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十九 孫四郎

 天正七年(一五七九年)七月──
 筑後川を渡ってから、半年が経った。
 渡河直後、他の筑後勢の誰より早く参陣した蒲池鎮漣を先鋒として、僅か一年にも満たない間に、筑後の過半を制し、肥後の一部をも手に入れた。
 今こそ、龍がその翼を広げる時だ。
 冴えた朝の空気の中で、鍋島孫四郎直茂は軍配を軽く振り下ろした。こだまする法螺貝の音が、静寂の空を塗り替えていく。四方から響き渡る低い音色に、生駒野城に籠る川崎鎮堯は震えているだろう。
 小高い丘の上に建つ生駒野城は、一万二千の龍造寺軍に抗えるほどの備えはない。
「采配が冴えているな」
 孫四郎の口から呟きがこぼれたのは、陽が中天に昇りきった時だった。
 正面の城戸を攻めるのは、蒲池鎮漣率いる二千の柳川兵だった。鉄を貼った大楯を出し、敵の矢を縫うように進んでいる。矢が途切れたその瞬間、城内の兵が一気に躍り出て来た。だが、それも予想していたのだろう。
 布で受けるように敵の突撃を柔らかく受け止め、鎮漣は突出した百ほどの敵をそっくり包み込んだ。退くこともできず、百の敵が刀を落とした。
 これで、何度目か。歯噛みして、孫四郎は軍配を握りしめた。
 鎮漣の戦術眼が突出しすぎている。鳥肌が立つほどに、その指揮は冴えていた。指揮する者に力の差が相当なければ、敵を生け捕りにするような戦い方はできない。その証に、田尻鑑種や堤貞之ら、他の筑後勢の戦場では、敵味方ともに多くの死者が出ている。
「軍神戸次道雪が認めた力か」
 今、鎮漣と軍を率いて向かい合えば、どちらが勝つのか。背中に、冷たい汗が流れていた。童の頃とは違う。よくぞここまでと思う。同時に、鎮漣が敵となった時、自分に殺せるのかとも思った。
 左右に首を振り、竹井(現在の福岡県みやま市)に本陣を置く隆信へ伝令を送った。
 生け捕りにした兵をいかに処遇するか。
 この半年、鎮漣が戦場で生け捕りにした敵兵は、二千をゆうに超える。その処遇について、隆信はただ一言、斬と言い放ってきた。だが、降伏した者を殺せば、たとえ降ったとしても許されぬと、敵兵は死を恐れぬ兵となる。なにより、戦が終わった後の支配に差し支える。
 孫四郎の反対に、隆信は恨みは鎮漣へ向くと笑った。
 隆信の予言は、恐ろしいほどに的中していた。
 こたび、鎮漣がまっさきに龍造寺に降伏したがゆえに、多くの死者が出たと、筑後中の者がそう罵っていた。さらには老いた父を一人日向で死なせたうつけ者。大恩ある大友を裏切り、龍造寺についた裏切り者と蔑み、龍造寺家がもたらした筑後の騒乱は、その全てが鎮漣の責だと叫ぶ者が多くいた。
 姫若と呼んできた者の飛躍に対する妬みに過ぎない。孫四郎は一顧だにしなかったが、事実、鎮漣はかつてないほど孤立している。一時は、鎮漣の命を狙う者がいるとの噂まで広がっていたほどだ。同士討ちを恐れた孫四郎は、鎮漣を柳川城へ戻して噂の出所を探った。
 だが、鎮漣を柳川に戻したことも裏目に出ていた。敵前からの逃亡として、筑後の諸将が隆信に讒言したのだ。
「誰がそう仕向けたのか」
 そうこぼし、孫四郎は隆信の本陣を一瞥した。
 昨晩、隆信と鎮漣は投降した兵の処遇について言い争っている。殺し過ぎだと諫めた鎮漣を、並ぶ筑後の諸将が耳を塞ぐほどの勢いで、隆信が叱責していた。
「蒲池民部少輔に伝令。城戸を落としたのち、本陣に来るように伝えよ」
 孫四郎の命を受け、駆け出していく従者の足音が、戦場の銃声に紛れた。
 鎮漣が姿を現したのは、城戸を突破し、そのまま城内を制圧した夜更けだった。鎧を脱いだ肩衣姿で、供は僅かに大木統光を連れるのみだった。
「不用心だな、十郎」
「夜更けに、私を呼ぶ孫四郎殿もそうでしょう。筑後の嫌われ者と親しくすれば、何を言われるか分かりませんよ」
