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 午前中に検察の取調べを終えた桃子が留置場の一人居室に戻ったのは、午前十一時半を過ぎた頃だった。留置担当官が昼食の下に敷くゴザを配りに来る十一時四十五分にはまだ数分ある。桃子は畳の上にごろりと横になって天井を見上げる。
 お伽話の主人公と同姓同名の浦島太郎という刑事は、どうしても翼に罪を背負わせたいらしい。逮捕後の最初の取調べから今日の午前中までのあいだずっと、立ちんぼをしていたのは翼に騙されているからでは? とか、脅されて仕方なくしていたのでは? とかと、なんとかして桃子に認めさせようとする。
 騙されている根拠として、翼が自分の本名を教えていないことを挙げてきたが、桃子も自分の本名を明かしていない。本名など思い出したくもないし、名乗る必要もなかったからだ。なので、本名を教えないことが騙しているというのなら、自分も同罪だと返して話を終わらせた。
 次に浦島は、翼が複数の女性客を風俗店で働かせていたことや、その中の一人とは結婚の約束までしていたことを話した。
 複数の太客がいるからこそ、翼は人気のキャストだった。他に客がいるのは当然だし、中には交際していると勝手に勘違いしていた客もいるだろうというのは織り込み済みだと桃子は答えた。でも、結婚の約束をしていたという話には、さすがに動揺した。そんな約束をしていた女がいたということよりも、そんな安い手を翼が使ったことがショックだったからだ。
 けれど、桃子にとって大したことではなかった。
 人を殺してしまって助けを求めた自分を、罪を背負うのを覚悟で翼は助けてくれたのだ。他の女は誰もして貰っていない。さらに、一緒に国外に逃亡するとまで言ってくれた。翼にとって自分は他の女と違う。唯一無二の特別な存在なのだ。その事実は、桃子に揺らぎようのない自信をもたらした。
 だからこそ、翼にこれ以上の罪を背負わせてはならない。それこそが他の誰でもなく、自分だけが翼に出来ることだからだ。
 けれど、浦島は諦めようとはしなかった。同じような質問を言い方を変えては繰り返されるのにうんざりした桃子は「何度聞いても同じ! 翼は関係ない。全部あたしが自分で決めてしただけ。もう、しつこい。いい加減にして!」と、怒鳴った。
 金のために立ちんぼをして、あげく人を殺して捨てた十七歳の小娘にそんな風に言われたら、さすがに怒るに決まっている。それこそ、ドラマや映画で観たシーンのように、机を叩き、「ふざけるな!」と怒鳴るに違いない。そう桃子は思っていた。
 けれど浦島はそんなことはしなかった。表情を変えず、目には哀れみが浮かんでいた。
 ――あたしが可哀そうだと思ってる。
 桃子はブチ切れた。
「騙されているだけなのに、可哀そうな子だって思ってんでしょ? マジ、それやめて。翼はあたしを騙してない」
 警察の考えていることは分かる。メンズコンセプトカフェに通い詰めてキャストに大金を支払っている、イコール、騙されているなのだ。
「何にどうお金を使おうと、それはあたしの自由。直に会えないメジャーで売れてるバンドやアイドルの追っかけのために立ちんぼしている子だっていくらでもいるけど、その子たちも騙されてるって言う? 言わないでしょ? メンカフェも一緒!」
 これでどうだとばかりに睨みつけると、返す言葉がないのか浦島は黙っている。ざまぁみろと少し良い気分になっていたところに、「騙されてはいないのかもしれない」と、声が降ってきた。ドア近くの机で書記をしている強面の刑事が体を桃子に向けていた。たしか武本といったはずだ。
「だが、依存はしている」
 面食らった桃子に、武本は続ける。
「君は石原進と会うのを止められずに店に通い、かなりの金額を支払い続けていた」
 冷静に聞けば、大したことは言っていない。「翼はプロのキャストで、あたしは客なんだから、お金を払うのは当然でしょ?」と、桃子は言い返した。
「石原は、君の自分への依存に気づいて、店に通わせて金を支払わせるように誘導した」
 今度も、当たり前のことしか言っていない。
「キャストが客を太客に育てようとするのは普通のこと。客だって、それは分かっている。それに乗るも乗らないのも、それは客の自由。――あのさぁ、なんかずっと、メンカフェって仕事自体、客を騙して金儲けしてるって決めつけてるみたいだけど、それ、違うよ。それで言ったら水商売の全部がそうなるし、アイドルだってそうでしょ? もしかしてそう思ってんの? だとしたら、偏見だし、差別だよ」
