最初から読む

 

 午後一時になって、立ち合いの留置係官とともに接見室の中に入った。証拠隠滅や口裏合わせを防ぐために面会は留置係官が立ち会うことになっている。
 桃子は、アクリル板の向こうに座る人物を見て足が止まった。そこにいたのは父親ではなく、妹の桃子だった。立ち尽くしているわけにもいかないので、目を合わせないまま対面の椅子に座る。座りはしたがかける言葉はないし、目も見られない。俯いたまま黙って座っていると、「元気そう……で、よかった」と、妹の声が聞こえた。
 頷くことで返事にする。
 しばらく沈黙が流れた。
「お姉ちゃん、私を嫌いだよね?」
 その通りだ。「そうだよ。だったら何?」と、言い返そうとしたそのとき、妹が話し出した。
「――あのさ、私、お姉ちゃんのこと、嫌いだったことなんて一度もないよ」
 突然の告白に驚いて顔を上げた。
「それどころか、お姉ちゃんをうらやましいって、ずっと思ってた」
「は? 何言ってんの?」
 思わず言い返していた。妹が自分をうらやましいと思うことなど何一つあるはずもない。
「私はピアノが好き。だから練習するのは苦じゃない。でも、コンテストに出るようになって、自分がどの程度の才能なのか分かっちゃった。それでも好きだから続けていた。でもさ、ママはそうじゃないでしょ? とにかく結果を出せってうるさくて。レッスン代や衣装代、送り迎えも含めて、どれだけお金と時間と労力を自分がつぎ込んでいるかって言われ続けて、もうプレッシャー、ハンパなくて。それでもピアノが好きでさ。だから続けてた。止めなかったんだから、ママに四の五の言われるのは自業自得なんだけど、でも、本当にキツくて。――だけど、お姉ちゃんは自由で」
 泣き出しそうな顔で、妹が話し続ける。
「ずっと、好きなようにしていた。ママからうるさいことも一切言われてない。私は、審査員に好印象を持って貰うためって食事制限させられて、髪型だって自由に出来なかった。ドレスも、選ぶときには連れて行かれたけれど、けっきょくママが決めてた。好きなことをしているはずなのに、私に自由は何一つなかった」
 言葉が出てこなかった。そんなことになっていたとは、桃子はまったく気づいていなかった。
「お姉ちゃんがうちを出て行って、何度も連絡したいって思ってた。でも、結局しなかった。うちが嫌で出て行ったのに、連れ戻されたら嫌だろうなって思ったの。だって、私なら絶対に嫌だから」
 妹の目からぽろぽろと涙が零れ落ちている。
「せっかく自由になれたんだから」
 耐えられなくなって妹が嗚咽し始めた。顔を伏せて、肩を震わせている妹を見て、「桃子」と、妹の名を呼びながら、思わず身を乗り出す。すぐに背後から「離れて」と留置係官に制された。それでも少しでも妹に近づこうと、アクリル板に顔を近づける。
 俯いて泣き続ける妹に、「あたしは桃子がうらやましかったんだよ。好きなことがあって、しかも才能もあってさ。そんな桃子が、ずっとうらやましいって思ってたんだよ」と、話しかけた。
 だからこそ、「桃子」と名乗っていた。金のために自分を買った男たちに、そう呼ばせたのは、自分と違って才能があって、それを両親から愛されている妹がうらやましかったからだ。
 泣き止まない妹を見ているうちに、桃子は不安に襲われた。自分がこんなことになった今、母親はますます妹に執着する。今ですら、妹はもう限界に見える。なのに、これ以上となったら――。
「桃子、大丈夫?」
「――うん、平気」
 指で乱暴に涙をぬぐって、妹が顔を上げた。
「ママが、私を連れて離婚するって言ったの」
 確かに苗字が変われば、自分との関係に気づく者は減るだろう。奇異の目がなければ暮らしていきやすくなるはずだ。
「私の将来のために、そうするしかないって」
 これに関して母親は間違っていない。それは桃子も認めざるをえない。
