第四話 最期の宴
喫茶店で雅は松子に、どうして死にたいかを教えてくれた。
「私ね、自分が醜くなるのが、どうしても許せないのよ」
「醜くなる……ですか」
「そう。私って、綺麗でしょう」
不遜な物言いだが、松子に不快感はなかった。むしろ当然だとすら思った。これほど美しい人が、自分の美しさに気付いていないなどありえない。
「でもね、どうしたって歳は取るじゃない。それは仕方のないことだって私だって分かってる。抗えるだけ抗い続けてきたのよ。顔にも体にもメスを入れて、服や髪型だって常に自分が一番輝けるようにしてきた。だけど、それにも限界はある。崩れて衰えて、死が近付くたびに醜くなっていく。それがどうしてもね、我慢できないのよ」
雅は大きな身振り手振りで松子に説明をする。十本の指の上で、濃い藍色にラメを散らした、宇宙のような爪がきらきらと光る。
「だからね、もう死んじゃおうって思って。自分が綺麗だって思えるときのうちに、死んでおきたいのよ」
なんて前向きな自殺願望なのだろう。松子は衝撃を受けた。自分が最期まで自分らしくあるために、雅は自死を選ぼうとしているのだ。
「それで? ウメコ……じゃない、本名は松子だったわね。松子さんは、どうして死のうって思ったの?」
「そ、そうですね。私は」
松子は咄嗟に、テーブルの上に乗せていた手を膝の上に落とした。罅割れた自身の爪を、手で覆って隠す。
「この歳になって、何もいいことがないまま死に向かっているなとずっと思っておりまして。そのままいつか苦しみながら死ぬくらいなら、まだ自分の頭がはっきりしているうちに、死んでしまおうかなと」
話しながら、松子は自殺サイトを初めて眺めていたときの気持ちを思い出していた。強い死の願望が満ちる中、自分は死に相応しくないと感じていた。きっと目の前の雅も、同じように思っているのだろう。彼女の顔に落胆が浮かぶのを見たくなくて、松子は俯いた。
だが松子の予想に反して、雅はずいっと身を乗り出してきた。
「えーっ、なんかそれ、めちゃくちゃロックね!」
「ロック……?」聞き馴染みのない言葉に、松子は首を傾げる。
「つまんない日常を送るくらいなら、死を選んでやるー! ってことでしょ? いいわあ、すっごいロック。かっこいいわあ」
雅の大袈裟なくらいの賛辞に、松子は面映ゆくなる。すごく素敵よ、と雅がけらけらと笑う。ともすれば冷たく見えてしまう雅の顔の中で表情はさっきからころころと変わり、まるで少女のようだった。
「ねえ、松子さん。あなたさえよかったら、あたしと一緒に死なない?」
「わ、私ですか」
「あたしね、独りで死ぬのはいやなの。だってそれって、すごく孤独に見えるでしょ。あのババア、独りで寂しく死んだんだなって思われるじゃない。それだけは、ぜーったいにいや。最期まで楽しく生きてたんだなって、そう思われたいのよ」
雅の言葉が、松子の中にすとんと落ちていく。松子はただ、独りで死ぬことが怖くて、誰かと死ぬことを望んでいた。けれど雅の言う通り、死んだ後で誰かに勝手に不幸を押し付けられるのは、松子も御免だった。
「だからね、そのためには、やりたいことを全部やり尽くしたいの。ねえ、どうかしら、松子さん。松子さんは、何かやりたいことない? 私と一緒に、楽しく生きて、楽しく死なない?」
やりたいことはないかと問われ、松子にはすぐに思い浮かばなかった。それは、死という文字が頭に浮かんできたときから、何度も自問してきたことでもあった。頭を悩ませ、考え、結局いつも同じ答えに落ち着く。やりたいことなど、何もない。
けれど今、松子の中で一つ、やりたいことが生まれた。
この日立雅という女性が、どう生きてどう死ぬのかを、見届けたい。
「私でよかったら、ぜひ協力させていただきたいわ」
松子が答えると、雅は満面の笑みを浮かべる。
「ほんと? やったー嬉しい! これからよろしくね!」
雅が右手を差し出してきた。松子がおずおずと、机の下から腕を持ち上げ、雅の手を握り返す。すると、雅が左の手で包み込んできた。
松子の手の上で、宇宙がきらきらと光を放っていた。
それから松子と雅は、互いにやりたいことを伝え合った。とはいっても基本的には雅が羅列する一方で、松子にはやはり雅のこと以外は何も思いつかなかった。雅のやりたいことに付き合えればそれでいい、と松子が言うと、雅は納得したのかそれ以上追及してこようとはしなかった。
雅の願望は多岐に亘った。メイド喫茶に行きたい。フジヤマに乗りたい。わんこそばに挑戦したい。娘が欲しい。ヒッチハイクをしながら世界一周がしたい。
実現可能なものもあれば不可能なものもあったが、幸い二人とも資金だけは潤沢にあった。三回の離婚を繰り返している雅は、それぞれの夫から莫大な慰謝料を巻き上げたらしく、その金を元手に不動産を転がしている。
一方松子の方も、夫が亡くなり遺産が入ってきたものの、使い道がなくほとんど手つかずの状態だった。やりたいことをこなしていくうち遺産は減っていったが、無理に子供たちに遺さなくてもいいのだと考えると妙に小気味よかった。
