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 午前七時三十分、武本が戸塚署に入ろうとすると、「武本」と背後から呼ばれた。
「今日はとりわけ寒いな」
 振り向くと、両手をコートのポケットに入れた柳原が近づいてくる。立ち止まって「おはようございます」と挨拶した。
「おはよう。湾岸署だって? 大変だな」
 逮捕された放火犯の栗林渉は捜査本部のある戸塚署に連行され、留置後の取り調べも同署内で行われている。現場は同じなので、殺人犯も戸塚署に留置されるのが一般的だ。同事件の死体遺棄で出頭した石原進と山上瑛大の二名は戸塚署内で取り調べを終えたのちに、そのまま逮捕となり、署内で勾留している。だが桃子こと西田佳須美は女性なので三人と同様に戸塚署に勾留は出来なかった。
 二十三区内で女性の留置施設を有しているのは原宿警察署、東京湾岸警察署、警視庁本部留置施設西が丘分室の三つしかない。留置場の空き状態から、西田佳須美は湾岸警察署に留置された。なので取り調べを担当する浦島と武本の二名は、捜査本部のある戸塚署と湾岸警察署を行き来している。
「いえ」とだけ応えると、「太郎はキツいってこぼしてたぞ」と、少し笑って柳原は言うと、すぐに「体が、ってだけじゃないんだろうけどな」と言って、そのまま横に並び、二人揃って署内へ進む。
 石原と西田佳須美を浦島と武本が、山上は田淵と平井が担当している。取り調べは集中力を要する。ことに殺人事件の場合、時間で言えば一時間だとしても、被疑者と直接対峙する担当官は疲労困憊する。石原、西田佳須美の両名とも被疑者を担当しているのはもちろん、子を持つ親である浦島にとって、今回の事件は思うところがあるのだろう。取り調べ終了後には、明らかに憔悴していたのを、武本は目の当たりにしている。
「今のところ、殺人は西田の単独犯で、出頭した石原と山上は死体遺棄なんだろう?」
 同じ捜査本部員なので、柳原も殺人事件の捜査の進捗を知っている。
「はい」と武本は答えた。
 石原進、山上瑛大、西田佳須美の三人の供述から、ホテル・サウスアイランドの防犯カメラの映像を取り寄せた。一月十二日の午後九時五十六分に西田佳須美と被害者がホテル・サウスアイランドに入り、翌十三日の午前一時二十三分に山上瑛大がスーツケースを持ってホテル内に入り、午前二時十六分に西田佳須美とスーツケースを引いた山上が出てくる姿が映像に記録されていた。これで殺害時刻に石原と山上は現場にいなかったと立証された。
 つまり現時点では身元不明の男性の殺害は西田佳須美の単独犯行で、石原と山上は死体遺棄罪のみとなっている。
 西田佳須美は頑なにすべては自分一人の責任だと言い張り、ことあるごとに翼――石原のメンズカフェでの呼称――は何一つ悪くないとだけ繰り返し続けている。だが十七歳の西田佳須美のこの供述を、浦島と武本の二人は真に受けることは出来なかった。
 そもそもの売春自体、石原と山上、ことに西田佳須美が客として入れあげていた石原に言われてしていたのではないかと考えたからだ。だが、これについて訊ねても、「あたしが自分で勝手にしてただけ。翼はまったく関係ない」と、西田佳須美は翼こと石原進の関与を頑なに否認した。瑛大こと山上についても、石原ほどの熱意は感じられないが、やはり殺人、売春ともに一切関与していないと証言を変えない。
 こうなると現状、西田佳須美に科せられる罪は殺人罪で死刑又は無期若しくは五年以上の懲役と死体遺棄罪で三年以下の懲役と、立ちんぼ行為による売春周旋となる。
 殺人罪に関しては西田佳須美の供述が事実ならば正当防衛が認められる可能性もある。こちらは検視結果等とすり合わせて裁判での判決で決まる。三つ目の売春周旋は未成年ということもあり、加刑とはならないだろう。だが死体遺棄は確実に実刑になる。正当防衛だとしても殺害したとなれば、刑期は決して短くはないに違いない。
「あ、男どもには児童売春周旋もか」
 そう付け足した柳原に、今度は即答できなかった。
 三名のスマートフォンの解析の結果、西田佳須美と山上のものから、二月五日以降、山上が西田佳須美に買春客を紹介していたこと、さらに二月十八日からは、複数名の男性に性行為の撮影の許可も出していたと判明した。