「でも、私、言ったの。離婚して出ていくなら一人で行って、私は一緒には行かないって。それだけじゃない。ピアノのコンクールも、もう出ないって」
「桃子、それは」
 大好きなピアノを止めてほしくはない。桃子は思わず身を乗り出していた。
「音楽は止めないよ。クラッシックの道には進まないだけ。だって、あたしの腕じゃ、どこかの音大には入れると思うけれど、プロのピアニストとしてやっていけるほどじゃないから。このまま続けたら、学校の音楽教師か、ピアノの先生になって終わるんだろうなって、もう先が見えちゃったんだよね」
 そう言うと妹は、はぁと一つ、大きく息を吐いた。
 未来が予見できるのは、その道を突き詰めたからこそだ。望んだ結果は得られないと気づいたとき、妹はどれだけ悲しかっただろうと思うと、かける言葉が見つからない。
「でも、後悔はないよ」
 きっぱりと妹が言った。
「だって、今までやるだけやったんだもの」
 妹が微笑んだ。すがすがしい表情が桃子には眩しく見える。
「それにね、実は私、作曲家デビューしているの」
 唐突に話が変わった。桃子が目をぱちくりしていると、妹がそれまでより早口で話し出す。
「TikTokをしてる同級生の子に頼まれて、短いジングルを作ってあげたの。そしたら自分にも作って欲しいって、何人かから言われて引き受けたのよ。その中の一人が結構フォロワーがいるVTuberでね。その人に歌詞を渡すから一曲、作曲してくれって頼まれて作ったの。そしたら、その曲がバズっちゃって」
 こんなに早口で、しかもたくさん喋る妹を見るのは初めてだ。
「音楽配信したら、すごいダウンロード数になっちゃって。実際に聞いて貰おうって思ったんだけど、スマホの持ち込みはダメって言われちゃって」
 桃子の背後の留置係官に、妹がちらりと恨みがましい目を向けた。
 留置場の面会では携帯電話やレコーダー、カメラなどの電子機器を持ち込めない。面会者は、留置係の警察官に預けなければ、面会室への入室が出来ないと留置担当官から聞いている。
「えっと、こんな曲」
 妹が鼻歌を歌い始める。前奏部分は聞き覚えがなかったが、歌詞が始まってサビに入ってびっくりした。TikTokで有名インフルエンサーをはじめ、多くの人たちが踊っている動画を上げている曲だったのだ。
「それ、知ってる! これでしょ?」
 思い出しながら座ったまま、両腕を上げて踊ってみせた。
「そう、それ! 嬉しい。知ってくれてたんだ。あれ、私が作曲したの」
 恥ずかしそうに、でも誇らしそうに妹が言う。
「すごいよ、桃子。あんた本当にすごい。天才じゃん!」
「天才じゃないよ。でも、作曲するのは楽しい。それにお金も入るしね。けっこうな額でさ、最初の振り込み額を見てびっくりしちゃった。――それでね」
 がらりと変わって不機嫌そうな声で妹が続ける。
「ママとパパにもこの話をしたの。動画とネットバンクの残高も見せた。そしたらさ、黙って勝手にしたのがひどいってママに散々なじられて。練習はさぼってないし、そこまで言われることはないって言い返そうとしたの。そしたら、『作曲出来たのはピアノをずっと続けていたからだものね。収入が発生しているのだし、きちんと管理しないと。これからは私がマネージメントをするわ』って」
 そう言うだろうなと予想はしていた。だが掌返しのあまりの速さに、さすがに開いた口が塞がらない。
「だったら作曲はしないって、言ったの」
 強い調子でそう言った妹の頬は、怒りと興奮で紅潮している。
「私がしたことの結果は私の物で、ママのじゃないから。ママも自分で何かすればいいじゃない。今は何歳でもいろんなことにチャレンジして結果を出している人がいっぱいいるんだからって言ってやったの。そしたらさ、『なんてひどいことを言うの。これまでずっとあなたのために自分を犠牲にしてきたのに』とか、もう泣きわめいちゃって。パパはただいるだけだしさ」
