第五話 姦しい葬式
八重子が話し終えた後の場は、しんと静まり返っていた。周りは賑やかに吉乃の死を悼んでいて、まるで世界が断絶されたようだった。
あれほど姦しかった藤子と紅子と八重子は、俯いたまま何も話そうとしない。まるで三人とも、口を開いた途端呪詛が飛び出してきてしまうのを恐れているようだった。
「私たち、よっちゃんに騙されてたのかしら」
口火を切ったのは、藤子だった。肥えて丸い体を、ちんまりと縮こまらせている。
「そんな、騙されただなんて」紅子がおずおずと反論する。
「だってそうでしょう。私たち、嘘をつかれたのよ。あの人、自分のことなんてちっとも話してなかったのよ。全部創作。とんでもない嘘つきじゃない」
「そうかもしれないけど、でも」
「紅子さん、悔しくないの? 私たち、嘘の言葉に喜んだり、涙を流したりしてたのよ。こんなことってないわ、酷すぎる」
「やめてくださいな。こんな場で、亡くなった人の悪口なんてよくないわ」
「あら、さっきと言っていることが違うわね。さっきはあなた、死者の魂なんてみたいなこと言ってたじゃない」
「それは、そうですけど……」
「ねーえ、櫻さん」
ぴりぴりとした空気を漂わせた藤子と紅子の間に、八重子が割って入り櫻に尋ねる。櫻は返事をする代わりに、にっこりと微笑む。
「櫻さんと会っていたときの、吉乃さんはどんな人だったの?」
「あっ、そうよそうよ。それ聞いてなかったじゃない」
「確かに、恋人には本当のお話をしているかもしれませんわね」
詰め寄る三人の顔を、櫻はゆっくりと見渡す。胡坐をかいた膝を、包むようにさすった。
「大した話はしてませんよ」視線を天井に向ける。「吉乃さんは、自分の人生を、ほんとうにつまらない人生だったと言ってました」
三人が顔を見合わせる。吉乃の語った三つの人生は、それぞれに波乱があり起伏に満ちたものだった。つまらない、という形容詞とは無縁ではないかと思っているのだろう。
「自分には何もない人生だった。叶えたい夢もなく、悲劇も喜劇もなく、愛すべき存在もなく。単調で退屈な人生。唯一の事件といえば、幼い頃に木から落ちて枝で首筋を怪我してしまったことくらいだと、首元を見せて笑っていました」
「それが……本当のよっちゃんなの?」藤子が尋ねる。
「僕には分かりません。もしかしたらそれも、嘘なのかもしれないですね」
三人は押し黙る。吉乃の真意を、どうにか推し量ろうとしているようにも見えた。けれどもう真実は誰にも分からない。張本人の吉乃は、全てを抱えてこの世から去ってしまった。
「ねえ、これ、言おうかどうか迷ってたんだけど……」
八重子がおずおずと切り出す。眼鏡の奥の細い目が、櫻の顔を捉えている。
「あなた、本当は男娼なの?」
「だんしょう?」紅子が鸚鵡返しする。
「吉乃さんから聞いてたのよ。桃色の髪の、綺麗な顔をした男の子を、時々お金で買ってるって。それ……あなたのことじゃないの?」
「えっ、やだ、だんしょうってその男娼!?」藤子が口元を押さえ騒ぎ立てる。
「そうですね」櫻は臆することなく、笑顔で答える。「僕は、六十歳以上の女性相手に体を売る仕事をしています」
藤子と紅子の顔色が変わる。表情に様々な色が浮かぶ。侮蔑、嫌悪感、好奇心。櫻が幾度となく向けられてきた感情だ。だが八重子だけは、淡々と会話を続ける。
「やっぱりそうなのねえ。吉乃さん、あなたのことも時々話してくれてたわ」
「僕のことですか?」
「ええ。いろんな話をしてくれるから、楽しいって言ってたわねえ」
「確かに、そうですね」
櫻は記憶を手繰り寄せるようにゆっくりと瞬きをする。背筋を伸ばし、吉乃との記憶を反芻する。
「僕のお客さんの話を、すごく聞きたがる方でした。ほんとうは、他のお客さんのことを話すのはあまりよくないんでしょうが、ちょっと虚構を混ぜながらお伝えしてました。とても喜ばれるんですよ。私の知らない人生がこんなにあるのね、って」
男性を知らないまま生きてきた女性。自らの老いに苦しみながらも夢を追い続ける女性。誰でもいいから自分のことを覚えていてほしいと願う女性。夫に長年虐げられながらも歪んだ愛情を抱える女性。死に取り憑かれながら死ぬことのできない女性と、彼女のために死を諦めた女性。
さまざまな女性たちの話をしてきた。吉乃は彼女たちの人生に静かに耳を傾けていた。
「もしかしたら吉乃さんは、自分に自信がなかったのかもしれませんね」
「よっちゃんが、自信がない……」藤子が首を傾げる。
「はい。誰かに愛される自信が。僕も一緒だから、なんとなく分かるんですよ」
「一緒?」八重子が訊き返す。