 山上はあくまでも西田佳須美に頼まれたからしただけで、金も預かってくれと言われたからそうしただけだと供述している。だがそもそも売春周旋は金銭のやりとりや管理の有無は必要ない。周旋を行った事実があれば、処罰の対象となる。何より西田佳須美は十七歳の未成年だ。児童売春周旋が適用され、五年以下の懲役もしくは五百万円以下の罰金刑、または併科となる。加えて性行為の撮影許可を出したのは、児童ポルノを製造する目的で児童を売買したこととなり、児童買春等目的人身売買等罪の一年以上十年以下の懲役が加算されることとなった。
 だが三人のスマートフォンのどれからも、石原が直接買春を周旋している証拠は何一つ出てこなかった。西田佳須美との事件当日以前のやりとりはメンズコンセプトカフェのキャストと客のやりとりの範疇でしかなく、事件後も同様だった。山上とのやりとりの記録は、事件以前も以後もさほど多くなく、内容のほとんどが食事の約束などのごく普通のものばかりだった。だが通話履歴はかなりの回数があった。記録を残さないよう、通話でやりとりしていたのだろう。
 山上が西田佳須美に児童売春させていたことについて、石原は「なんとなく気づいてはいました」と認めはした。だが「桃子さんの逃走資金のためにしているのだから、口を出せなかった」と申し訳なさそうに付け足した。
 知ってはいた。だが、実際に周旋行為はしてはいない。そうなると、石原が問われるのは死体遺棄の罪のみとなる。前科もなく初犯ということもあり、懲役は二年に満たない可能性が高い。
 そもそも西田佳須美が売春に手を染めたのは、石原の所属する店に通い、彼の売り上げのために高額を使っていたからだ。
 山上の西田佳須美の収入を預かっていただけという供述は、到底信じることは出来ない。これに関しては、西田佳須美の供述とすり合わせて収入と預り金を比較して追及をするしかない。だが事件以前、山上は西田佳須美から利益を得てはいない。
 得をしていたのは石原のみだ。その石原の罪が一番軽くなる可能性が高いのは、浦島も武本も納得できなかった。なんとか石原の事件全体への関与を追及するべく、西田佳須美の証言を得ようと浦島は手を尽くしている。だが、西田佳須美は「翼は何一つ悪くない。すべて自分がやった」の一点張りだ。
 西田佳須美は翼の石原進という本名すら知らなかった。それでも必死に石原の無罪を訴え続けている。その痛々しい姿を前にして、だからこそなんとかして石原の罪を暴きたいと思って、浦島と武本は取り調べを続けている。だが未だ石原の関与を立証できていない。
 忸怩たる思いを込めて武本は「――今のところ、片方のみです」と、返答する。
「メンカフェの奴か?」
「いえ」とだけ答えた武本に、柳原が「根が深そうだな」と呟き、「当分かかりそうだな」と続けた。
「そちらはいかがですか?」
 SSBCが放火犯の容疑者を特定し、それをもとに柳原たちが栗林渉を逮捕したのは奇しくも西田佳須美を逮捕したのと同日の二月二十日だった。
「逮捕当日に中落合の放火は認めた。あとは余罪の追及だが、こっちも時間の問題だろう」
 ならば、柳原の手を離れるのもそう先のことではなさそうだと武本は思う。
「正直、迷ったんだ」と、また柳原が話し出した。
 何をだろうか? と考えていると、「あそこが空き家だと知っていたのか? って、訊くか」と、柳原が続けた。
「罪を認めはしたが、あいつの選択肢はいくつかあった。一つはすべて偶然の初犯と言い抜けることだ。場所はたまたま見つけた。仕掛けはごみ捨て場から拾い集めた物だから、当日拾った。これでも成立はする。もちろんどこで何時に拾ったかを、こっちは徹底的に追及するからいずれ嘘だとバレるが、何度も放火して逃げおおせてきた奴だ。今度もどうにかなると思っていたとしてもおかしくはない。もう一つは、場所は下調べ済みで、仕掛けも事前に準備していたと認める。これだと計画的な犯行になる。認めたら、過去の火災と突き合わせての余罪の追及もされる」
 そこで柳原はいったん間を置いた。
「正直、初犯を騙るのなら、付き合ってやろうって思ったんだ。何も知らない、全部偶然だって言うのなら、あの家が空き家だとは知らなかったことになる。だとしたら」
「現住建造物等放火罪で死刑または無期もしくは五年以上の懲役」
 放火に関しての罪状を覚えてはいなかった。だが本庁に日報を書きに行くたびに潮崎に捉まり、今回の殺人と放火二件の事件について、それぞれ独自の推理を聞かされていた。
 その中で、放火事件では現住建造物等放火罪と建造物等以外放火罪の罪状が何度も出てきたので自然と覚えてしまっていた。
「そうだ。すごいな、ちゃんと頭に入ってるんだな。俺はそっちのはうろ覚えだぞ」
 感心する柳原に事情の説明をするべきだと思う武本をよそに、また柳原が話し出す。
「奴の嘘を信じてやって、そっちで一発アウトにしてもよかった」