 面を思わせる無表情さで、鎮漣が言った。初めて出会った頃、孫四郎の前ではろくに口を利くこともできなかった。玉鶴姫を見て頬を赤らめることを隠すこともできなかった。それがゆえに、隆信は玉鶴姫を柳川に送り込んだのだが、孫四郎の前にいる鎮漣は、感情の一片すら見せようとしなかった。
 民を護るため、玉鶴姫と肩を並べるために、この男は戸次や毛利といった天才たちを見上げ、飽くことなく力を積み上げていった。その愚直さが、凡夫を天才たちと比肩するほどに磨き上げた。
「生駒野城はどうであった」
「籠城には向かない城です。守将の川崎殿にも、それほど戦意は感じられませんでした」
「とは言うが、十郎。お主以外の攻め手は、かなりの損害を被っている。田尻殿の軍も、この戦で四百ほどが死んだ」
 鎮漣の瞳がすっと細くなった。こちらの言葉の意図を測ろうとしているのか。小癪なという思いと同時に、その表情に苛立ちが滲んだことで、孫四郎はかすかに安堵した。
「大友家の領内では、叛乱が相次いでいる。高城での敗北によって、大友宗麟は全ての意欲を失ったらしいな」
「宗麟でなくともそうでしょう。大友家を支えてきた宿老たちのほとんどが、あの戦で討ち取られています」
「宗雪殿は、最後まで島津義久を狙ったと聞く」
「父がもう少し早く死んでいれば、島津義久は宗麟を討つことができたかもしれません」
 どこまでが本心なのか。大友宗麟の大敗から十日と経たずして、隆信は筑後川を渡り、筑後に攻め入った。混乱する筑後の大名たちの中で、真っ先に降ってきたのが鎮漣だった。
 筑後最大勢力の柳川が降ったことで、その他の大名たちも相次いで隆信のもとに参陣してきた。だが、そのほとんどが長く大友家に仕えてきた者たちであり、隆信に心から従っている者は少ない。
 その意味で考えれば、鎮漣は自ら降ることで、大友家に心を寄せる者を滅ぼさせなかったとも言える。
 筑後の降将たちを満面の笑みで迎えながら、隆信は鎮漣を憎悪の目で見ていた。
 この十余年、肥前統一の中で、隆信は敵対する者を殺し尽くしてきた。たとえ降伏したとしても、時をかけて力を削ぎ、命を奪った。父を殺し、報復できぬようにとその子らを殺し尽くした。筑後での惨劇を予想していた者たちが、安堵の表情を浮かべていることも、孫四郎は知っていた。
「宗雪殿の戦は、私も幼いころから知っている。義将と呼ばれるに相応しい最期であった」
 鎮漣の口元に、皮肉げな笑みが浮かんだ。
「父らしい死に様であったとは思います」
 言葉を区切り、鎮漣が息を吐いた。
「猫尾城攻めは、任せてください」
 孫四郎の言葉を先回りして、鎮漣がそう呟いた。
「柳川兵はほとんど欠けておりませぬ。筑後の諸将に、しばしの休息を」
「それでよいのか」
「そうしなければ、疑念は晴れますまい。柳川兵の犠牲が少ないのは、私が敵将と通じているがゆえと言っている者もいるようです」
「笑止な。十郎、気に病むことはない。私は童の頃からお主を知っておる。お主も、宗雪殿に負けぬ忠義者だ」
 鎮漣が苦笑を浮かべた。
「孫四郎殿にそう思っていただければ、それで十分です」
 そう言って頭を下げると、鎮漣が孫四郎に背を向けた。
 小さな背中だと思った。童の頃と比べると大きくなったが、それでも隆信や自分と比べればはるかに小柄な立ち姿だ。
 大友家に忠誠を尽くした父親の生き方を、鎮漣は嫌っている。だが、孫四郎の目には、鎮漣もまた同じくらい愚かなまでの義心を胸に抱いていると映っていた。それは誰からも報われることのない、ただ民に対する義心だ。
 気づかぬ間に、一歩踏み出していた。
「十郎」
 呼びかけた言葉に、鎮漣の歩が止まった。
「私は、童の頃の約定を覚えている」