「僕も、お客さんを相手に、いろんな顔を見せてきました。自分を偽って、嘘をついて、本当の僕をひた隠しにして。それはすべて、本来の僕では、きっと相手にされないだろうと思っていたからなんです。吉乃さんも、同じなのかもしれないなって。自分のこんな人生じゃあ、誰にも求められるわけがないって思っていたのかもしれません。だから架空の人生で、あなたたちに愛されようとした」
「そんな、そんなことしなくったって……」紅子が呟く。
「でもきっと、吉乃さんは皆さんに救われたと思いますよ」
三人が顔を見合わせる。しっかりとシンクロしたその動きに、櫻は少し吹き出しそうになる。
「自分の架空の人生に憧れ、寄り添い、興味を持ってくれた人たちがいて、きっと救われたに違いありません。だって、僕も同じですから。僕も、女性たちに救われ続けてるんです」
「そ、そんな、救っただなんて」
藤子が狼狽した声を出す。太い指を慌ただしく動かし、座布団から腰を浮かせている。
「とんでもないわ。救われたのは私の方よ。あの明るい笑顔に、何度助けられたことか」
「それはあたしだって同じです。毎朝あの子に会うのがとっても楽しみだったんですよ」
「そうよねえ。わたしも、吉乃さんのお話に、なんだか励まされてたわあ。この歳になっても女でいていいのねって思わされたもの」
「そう、そうよね。私もそうよ。別に嘘だっていいわ。架空の人生がなんだってのよ」
「そもそも、その嘘を考えたのだって吉乃なわけですからね。吉乃を好きなことには変わりません」
「あらやだ、そうよねえ、さすがいいこと仰るわ。吉乃さんが吉乃さんなことに違いはないものね」
三人がまた、騒がしく会話を始める。櫻はその様子をじっと眺めている。この姦しい葬式を眺め、一体吉乃は何を思うのだろうかと考えながら。
テーブルの上では、泡がすっかり潰れたビールが、コップの半分を満たしている。櫻はそれを手に取り飲み干すと、静かに立ち上がった。三人がぴたりと舌を止め、櫻を見上げる。
「僕、そろそろお暇しますね」
「あら、もう行っちゃうの?」
名残惜しそうな声を出す八重子に、櫻が微笑みかける。
「はい。ちょっとこの後予定がありまして」
「そうなの。残念ねえ」
唇を尖らせる藤子に会釈をし、踵を返そうとしたとき、「ねえ」と紅子が呼び止めた。
「ちょっと、一つだけお訊きしたいんですけど」
「はい、なんでしょうか?」
「あなた、一体どうしてこんなお仕事をなさっているの?」
空気がほんの少し張り詰める。おそらく、藤子も八重子も気になっていたことだったのだろう。だが紅子は、礼節よりも好奇心が凌駕してしてしまったようだ。そうですね、と櫻が困ったように少し俯く。
「僕は、幼い頃両親を亡くしていまして。祖母に育てられたんです。でも、ちっとも子育てに向いていない人でしてね。とにかく男好きで。僕を引き取ったとき五十を越えてましたが、金の力で男を囲うようなことばかりしていて、僕は毎晩コンビニ弁当ばかり食べていました。でも、そんな祖母でも好きだったんです。祖母に愛されたくて仕方がなかった。だけどある日、祖母が僕を置いて、男と逃げてしまった」
櫻が語るのを、三人はじっと見つめている。彼女たちはきっとこんな顔で、吉乃の話を聞いていたのだろう。まるで自分が吉乃になったような、奇妙な感覚に櫻は襲われた。
「それから僕は遠縁の親戚に預けられ、そこで何不自由ない暮らしをさせてもらいました。でも、やっぱり僕は、祖母に会いたいんです。居場所は分からない。どうしたらいいのか。考えて、探して……そして僕は、この職に就きました。祖母に会うために。性に奔放だった祖母は、もしかしたら、今でも金で男を買おうとしているかもしれない。そう思ったんです」
「おばあさまには……会えたの?」
藤子がおずおずと尋ねる。櫻は首を横に振る。
「いえ。存命かどうかも分からないんです」
「そうだったのね……ごめんなさい、不躾なことを申しました」
頭を下げる紅子に、「いいんですよ」と櫻が小さく笑って答える。
「今は、この仕事をやっていてよかったって思うんです。いろんな人に会えて、いろんな人生に触れられる。それって、結構楽しいことなんですよ」
櫻が髪をかき上げた。桃色がさらさらと揺れる。
「皆さんも、良かったらいつでもご依頼ください。サービスしますよ」
「ええっ!」
三人が揃って声を上げる。
「い、いやだわ、あたしはそんな、興味ありませんもの」
「そうよねえ。この歳になって、そういうのは、ちょっとねえ」
「あらあ、でも、わたし、少し気になるかもしれないわあ」
「やだ、八重子さん、あなたすごいわね!」
「こういう大人しそうに見える人の方が、意外と大胆だったりするのよねえ」
「そんなことないわよお。ただ、ちょっとどんなものなのかしら? って」
