島津攻めの策を授けるためだ」
使者を送ればいいものをと思ったのが顔に出たのか、宗麟が鼻を鳴らした。
「島津の当主は抜かりない男でのう。山くぐりと呼ばれる忍びの者を、各地に放っておる」
宗麟がそう言葉を吐きだすと、不意に幔幕の外側に兵の気配が満ちた。ちらりと外の気配をうかがった時、幔幕の内側に鎧武者が三人入ってきた。いずれも手練れだ。
「使者を送れば露見するかもしれぬ。なにより、少々込み入ったことがあるゆえ、お主に来てもらうことにしたのじゃ」
統光は外に控えている。もしかすると、兵に囲まれているかもしれない。ゆっくりと息を吐きだした時、こちらを見極めるように宗麟が目を細めた。
「大友の勝利は揺るがぬ」
自信に満ちた声だ。口を開こうとした鎮漣を、宗麟が手で押しとどめた。
「務志賀から南へ向かう大手軍六万。お主ら筑後勢には、肥後路から日向へ入り、島津の背後を襲ってもらう。すでに、日向の南部では、余の手の者が手勢を率いて蜂起しておる。三方から攻められれば、いかに剛勇の島津とてかなうまい」
宗麟の言葉が真であれば、確かに島津が抗するのは難しい。だが、大友家中の不和が露呈すれば、いかな挟撃策でも上手くはいくまい。
「柳川から務志賀までの道中、灰燼となった寺社を数多く見ました。恐れながら、家中の士気が下がっているようにも見受けられます」
怒り出すかとも思ったが、宗麟が見せたのは柔らかな笑みだった。
「ふむ。さすがに道雪が気に入っておるだけある。ここに道雪がおれば、鬼の形相で余に問い詰めてきたであろうことを、はっきりと申すのう」
宗麟の伴天連への傾倒について、道雪が烈火のごとく怒っているという話は本当のことなのだろう。道雪は、日向侵攻についても猛反対していたという。
「出過ぎた真似を」
「よい。余の周囲には、お主ほど直截に言う者はおらぬ。余が伴天連に耽溺し、神仏を恐れぬ所業をしているが故、家中が乱れている。さようなことは、承知のことじゃ」
だが、と区切り、宗麟が立ち上がり、すぐ傍に近づいてきた。
「余は、この戦で西海道を統一するつもりでおる」
鎮漣だけに聞こえるような囁きだった。
「島津の兵は強く、将は狡猾だ。奴らは決して無理な戦はせぬ。勝てぬと見れば、亀のように何年、何十年でも薩摩に閉じ籠るであろう。彼奴らを戦場におびき出すには、それなりの馳走がいる」
「御屋形様が囮となると言われますか」
「家中を分断させた愚かな男であれば、慎重な島津義久も出てくるであろう」
「左様かと存じますが、寺社の破壊は、兵を恐れさせております」
「寺社への攻撃は、余の伴天連への信仰とはなんら関わりの無いものじゃ」
宗麟の貌に、怒りが滲んだ。
「鎮漣よ。余は口先ばかりの僧など認めぬ。口では泰平を望みながら、やおら兵を構え、大名以上に贅を貪り喰らっておる。仏の御心などと大義名分を持っておるだけに、そこらの野武士よりも質が悪い。民は惑わされ、盲目のままに刀を振り回す」
よいか、と宗麟が笑った。
「闘争を望む寺社は、日向に限らぬ。余は、徹底して滅ぼすぞ」
こともなげにそう言う宗麟に、鎮漣は心胆が寒くなるのを感じた。やはり、この男の構想力とそれを実行する胆力は尋常のものではない。島津との決戦を契機として、戦後の統治にまで目を向けている。
だが、なおさら腑に落ちない。義久を誘き出したとしても、戦に負ければ意味がないのだ。
「案ずるな」
宗麟が呟いた。
「これはまだ知られておらぬことだが、肥後南部の相良家は、すでに余に降っておる。日向での戦が始まれば、肥後衆は島津領になだれ込む手筈じゃ」
「相良殿が」
「込み入った話というのは、まさにそのことじゃ」
言葉を飲み込み、鎮漣は白扇を広げた宗麟を見た。
「お主には、相良とともに薩摩攻めの指揮を執ってもらいたい。新参の相良の兵だけでは、さすがに心許ないゆえのう。じゃが、道雪も認めるお主がおれば、万全の備えとも言えよう」
「柳川勢全てをもってでしょうか」
「否。宗雪には日向に入ってもらわねばならぬ。宗雪がおらねば、筑後勢はまとまらぬからの」
その言葉で、戦の直前に、鎮漣のみを呼び出した真意が分かった。
宗麟は間違いなく鎮漣と龍造寺との内通を疑っている。だが、島津との大戦の前に鎮漣を殺せば、筑後筆頭である蒲池宗雪が心変わりするかもしれぬと恐れているのだろう。ゆえに、鎮漣を龍造寺から遠ざけ、筑後勢からも切り離そうとしている。
鎮漣が裏切れば、父や家中の者たちはそのまま人質となる。