 口をついた言葉は、意図していなかったものだ。民を護ると、隆信と共に誓い合った。鎮漣が肩越しにこちらを向いた。その瞳の懐かしげな光に、孫四郎は心が揺れた。
「私も覚えています」
「私は、姫をお主に任せたのだ」
「分かっております」
 玉鶴姫への淡い想いを振り切って鎮漣に任せたのは、隆信が進む修羅の道を共に行くためだった。その道の果てには、平穏があると信じていた。今も信じている。
 鎮漣と隆信を争わせたくはない。
 言葉を呑み込むように、孫四郎は俯いた。
「私がいる限り、龍家は決して敗れぬ」
 大友宗麟が相手であろうと、勢い盛んな島津義久が相手であろうとだ。
 ややあって、鎮漣がかすかに頷いた。
「大友家にも島津家にも、孫四郎殿に勝る将はおりますまい。今山の戦で、私はそれを知りました」
 顔を上げると、顔を背け遠くを見る鎮漣がいた。
「私も、孫四郎殿とは戦いたくないな」
 微笑みとともにそう残した鎮漣は、明朝に陣を払った。
 猫尾城陥落。その報せが入ったのは、八月に入ってからだった。柳川勢の死傷者は僅か二百に満たない。そう告げた伝令の後方には、虜囚となった四百余が巻き上げる砂ぼこりが見えた。
 隆信へ報せるか迷い、木下昌直を呼んだ。
「昌直、降兵は我が軍に組み入れよ。十郎には兵を休めるように伝令を出せ」
「大殿の怒りを買うかもしれませぬ」
 生真面目な声が聞こえた。
「次なる標的は山下城の蒲池麟久だ。筑後では、柳川に次ぐ堅牢な城。兵はいくらあっても足りぬ」
 昌直が首を横に振った。
「降兵の扱いではござらぬ。柳川の蒲池殿を使わぬことです。筑後の仕置は、筑後勢の血をもってなすべきだと、大殿は考えておられましょう」
「柳川蒲池と山下蒲池は、縁戚関係にある。昌直。肉親を討てと命じ、柳川が叛旗を翻しでもすれば、取り返しがつかぬ」
「大殿はまさしくそれを狙っていましょうが」
 隆信が柳川城を直轄領とすべきと考えていることは、孫四郎も気づいていた。
 柳川城は西海道一の堅城であり、龍造寺家の本拠地、佐嘉の目と鼻の先に位置している。戦に熟達した鎮漣から取り上げたいという隆信の思いも理解できた。
 だが、隆信が民を救う武士である限り、鎮漣が裏切ることはない。
「殿の天下統一の道に、十郎は必要な男だ」
 鎮漣は隆信と孫四郎と交わした約定を覚えていると言葉にした。民を救うために立ちあがった隆信の姿が、まだ鎮漣の瞳には映っていると信じたかった。


二十 鎮漣


 枯草をまとめて焼いているのだろう。柳川城下、馬上に漂ってきた匂いに、鎮漣は強張った背筋を伸ばした。十一月に入り、ぐっと寒くなった。
 龍造寺隆信による筑後征伐が始まって一年余り。鎮漣の帰参によって始まった経略は、山下城の蒲池麟久の降伏によって、ようやく終わりを迎えていた。筑後を完全に掌握し、肥後の北半分さえも手にした隆信は、悠々と佐嘉へ帰還している。
 年が明けて寒さが和らげば、隆信の天下を望む戦は、さらに勢いを増すだろう。冬のほんのわずかな間に得た、一時の休息だった。
 辺りを見回すと、川べりで竈を囲む童たちが見えた。茜色の袷を羽織った女が一人、童たちの真ん中で膝を折っている。
「あれは、りん殿ですね」
 大木統光の言葉に、鎮漣は思わず目を細めた。黒髪を腰元で結び、駆け回る童たちを嬉しそうに見守る姿は、柔らかな空気を醸し出している。
「ああも大きくなったのか」
「殿が戦に駆けまわっている間に、十年以上も経っているのです。いつまでも童というわけにはいきますまい」
 頷くと、鎮漣は遠くの小屋の軒下に、牛蒡が並べられているのを見つけた。
「誰ぞあるか。牛蒡を購ってまいれ」
「誰ぞと言われましても、私しかおりますまい」
 そう嘆息した統光が離れていくと、鎮漣は河原に下馬した。童は四人。近づいた鎮漣に気づいたのか、童たちが嬉しそうな顔をして集まってきた。
 懐にしまっていた巾着から、金平糖を三粒取り出した。