 淡々とした柳原の言葉に武本はぎょっとした。
 どのみち証言の裏は取るから、いずれ渉の嘘は暴かれる。そうなれば建造物等以外放火罪となるはずだ。だが柳原の口ぶりだと、証言の裏を取らずに現住建造物等放火罪にするとなる。
「火災で死者が出ていないなら死刑や無期はまずない。初犯だというのも考慮したら、五年か六年ってところだろう。だったら、余罪も認めさせて社会に戻るのをより先にした方がいい」
 建造物等以外放火罪は一年以上十年以下の懲役だから、中落合の放火のみで考えると現住建造物等放火罪で裁かれた懲役とは、さほど変わらないのかもしれない。だが、余罪が加算されれば懲役はもっと長くなる。
 なるほど、と納得しかけて、そういう問題ではないと思い直す。このあと柳原にどう接するべきか考えていると、「マジに取るなよ。もちろん裏は取る。あくまでそう思っただけだからな」と早口で言われて、武本は安堵した。
「何より、余罪の被害者たちに安心して貰いたいんだから、そんなことしねぇよ」
 顔を顰めてそう言うと、柳原が一足先に階段を上り始める。武本もその後に続いた。
「俺は放火犯を捕まえるために警視庁に入ったって聞いて貰っただろ? あと、弟が消防官になったっていうのも」
「はい」とだけ答える。
「実家が放火されたんだ。うちは祖父の代から練馬区の借地に家を建てて住んでいた。今は言わずもがなだが、二十年前でもかなりの値段だった。土地に借地権や地上権が設定された底地狙いの不動産屋に目を付けられた。地主から広い土地を買い取って、マンション用に転売して利益を出したい奴らからしたら、格好の場所だったんだ」
 一定の速度で階段を上りながら、柳原は淡々と話を続ける。
「条件が折り合ったのか、隣の家が早々に出ていったんだ。奴らはそこに入り込んだ。昼夜問わず大音量で音楽を流し始めた。夜中にされてみろ、とうぜん寝てはいられない。そのせいで睡眠不足になって、虚弱体質の弟は何度も体調を崩した。両親がどれだけ言っても止めやしない。警察に相談したら、注意はしてくれた。でも止めなかった。ひと月が過ぎた頃、今度は両家の境、向こうの敷地内に大量の生ごみを捨て始めた。夏場だったんで酷い臭いで、虫もわいた。俺たちの登下校のときは、悪そうな男たちが襲い掛かりそうな勢いで近づいて来たりした。でも警察沙汰になるほどのことはしない。だから両親も手の打ちようがなかった」
「素人ではないですね」
「うちが立ち退いた後、地主が不動産屋に土地を売った。その不動産屋が別の不動産屋に売って、最終的にそこを買ってマンションを建てたのは誰でも知っている大手デベロッパーだった。大きな会社は直接、手は汚さない。連中はいわば、奴らの手先の汚れ役だったんだろう」
 計画を立て、最終的に利益を得る者と実行犯が別なのは、犯罪ではよくある構図だ。西田佳須美と石原のことが頭を過って、武本は口の中に苦みを感じる。だが一点気になった。
「放火の犯人は捕まったんですか?」
「いや」
 一言で柳原が答えた。
「火事になったのは十二月の三十日だ。家族で出かけて帰ってきたら、消防車が消火作業をしていた。どれだけ嫌がらせをしても立ち退かないもんだから、最終手段に出たんだって、俺は今も思っている」
 当時は今のように防犯カメラや車のドライブレコーダーは普及してはいない。隣家の男たちがどれほど怪しかろうと、証拠がなければ逮捕は出来ない。
「借地権は十年先まであった。もともと両親は、期限が終了する前に他に家を買う予定で、こつこつ金を貯めていた。だが親父が脳梗塞になってな。命に別状はなかったが、経済面では当初の予定通りとはいかなくなった。だから期限満了までは住み続けるつもりだったんだ。――火事現場に連中もいた。俺たちになんて言ったと思う?」
 想像もつかなかったが、もとより武本に答えを求めてはいなかったのだろう。
「留守の間でよかったですね、だ」間を空けずに柳原が答えた。大きな声ではなかったが、その声は怒りに満ちていた。
「放火した奴を捕まえたい。その一心で俺は警視庁に入った。第八強行犯に異動して実際に放火事件を扱って、ますますその気持ちは強くなった。俺たち家族のような被害者を少しでも増やさないためにも、俺は放火犯を逃がさない。必ず捕まえる」
 そう言ったきり柳原は口をつぐんだ。
 実家の放火犯への怒りだけではない。実際に放火捜査に携わり、さらに弟が消防官になったことで、柳原の放火犯への怒りはより激しく燃え上がったのだ。
 無言で階段を上っていくその背からも、柳原の強い決意を武本は感じた。

 

(つづく)