見事なものだな。
心の中で呟き、鎮漣は首を左右に振った。
「凄まじき深謀にございます」
島津家を攻め滅ぼせば、返す刀で戸次道雪とともに肥前の龍造寺を滅ぼす心づもりなのだろう。宗麟がにやりとする。
「であろうが」
鎮漣が、宗麟の真意を見抜いたことも分かっているかもしれない。そのうえで、自らの才を示し、鎮漣に裏切るなと言っている。あの戸次道雪が忠節を誓う男なのだ。並の男であるはずがなかった。
「薩摩の切り取りは、お主に任せる。見事働いてみせよ」
自信に満ち溢れた言葉だ。万に一つも、自分が失敗するとは思っていない。何をするにも考えて考え抜き、恐る恐る進む自分とはあまりにも違う。
項垂れ、意を決したように口を開いた。
「恐れながら、なればこそ薩摩攻めの大将は戸次様に委ねるべきかと」
「ほう」
腹の底から漏れ出たような声だった。宗麟の頬に、わずかな朱が差した。
「龍造寺ごときの抑えは、それがしで十分でございます」
大した言葉だなと、自分でも思った。正面から戦って、隆信と孫四郎に勝てるとは思えない。だが、足止めするだけであれば、十分に事足りる。
「この戦で、西海道の泰平が成るか否かが決まります。であれば、島津は完膚なきまでに叩きのめすべきです。守りの戦であれば、それがしにも多少心得はございます。されど、攻めの戦となれば、ご家中に戸次様ほど優れたる方はおりませぬ」
宗麟の眉間に、深い皺が走った。
「よもや、お主の口からさような言葉が出るとはのう。鎮漣よ。お主の置かれている立場を心得ておらぬわけではあるまいな」
「御意」
ゆっくりと頷いた。
「我が室は、龍造寺の姫でございます。それがしが龍造寺につけば、御屋形様は島津攻めどころではなくなります。御屋形様が、それがしを疑っておられることも、承知の上です」
「されば、お主を筑後にとどめておけぬという余の想いも分かるであろう」
「承知しております。されど、それがしの望みは栄達や功名ではございませぬ。ただ柳川の民を護るために、恐ろしい戦場に立ち続けてきました。それがしの望みは、柳川を守護してくださる方に仕えることです。龍造寺では、御屋形様に勝てますまい」
唸るように宗麟が腕を組んだ。
宗麟の葛藤は、手に取るように分かった。今、宗麟と道雪の間には明らかな溝がある。先代より武の象徴として高い名声を誇る道雪に対し、かつてないほど豊後を隆盛させたとはいえ、宗麟自身の武功は少ない。
これまで大友家の戦は、どんな小さなものであろうと、道雪が目を光らせてきた。だが、伴天連の王国を作るための此度の侵攻は、道雪とは一切関わりの無いところで決められ、実行されている。宗麟にしてみれば、小うるさい目付がいぬうちに、比べ物にならぬ功名を掴む機にも思っているはずだ。事実、それを成しうるだけの構想と胆力も十分にある。
だが、余人と比肩しえぬ才こそ、宗麟が敗れる原因となる。誰もが、宗麟のように先が見えるわけではないのだ。麾下が離れていけば、孤独な王は決して勝てない。
祈るような気持ちで、鎮漣は宗麟を見つめた。
しばらくの沈黙を破ったのは、白扇を閉じる音だった。
「鎮漣よ。余は、お主を信じておる。お主であれば、道雪に勝るとも劣らぬ働きをするはずじゃ」
歯を食いしばり、鎮漣は表情を悟られぬよう首を垂れた。
「薩摩攻めの指揮は、お主が執るがよい」
宗麟が己の決めた道を変えることは、決してない。それだけが、確かなこととして伝わってきた。力が抜けそうになるのを感じながら、鎮漣は拳を地に押し付けた。
「御意」
幔幕を出た先では、統光が茗荷と紫蘇のたっぷりと入った冷やし汁でもてなされていた。椀を受け取った鎮漣も、口をつけた。味噌の味が辛い。統光を急き立てるように、鎮漣は残りをかき込んだ。
島津家の山くぐりを避けるように、鎮漣は玖珠を越えて筑後へと向かった。
馬足を緩めたのは、雄大な阿蘇の連峰が背後に遠くなった時だ。
「龍造寺に、使いを出せ」
振り返ることはせず、鎮漣は馬腹を思いきり蹴り上げた。
もし、このまま宗麟が西海道の覇者となれば、無邪気な殺戮が下天を覆うだろう。自らの信じるものを救うため、少数の犠牲を容認する者は、やがて少数とは言えない数を少数と言うようになる。宗麟を理解できる者は少ない。ゆえに、その支配は必ず多くの対立を生むことになる。果ては、再びの乱世だ。
決して、大友宗麟を勝たせてはならない。
それが、鎮漣の出した答えだった。