「目を閉じよ」
 瞳を輝かせた童たちが、素直に目を閉じて口を開ける。そこに、一粒ずつ金平糖を放り込んだ。
「これは、内緒じゃぞ。吝嗇の統光が知れば怒るからのう」
「吝嗇ゆえに怒るのではありませぬ。舶来の金平糖は、大名でもめったに口にできぬもの。その子らが望んでも、二度と食べられぬことを私は心配しているのです」
 土のついた牛蒡を両手に抱え、統光が戻ってきていた。
「りん、すっかりここの顔役ではないか」
「蒲池様、お久しぶりでございます」
 りんが、幼さの残る顔をくしゃりと崩して笑った。
「しばらく見ないうちに、随分と大人びたものだ。出会った頃は、宗顕の陰に隠れて泣いてばかりおったのになあ」
「いつのことを申されているのですか」
「宗顕はよく宴に呼び出しているが、このところなかなか城下を回ることができなかったゆえな。いくつになった」
「十九でございます。前回、屋敷においで下さったのがもう五年も前ですから」
「そんなに前か」
 時が流れるのは早い。出会ったばかりの頃は、まだ言葉もあやしく、痩せこけていた。柳川で美しく健やかに育ったのだと思うと、心がじわりと温かくなるようだった。
「めでたいな」
 りんが不思議そうな顔をしたが、統光は察したのか、ただ微笑みを浮かべた。
「統光、近くの者たちを呼べ。少し上ったところに、あのいけ好かない漁師が住んでいただろう。鮎をありったけ購ってくるように」
 すぐに鉄鍋が竈の上に置かれ、胡麻油の香ばしさが漂ってきた。匂いにつられて河原に集まった二十人ほどの民とともに、焼いた鮎を手づかみで食べた。
 夕焼けが西の空を赤く染める頃、城内に戻った鎮漣を、玉鶴姫が出迎えた。鎮漣の焦げた袖を見て、またかというように玉鶴姫が微笑んだ。
「楽しゅうございましたか?」
「ええ。久方ぶりに、心が休まったように思います」
「それはよろしゅうございました。戦も落ち着き、民も喜んでおりましょう」
 用意された膳の前に座ると、玉鶴姫が杯に酒を注いだ。父が日向で戦死してから一年、鎮漣は龍造寺の先鋒として戦い続けてきた。筑後の諸将からは、常に裏切り者を見る目を向けられてきた。陣中で襲われたこともある。それを知っているだけに、玉鶴姫も鎮漣の無事を安堵しているようだった。

 寝所の外から慌ただしい足音が聞こえてきたのは、十一月も終わる頃だった。
 襖の外から聞こえてきた低い声は、統光のものだ。
「入れ」
 小姓を下がらせて人を払うと、統光の顔に苦悶が滲んだ。
「何があった」
「山下城の麟久殿が、薩摩の島津家へと使者を出したようです」
 眉間に右手を添えて、鎮漣は舌打ちした。
「猪武者極まれりだな。いったい何を考えている」
 山下城は、つい先日、龍造寺隆信へ降伏したばかりだ。龍造寺家筆頭の鍋島孫四郎は、筑後の三潴に酒見城を築き、龍造寺家に降った諸将に睨みを利かせている。元は大友家に従っていた者が多く、叛旗を翻す者があればすぐさま滅ぼす構えだった。
「なぜ露見した」
「肥後路を張っていた手の者が、捕捉しました」
「つくづく甘いな。孫四郎殿に使者を。もしも山下城攻めとなれば、此度は我らが先陣を務めるよりほかはあるまい」
「それが」
 統光が言葉を選ぶように嘆息した。
「どうやら、麟久殿は殿の兄君にも手を伸ばしているようで」
「兄上に?」
「左様。鎮久殿は弟である殿に家督を譲った形です。殿を弑逆して島津に寝返ることで、蒲池宗家を継ぐ好機だと唆しているようです。麟久殿は、真っ先に降伏した殿を、希代の腰抜けと内外に吠えておりますゆえ、主殺しこそ鎮久殿の功になると」
「愚かな」
 胸の中の苦々しさと共に吐き捨てた。
 筑後で最大の勢力を誇る柳川が真っ先に降ったことで、筑後の国人衆の多くが、龍造寺家への降伏を選んだ。だが、柳川が降伏を決めたことで、筑後の国人衆で滅んだ者はいないのだ。