三人はまた騒がしく言葉を交わし始める。櫻はその彼女たちの姿に向かって、一礼した。そして、虚空へ向かって、深くもう一礼。今度こそ踵を返し、喧々諤々の女たちの声を背に、櫻は会場を出て行く。
ビールをグラスで三杯飲み干した後だったが、櫻の足取りはしっかりとしていた。人気のない夜道に革靴が地面を叩く音が響く。街灯に切り取られた自らの影を見下ろしながら、櫻はジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。連絡先から【銀楼館】と登録されたものをタップし、通話をかける。一回目のコールが鳴りやまないうちに、男の声が聞こえてきた。
「はい、ありがとうございます。銀楼館です」
柔らかくゆったりとした喋り方だった。しかし櫻が「あー、櫻っす」と名乗ると、「ああ、なんだ櫻か」と一気に声が低くなる。
「何? 葬式終わったの?」
「今出たとこっす。次の予約には余裕で間に合うかと」
「オッケー、頼むな。あ、あとさ、お前明日休みだよな? 出勤できる?」
「いやいや、無理っすよ。明日は親とばあちゃんち行くんすもん」
「なんだよ、お前んとこ家族仲良しだな。てか、お前親御さん生きてるんだっけ?」
「はあ? 何言ってんすか、バリバリ元気ですよ。勝手に殺さないでくださいよ」
「悪い悪い。なんかもう、お前の言うことってどこまでがほんとでどこからが嘘なのか、訳分かんなくなってんだよな」
「そんな、人を嘘つきみたいに言うのやめてくださいよね」
「何言ってんだよ。お前は天性の大嘘つきだよ」
電話の向こうで男がからからと笑う。櫻は細い道を抜け、大通りに出る。先程とはうって変わって歩行者や車が増え、店たちは煌々と光を放っている。
「俺は嘘なんてついてないですよ。ほんとのことしか話してないっす」
「はあ? 何言ってんだよ、お前の口コミ確認したら分かるんだよ、お前がめちゃくちゃなこと」
「違いますって。どんな姿をしてたって、どんな話をしたって、お客さんの目に映って耳に入るものが本当の俺なんですよ。相手が欲しがるものを、全部欲しいままに与える。それが、俺の真実です」
「何言ってんだか全然分かんねえ」
一気に興醒めしたかのように男は吐き捨てる。大きな溜息が、電波越しに櫻の耳元に吐かれる。
「まあなんでもいいけど、とりあえず次の仕事頼むわ。うちの稼ぎ頭さん」
揶揄するように捨て台詞を残し、通話は切れる。櫻はスマホをジャケットのポケットにしまい、歩みを早める。
駅に着くと、櫻はコインロッカーへ向かった。尻ポケットから鍵を取り出し、開ける。中からボストンバッグを取り出し、肩に掛けるとホームへと歩き出す。
電車を乗り継ぎ、とある駅に降り立つ。男子トイレに行き、個室に入ると、櫻はスーツを脱ぎ始めた。
下着だけになると、ボストンバッグから服を取り出す。黒のトレーナーとカーキのバルーンパンツに着替え、靴も革靴からスニーカーへ履き替える。
個室を出ると手を洗い、濡れた手でセンター分けした髪を整える。前髪を崩し眉上まで重ために下ろすと、バッグのサイドポケットから歯ブラシを取り出した。歯を磨き口を濯ぎ、再度鏡で自らの姿をじっと見つめる。
美しい顔が櫻を見つめ返してくる。お前は一体何者なのだと問いかけてくるように。その問いに答える代わりに、櫻は静かに笑みを浮かべる。
駅を出て、指定された住所へと向かう。駅前には古びたスーパーマーケットしかないような小さな街で、歩くとすぐに住宅街に出る。街灯は少なく夜道は暗い。男の櫻ですら、身の危険を感じるほどだ。
十五分ほど歩くと、古びた一軒の民家に辿り着く。外壁は薄汚れ、庭の草は伸び放題だ。一階の奥の窓が光っていて、中に人がいることだけは分かる。
門扉の前に立つと、櫻はチャイムを押した。住人が応答するまでの間、櫻は先程の葬式でのやり取りを思い出す。
僕も、女性たちに救われ続けている。それは櫻の、紛うことなき本心だった。柄にもなく真実を口にしてしまったなと、自嘲的に笑う。
「はい」
警戒を含んだ声が、インターフォンから聞こえてきた。彼女も身構えているのだろうが、この瞬間はいつも、櫻も緊張を覚えている。
「こんにちは。お約束で参りました」
一瞬、沈黙が生まれる。そして「お待ちください」と受話器を置く音が流れてくる。
櫻は想像を巡らせる。一体彼女はどんな人なのだろう。背丈は。髪の色は。瞳の幅は。鼻の高さは。唇の厚さは。そして、一体どんな望みを抱いているのだろう。
でもどんな人だっていい。どんな人だって、今から彼女は、僕の恋人だ。
がちゃりと開錠の音がして、ドアが開く。
「はじめまして! 本日はよろしくお願いします!」
櫻が笑った。