今から娘を作ることはできないので、レンタル彼女を頼み娘のふりをしてもらった。ヒッチハイクは危険だと判断し、豪華客船で世界を巡る旅をした。そのようにして、松子と雅はほとんどの時間を二人で過ごした。自分の人生にはもう何も起こらないと思っていた松子にとって、とても刺激的な日々だった。
当然いいことばかりではない。フジヤマに乗った後は盛大に吐いてしまったし、イタリアではスリに遭った。それでも雅はいつも楽しそうに笑い、その顔を見るのが松子はとても好きだった。
そして雅のやりたいことの中のひとつに、こんな項目があった。
【男の人とデートがしたい】
「生半可な男じゃやなのよ。とびきりいい男がいいわ」
雅がうっとりと目を細めた。亡くなった夫しか知らない自分と違い、雅はきっといろんな男性を知っているのだろう、と松子は夢想する。
「いい男って、たとえば?」
「若い頃はさあ、やっぱり男に求める理想って、経済力とか男らしさとか、そんなのだったじゃない?」
「そうねえ。私も、俺に黙ってついてこいみたいな男性っていうのは、ちょっと憧れだったわ。旦那はそういう人じゃなかったから」
「でしょう? あたしもそうだったのよ、まあそれで痛い目に何度も遭ってきたんだけど。でもさあ、この歳になるともうそういうの、どうでもいいわけ。だってお金もいっぱい持ってるし、男らしさなんてもう暑苦しくて鬱陶しいだけだもの」
「まあ、なんとなく分かるわ。でも、ならどういう人がいいの?」
「そうねえ。理想よ、あくまで理想だって前提で聞いてほしいんだけど」
雅が照れ臭そうに耳朶を触る。彼女は耳が荒れやすいらしく、体じゅうを装飾品で彩る中、耳だけは決して何も付けようとしなかった。
「若い子がいいの。ちょっと生意気なくらいがいいわね。我儘を言ってくれた方が、なんだか嬉しいのよ。あと、顔は絶対に美形じゃないといや。整ってて肌が綺麗で、彫刻みたいな子がいいわ。背も高いに越したことはないわね。鍛えていてくれてると嬉しいけど、ばかみたいにムキムキなのはちょっとね。やっぱ限度って大事よ」
つらつらと語る雅を、松子は微笑みながら見つめる。その視線に気付いた雅が、慌てたように口に手を当てた。
「やだ、何よ、何見てるのよ。理想よ? そんな、何言ってんだって顔で見ないでよー!」
「見てない、見てない。そうなのねって思ってただけよ」
「嘘よ、絶対にちょっと馬鹿にしてた!」
雅が笑いながら、松子の肩を叩く。
一緒に過ごす中で、松子は様々な雅の顔を見た。初対面の印象は、つんと澄ましていて、どこか気取ったような人。けれど意外と涙脆く、子供のような笑顔で笑い、大きな口を開け鼾をかいて眠る。いろんな表情を見せてくれて、そしてどんな表情の雅も、松子は好きだった。
「馬鹿になんてしてないわよ、素敵だなって思う気持ち分かるもの。でも、こんなおばあさんを相手してくれるそんな若い子、見つかるかしら」
「それがねえ、まっちゃん。あたし、こんなの見つけちゃったのよ」
まるでいい悪戯を思いついた子供のような顔で、雅が松子にスマホを見せる。画面には、大きな文字で【銀楼館】と書かれていた。
「なあにこれ。ぎんろうかん? って読むの?」
「うん、たぶんそう。ここね、女性用風俗なのよ」
「ふ、風俗?」
思わず松子の声が裏返る。真昼間のカフェでしていい話題なのだろうかと、思わず辺りを見回す。当然のように、二人の会話に耳を傾ける者は誰もいなかった。
「しかもね、六十代以上専用なの。すごくない? 私たちのためにあるようなものよ」
「で、でも、風俗って……その、いやらしいことするための場所でしょう」
「それがね、エッチなことしなくてもいいみたいなの。普通にデートするために使う人もいるみたいなのよね。ほら、手毬ちゃんのときみたいな感じよ」
手毬とは、二人が娘のふりをしてほしいと頼んだ、レンタル彼女のスタッフの子だ。可愛くて素直でいい子だったな、と松子は思い出す。
「でね、でね。この子、どう? 素敵じゃない?」
雅が写真を見せてきた。【櫻】と名前の書かれた、ピンク色の髪をした青年が映っている。
理想の高い雅が素敵だと褒めそやすだけあって、確かに美しい子だ、と松子は思った。大きな瞳と高い鼻、薄い唇。加工は施されているのかもしれないが、それでも煌びやかな雰囲気に満ちていた。
「確かに、男前ねえ」
「でしょでしょ? シュガービターズのヤマトくんにそっくりじゃない?」
「その、なんとかかんとかのなんとかくんは私、よく知らないけれど。じゃあ、この櫻って子とデートするってこと?」
「そうなの! 来週の土曜に予約入れちゃったわっ」
雅が両頬に手を当て、きゃーっと黄色い声を上げる。
「あらあ、いいわねえ。楽しんでらっしゃいね」
「やだ、何言ってんのよ。まっちゃんも一緒よ?」
肩をぽんぽんと叩く雅に、松子は目を丸くしてみせる。
「ええっ、私もなの?」
「当たり前じゃないの! 私たち、一緒に楽しもうって約束でしょ!」
「そうかもしれないけれど……でも、デートって二人でするものじゃあないの?」
「なあに言ってんのよ。こんな歳して、そうするものみたいなのに縛られてどうするの!」
雅が紫色の唇で笑う。松子は呆れた顔をしてみせたが、内心とても嬉しかった。雅が、二人でいるということを最優先してくれているという事実が。