 生き延びた国人たちこそが、隆信の力になると信じていた。
「隆信殿に国人たちを滅ぼさせるわけにはいかぬ」
「敵への苛烈な攻撃こそ、龍家の強さだと隆信公は思っているようですが」
「肥前一国を統一するならばそれでもいいだろう。だが、隆信殿は天下を狙う器だ。敵対者を滅ぼす者に、人は付いてゆかぬ」
 蒲池麟久の行動は、隆信による山下城攻めの口実となるものだった。麟久が無惨に滅ぼされれば、一度は降伏を決めた国人衆たちも離反するかもしれない。そうなれば、筑後の平穏も遠ざかる。
「隆信殿は疑い深い方だ。長く大友家に仕えてきた柳川を、いまだ心の底から信じてはおられまい」
「酒見城には私が向かいます。孫四郎殿と向後の策を練ってまいります。殿には護衛を付けますゆえ、鎮久殿にはお気をつけください」
 慌ただしく統光が去った後、鎮漣は肩衣に着替えると、小姓を一人従えて城下の屋敷に向かった。丑三つ時を越えた頃だろう。
 現れた鎮漣を、長屋門に詰める門衛が恐懼して屋敷の中へと案内した。
 兄は付書院に瓦灯を置き、瞑目していた。手元には複数の書簡が並べられている。
「統光を酒見城へと向かわせました」
 襖を閉めてそう呟くと、鎮久が静かに身体を鎮漣へと向けた。
「お一人で?」
「兄の屋敷に来るのに、物々しい兵を連れてくる必要はありますまい」
「隆信公などに知られれば、油断と断じられましょうな」
「統光がいれば止めたでしょうね」
 目を開いた鎮久が、ちらりと鎮漣の腰元を見た。刀は佩いていない。
「兄上。山下城の叔父上からの使者があったと聞きました」
 鎮久の目尻がぴくりと動いた。
「どうするおつもりです?」
「どうする、とは?」
「私を討ち、山下城と柳川城が結べば、島津家の大軍が筑後まで行軍する時を稼げましょう」
「儂に主殺しの汚名を着よと?」
 沈黙した鎮漣に、兄が舌打ちした。
「その癖を見たら、そんな気も失せもうした」
「癖ですか」
 兄が鼻を鳴らす。
「もうすでに、殿は何かを決めておられるようだ。右の親指に爪を立てる時、殿は打開策をすでに持っている時じゃ。これまで、それが外れたためしはないのです」
 自分の癖を兄が把握していることに驚いた。鎮漣自身も知らぬことだった。鎮久が平伏した。
「儂に主家簒奪の意思があるかどうか確かめに来られたようだが、迷惑千万でござる。かつて大友家が隆信公の策によって包囲された時、それを打ち破ったのは殿の機転でしたろう。その折から、儂は殿の矛として戦場を駆けてきたはず」
 鎮久が苦笑し、頭を上げた。
「山下城からは確かに書簡が届きました。どうやら麟久はすでに島津家臣の伊集院と誼を通じているようですな。島津家を筑後に引き入れることの見返りとして、筑後の太守としての地位を約されたと」
 馬鹿馬鹿しいと、鎮久が書状を鎮漣の前に広げた。
「世情を見失っておるのでしょう。たしかに島津家は日夜勢力を伸ばしておりますが、肥後北部は龍造寺家に仕え、南部の相良も大友と龍造寺を渡り歩いております。筑後まで攻め上ることは容易なことではありませぬ」
「私も同じ見立てです。島津軍は精強ですが、相良や阿蘇、甲斐といった戦巧者のひしめく肥後を抜くには、少なくとも二年はかかりましょう。龍家に叛旗を翻したとしても、徒労に終わります」
 ただ、喉元に引っ掛かるものがあった。島津の動きが見通せないほど、麟久は戦略の分からぬ武士ではない。もしかすると、麟久を操っている者がいるかもしれない。そう思ったからこそ、鎮漣は兄のもとを単身で訪れたのだ。兄に、命を賭けさせることになる。
「兄上。私は麟久殿が大友家中に踊らされていると思っています」
「大友家に?」
「大友からすれば、柳川は憎き相手です。されど、筑後は龍家に降り、柳川は容易に手出しできない場所となりました」
「島津との内応を噂にして、隆信殿に攻めさせるか」