 髪を振り乱し、身振り手振りを加えながら、恫喝したり同情を誘ったりを繰り返し、途中、何度も父親に同意を求める母親の姿を想像するのは難しくなかった。父親は同意こそしないが反対もしない。嵐が去るの待つように、ただその場にいるだけだ。かつて桃子も何度も同じ目に遭ってきた。
「ママは、分かってるんだよ。何をしたって、自分の欲の深さを満足させられるほどの才能は持っていないって。それに努力も出来ないし、したくもないことも」
 冷たい声でぴしゃりと妹が言い切った。
「好きなことって、結果が出なくても続けられると思うんだよね。でもママは結果が……、そうじゃないか、結果で人にすごいと思われてちやほやされるのが好きなんだよ。だから自分のじゃなくても、私のでも構わない」
「――ダサっ」
「うん、ダサい! 激ダサ!」
 自然と口から出た言葉に、食い気味に妹が同意した。
「コンテストで入賞したのはあんたなのに、まるで自分がピアノを弾いたみたいに周囲に吹聴しまくってさ」
「お前は、水飲み場のカラスか! だよ」
 母親のしていることは、水飲み場に落ちていたほかの鳥の羽を体に挿して悦に入る童話のカラスと一緒だ。
 秀逸な妹の喩えに「それな!」と言うと、姉妹同時に笑い出していた。背後で留置係官が咳払いで注意を促してきたので、あわてて二人とも笑いをこらえた。
「そうだ、お姉ちゃん。私のドレスとかアクセサリーとか、持ってったよね?」
 パスポートを取りに実家に行ったとき、ついでに金目の物を持ち出した。母親のはもちろんだが、妹のドレスやアクセサリーも根こそぎ盗んだ。一気に現実に引き戻されて、桃子は「――ごめん」とだけ、なんとか絞り出した。
「謝らなくていいよ。って言うより、グッジョブ! だよ。私、嫌でたまらなかったんだもの」
「好きだったんじゃ?」
 母親から貰った一粒真珠のペンダントをコンテストのたびに妹が身に着けていたのは、はっきり覚えている。
「つけろって言われて、仕方なくしてただけ。可愛いかもしれないけれど、私は好きじゃない。本当に好きなのは、黒い革のチョーカに大きめのクロスとかみたいなカッコイイ系。だから全部なくなっていたのを見て、マジ、サンキュー! だったよ」
 妹をうらやみ、妬みすぎて、会話すら満足にしていなかった。だから妹の好みどころか、どんな人となりかも全く知らなかった。妹が微笑んでいる。こんな顔で笑うことも、桃子は知らなかった。
「それでね、ママに言ったの。私は自分の人生を生きるから、ママもそうしてって。それから話しかけられても、ずっと無視してる」
 けろりとした顔で言い終えた妹を見て、桃子は泣き出しそうだった。
 妹は正面から母親に立ち向かった。でも自分は向き合わずにただ逃げただけだったと分かったからだ。自分よりもはるかに強くしっかりした妹をうらやましいと思う。これまでは妹に嫉妬しか覚えなかった。でも今回は違った。自分もそうなりたい。いや、ならなくてはならないという強い気持ちが湧き上がってきた。
 背後の留置係官が「面会時間終了です」と言って、桃子に近づいて来た。促されて席を立つ。
「もう? 早いなぁ。じゃぁ、お姉ちゃん、また来るね」
「無理しなくていいよ」
 ドアに向かいながら言うと、「私が来たいの!」と、妹が怒鳴った。
「帰ってきたら、一緒にお笑いライブに行こう。声優のイベントも、スイーツ食べにも、洋服買いにも行こう。お金は心配しないでいいよ。これでも私、売れっ子作曲家なんだから。待ってるから。私、お姉ちゃんのこと、ずっと待っているから!」
 妹はまだ何かを言い続けている。だが留置係官に背中を押されて面会室を出たので、最後までは聞くことは出来なかった。
 留置場の居室に戻る道すがら、「いい妹さんだね」と留置係官に言われた。
「はい。桃子は、あたしにはもったいない最高の妹です」と、桃子は素直に認めた。

 

(つづく)