 今度も言い負かしたと悦に入っていると、「店では、客との個人的なやりとりは禁止されている」と、武本が言い返してきた。なんだ、そんなことかと、「それは表向き。他のキャストも、みんなしてんの」と、すぐさま言い返す。
「それはこちらもつかんでいる。だが、店が経営難だとか、親や友人が病気で治療費が必要だとか、事故を起こして賠償金が必要だとかの嘘を吐いてはいない」
 翼は店が経営難で、だから売り上げが必要だと言っていた。
 初回の取調べで、それは嘘だったと浦島から聞いたが、証拠がない限りは信じないと突っぱねた。すると翌日の午後の取調べに、宇佐見と名乗る小柄な若い男が確定申告の書類を持って現れた。
 宇佐見は桃子の目の前に資料を広げて見せながら、クリスタル・プリンスの昨年一月から今年の一月までの各月の収入と必要経費、最後に昨年一年間の収支決算を読み上げた。
 店の収益がかなりの黒字だと知ってショックを受ける桃子に、宇佐見はさらに翼――石原進個人の確定申告二年分の書類を見せた。
「領収書を再確認した結果、経費の水増しをしているのが分かった。脱税なので、税務署に知らせて所得税法違反で刑事告発して貰う。これで再逮捕だから、勾留は最長で二十日延長。そのあと裁判で、刑罰は十年以下の懲役、もしくは一千万円以下の罰金、又はこれらの併科になる」
 桃子は目の前が真っ暗になった。
 翼が脱税していたなんて知らなかった。税務署は気づいていなかった。なのに自分のせいで暴かれてしまった。遺体遺棄だけでなく、脱税の罪も加わって、翼の罪はさらに重くなってしまったのだ。
「まぁ、この程度なら懲役にはならずに罰金で済むだろうけれどね。あとは追徴税。重加算税にはならないだろうし、追徴税は十~十五パーセントだね」
 懲役にはならないと聞いて、少しだけほっとする桃子に、宇佐見が告げる。
「これが石原進が君に嘘を吐いていた証拠。店はお金に困ってなんかいなかった」
 長い前髪に黒目がちの宇佐見は、浦島や武本と較べると警察官とは思えない外見で、銀行とか役所にいそうな感じだ。
 じっと桃子を見つめていた宇佐見が口を開いた。
「数字は嘘を吐かない。人は吐くけどね」
 その表情は勝ち誇ってはいなかった。浦島のような哀れみも感じられない。
「納得がいかないのなら、納得するまで説明するよ」
 業務をこなす役所の職員のように淡々と言う宇佐見を見て、これは事実だと桃子は受け入れるしかなかった。
 確かに翼は嘘を吐いていた。でも、認めてしまったら、翼の罪が重くなってしまう。すでに脱税の罪を背負わせてしまった今、それだけはどうしても避けなければならない。
 そこで桃子は弁護士が言っていた言葉を思い出した。
 すでに罪を認めているのなら、すべて正直に話して下さい。でも、していないことや、違うと思うことは、認めないでください。いいですか、きちんとよく考えて、したことのみ認めて下さい。間違っても、安易に署名をしてはいけません――。
 認めたら終わりだ。でも、宇佐見が持ってきた証拠は事実だ。
 ――どうしたらこの場を切り抜けられる? どうしたら翼を守れる?
 頭をフル回転させて考えているうちに閃いた。
「――気づいてた」
 宇佐見が少し首を傾げて、ため息を吐いた。明らかに、そう言うのを見越していたという仕草だ。怒りと焦りで、桃子は早口になる。
「それくらい気づいてたわよ。あたしだって、そこまで馬鹿じゃない。知ってて乗っかってたの!」
 言い終える前に宇佐見は机の上の書類をまとめ始めた。
「だそうです。あとはそちらでお願いします」
 書類を重ねて机の上に立てて揃えると、宇佐見は「それではこれで僕は失礼します」と、椅子を引いて立ち上がり、そのまま取調室から出て行こうとする。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 あまりの態度に桃子は思わず怒鳴っていた。宇佐見が振り向く。
「僕は、石原進の勤務していた店が経営難ではなかったという事実を伝えに来ただけです。それは終わりました。このあとは、石原進がどれだけ脱税していたのかを厳密に調査する作業に入ります」
 役目は果たしたとばかりに、宇佐見はそのまま浦島と武本の二人に一礼して取調室を出て行ってしまった。

 

(つづく)