「私が宗麟であればそうします」
 島津家に大敗して劣勢に追い込まれたとはいえ、大友宗麟は希代の策士だ。かつては謀神と謳われた毛利元就とも対等に渡り合っていたのだ。筑後の田舎領主ごとき、自ら手を下すまでもないと思っているだろう。
「隆信殿に疑われる前に、蒲池の瑕は、蒲池が処理せねばなりますまい」
 そう言って、鎮漣は懐剣を鎮久の前に置いた。
 兄が、懐剣をじっと見つめた。
「同族殺し、か。父上が草葉の陰で嘆きそうだな」
「このまま麟久殿が叛けば、隆信殿は山下城を血の海に変えるでしょう。弱き民を護る。蒲池の義のためです。父上も、咎めはしますまい」
 寝返ると思っている鎮久が相手であれば、麟久も油断する。
「あの泣き虫だった十郎が、儂に命を賭けさせるとはな」
「申し訳ありませぬ」
「儂がいなければ、殿は自ら山下城に赴かれていたでしょう。それが分かっているがゆえ、儂が行くことに不満はありませぬ」
 鎮久が懐剣を袷の内側にしまった。
「儂の考えなど不要かとは思うが、奥方様から、隆信公へ申し開きをなされるがよろしかろう。麟久を討つ内諾は、得ておくべきでしょう」
「明日にでも」
 頷いた鎮久に、鎮漣は別れを告げた。
 翌朝、玉鶴姫からの使者を佐嘉へ走らせると、鎮漣は不慮の事態に備えて柳川に兵を集めた。麟久暗殺が失敗すれば、山下城が一丸となって柳川を襲うことも考えられる。
 孫四郎から後詰の約定を取り付けた統光が戻ったのは、鎮久が人知れず柳川から姿を消してすぐのことだった。十二月に入り、筑後平野には、珍しく雪が積もっていた。
 山下城の蒲池麟久、急逝。
 蓑に身体を包んだ鎮久が、柳川城に戻るよりも早く、その報せは筑後中を駆け巡った。

 年が明けた天正八年(一五八〇年)、正月──
 蒲池麟久の葬儀に参列するため、山下城に向かう支度を整えていた柳川に、早馬が駆け込んできた。酒見城の孫四郎からのものだった。顔を蒼ざめさせ息を切らす使者を柳川城内で休ませ、鎮漣は慌てて統光を伴い騎乗した。
 書簡で指定された場所は、領内の一木村だった。かつて、龍造寺家の主従が柳川に逃れてきた時、父宗雪が彼らを保護した館だ。舞う粉雪の中、櫓門の前を落ち着きなく歩き回る男が一人いた。手前で下馬した鎮漣は、笠に隠れた顔を見て驚いた。
「孫四郎殿、お一人で何を」
 笠に積もる雪を見れば、一刻ほどもこの男が外にいたことが分かる。たった一人でここまで来たのだろう。傍には警護の兵もいなかった。
 鎮漣に身体を向けた孫四郎が、安堵の表情で近寄ってきた。
「十郎、すれ違いにならずに良かった」
 しもやけした孫四郎の手を見て、鎮漣は屋敷の中へと導いた。統光に命じ、主殿の中に火鉢を集めさせた。どこに隠し持っていたのか、統光が沸かした湯の中に徳利を浸し、温めた酒を孫四郎に差し出す。
「すまぬ」
 一息に飲み干し、孫四郎が息を吐きだした。
「蒲池麟久討伐のこと、大儀であった」
「身から出た錆にござりますれば」
 小さく頷き、孫四郎が唸り声を上げた。
「龍造寺家中に、山下城でお主を誅殺すべしという声がある」
 その言葉に、統光が二本目の徳利を火鉢の中にひっくり返した。弾けるような音がして、湯気が立ち昇る。
「私を誅殺するとは、いかなる由でしょうか」
 孫四郎が確証のない話を持ってくるとは思えない。それも、重臣中の重臣がたった一人で来てまでというのが、事の重大さを物語っていた。言葉を選ぶように、孫四郎が腕を組んだ。
「麟久討伐は、柳川の咎をなすりつけるためではないかという者がおる」
「それは、私が島津と内通し、露見しそうになったがために麟久殿を害したと?」
 苦しげに孫四郎が頷いた。
「柳川は西海道一の堅城とも言われる要害だ。龍造寺家中には、佐嘉の目と鼻の先にお主がいることを快く思わぬ者も多い」
「されど、私が島津に通じたという証など、あるはずがありません。山下城で私を騙し討てば、龍家は信を失い、筑後経略は一気に至難のものとなりましょう」
「左様なこと、分かっておる。だが、お主を排除したいものにとって、証など些事だ」
 孫四郎が語気を荒らげ、直後、拳を握りしめた。
「龍家にとってお主は欠かせぬ。大殿の大望のためにもだ。大殿への忠義も、私は理解している。だがな……」
 孫四郎が、振り上げた拳を畳の上に押し付ける。
「龍造寺家中は私が抑える。麟久の葬儀には、腕の立つ武士を二百、いや四百は連れて行け。大木兵部少輔よ。十郎の傍を片時も離れるな」
 言葉を向けられた統光が居住まいを正し、頭を下げた。
「十郎、くれぐれも軽挙に走るなよ」
 そう言い残した孫四郎が館を後にして、残された鎮漣は統光を前に畳の上に大の字になった。胸の奥底から、無力感が押し寄せては引いていく。
「……籠城の備えを、始めますか」
 統光がぽつりとこぼしたのは、日がとっぷりと落ちて、主殿が闇に包まれた頃だった。火鉢の明かりだけが、うっすらと統光の貌を浮かび上がらせている。恐れても、慌ててもいない。鎮漣が童の頃から、この男は鎮漣を不安にさせぬようにと表情を殺してきた。
 統光に背を向け、鎮漣は息を吐きだした。起き上がり、胡坐をかく。
「もしも此度の策謀が、隆信公の腹から出たものだとすれば、戦いは避けられぬであろうな」
 瞬く間に強大となった龍造寺家は、主君である隆信と家臣との間には大きな隔たりがある。隆信に諫言できるのは孫四郎ぐらいのもので、残りは隆信が黒と言えば黒と言わざるを得ない者たちばかりだ。申し開きなど、通用しないだろう。
 証など些事。孫四郎の言葉が、重くのしかかっていた。
 龍造寺と戦になればどうすべきか。これまで、幾度となく考えてきたことだった。隆信を信じていないわけではない。天下を取る器だと信じているからこそ、隆信が柳川を取り除きたいとする考えも理解できるのだ。鎮漣が先鋒として戦った筑後経略でも、敵を殺し尽くすことを命じる隆信と、幾度もぶつかった。それでも勝ち続ける鎮漣は、隆信にとって目障りな存在だっただろう。
「龍造寺家、筑後国人衆、さらには肥後の者たちも集えば、どれほどの敵になると思う?」
「その全てが集えば、数万は下りますまい」
「対する柳川勢は?」
「三千を超える程度かと。筑後衆の助力は望めますまい」
 淡々と事実だけを述べる統光に、鎮漣は火鉢に手をかざした。じんわりと、指先が温かくなる。
「敗けはせぬな」
 呟いた言葉に、統光が目を細め、両の拳を畳についた。
「御意」
 隆信が天下を取る器だと信じている。だが、裏切りによって成り上がってきた隆信は、降った者に猜疑の目を向けることを捨てきれていない。戦わずして勝つ。天下人になるためには、敵すら信じ、迎え入れる器量が必要なのだ。
 誰かが、それを隆信に伝える必要がある。孫四郎では無理なことだろう。武勇があり、才智に溢れる孫四郎だが、最後の最後では隆信の意向に背くことはない。
「統光、死地にしか道を見つけられなかった私を、愚かだと思うか?」
「殿が愚かだとするならば、この国に平穏は訪れぬでしょう」
 力強い統光の言葉に、鎮漣は立ち上がった。
「お主が徳利を落とすほど動揺するのは、初めて見た」
「それがしにも、心はあるのです」
 苦笑した統光に、鎮漣は微笑んだ。
「備えを始めよ。龍家に気取られるな。民が城内に逃げ込むための動きも整えておけ」
 統光が頷いた三日後、鎮漣は五百の兵を連れて山下城へと赴いた。戦時の装いに呆気にとられる者たちをしり目に、焼香を済ませ、鎮漣は柳川城へと戻った。天守から見渡せる柳川の街並みは、父と自分が作り上げたものだ。
 龍造寺隆信という龍を、天下に駆け上らせるため、この街並みを賭ける。
「許せ」
 呟き、鎮漣は天守を後にした。

 

(第16回につづく)