第四話 最期の宴

 

 櫻と初めて顔を合わせたとき、松子は落胆した。

 顔は、写真そのものだった。むしろ、質量を伴っている分より美しさを感じた。桜色の髪と淡い茶色の瞳、白い肌のコントラストが驚くほど綺麗だった。

 けれど、その美しさを打ち消すほど、彼の態度は無気力に染まっていた。

「あ、どうも。櫻といいます」

 小さな声で気怠そうに挨拶をする。恰好も着古されたパーカーにくたくたのジーパンと、デートというにはラフすぎる。ぶ厚い眼鏡も、自らの美しい顔をわざと隠しているようだ。

 松子はちらりと雅の横顔を窺った。引き攣った笑みで、「はじめまして! よろしくね」と明るく振る舞っている。その奥には確かに落胆が見えて、松子は心が痛んだ。

「えーっと、なんでしたっけ。デートがしたいんでしたっけ?」

「ええ、そうなの。それと、この子も一緒にいいかしら?」雅が、松子の腕に手を添える。

「ああ、いいですよ。うちは極力、お客さんのニーズに合わせるのが売りですから」

 その怠惰な様子でどうやってニーズに合わせるつもりなのだ、と松子は心の中で皮肉を吐く。きっと、私たち老人を馬鹿にしているのだろう。若い男に現を抜かし、金で買おうとする老いた女たちのことを。こんな綺麗な顔をしているのだ、今まで人生で苦労なんてしてこなかったはずだ。そんな人間に、私たちの気持ちなど分かるはずがない。

 松子が心の中でそう呟くにつれ、怒りが徐々に煮え滾っていく。雅さん、もういいわよ、今日は帰りましょう。思わずそう言いかけたとき、櫻が「ん」と雅に向かって手を伸ばした。

「えっ?」雅が戸惑う。

「デートなんでしょ? 手くらい繋がないとじゃない?」

「あっ、そ、そうか。そうよね、それくらいしないとね」

 顔を赤く染めながら、雅が差し出された手を握る。松子が雅と知り合っておよそ一年、初めて見る表情だった。

 そして、雅と櫻のデートが始まった。

 まるで学生のようなデートだった。カフェでお茶をし、映画館で映画を観て、ショッピングモールで買い物をする。その間、櫻は完璧に恋人を演じていた。ケーキを互いに「あーん」をして分け合い、映画を観ている途中はずっと手を握り合っていた。気怠そうな雰囲気は終始変わることはなかったが、それでも櫻は完全に「雅の彼氏」だった。

 松子が一番驚いたのは、櫻に服を買ってあげたいと雅がいい、メンズのアパレルで服を探しているときだった。店員が三人に寄ってきて、笑顔を浮かべながら言った。

「いらっしゃいませ。お孫さんへの贈り物ですか?」

 当然の反応だ、と松子は思った。誰がどう見ても、雅と櫻は祖母と孫だ。手を繋いで歩いていたところで、心優しい孫息子が、覚束ない祖母の足元を支えているようにしか見えないだろう。雅も同じように思っているようで、特に傷ついた様子もなく、何かを答えようと口を開きかけた。そうなのよ、何かいいものないかしら。そんなふうに言おうとしたのかもしれない。けれど、それを櫻が遮った。

「あの。孫じゃなくて、僕、彼氏なんですけど」

 松子は驚いた。雅も、目を丸くして櫻を見つめている。

 櫻は憤然とした表情を浮かべていた。自分の交際相手が軽んじられ、怒りを湛えている様子だった。

 松子には、演技のようには見えなかった。櫻は本気で、雅のことを愛しい恋人だと思っている。そう感じた。

 店員は一瞬顔に翳りを見せたが、すぐに慌てた様子で何度も謝った。雅は全然いいのよと笑っていたが、櫻は憤懣やる方ないという様子で、結局何も買わずにその店を出てしまった。

 その一件をきっかけに、雅は櫻をいたく気に入ったようだった。一日中上機嫌で、そしてそれから幾度も櫻を呼ぶようになった。当然のように、松子を毎回連れて。

 何度めかのデートのとき、雅がトイレで席を外した隙に、松子は櫻に思いきって尋ねてみた。

「ねえ、櫻くん。あなたはどうして、そんなに恋人のように振る舞えるのかしら」

 櫻はきょとんとした顔をする。そしてテーブルに頬杖をつき、何故そんな当たり前のことを訊くのかとでも言いたげに、溜息をついて答えた。

「ようにとかじゃなくて、恋人ですから。当たり前でしょ」

 詭弁だ、と松子は呆れる。いかにも櫻のような職業の人間が言いそうなことだ、とも。確かにデートの間の櫻は、本気で自分が恋人だと思い込んでいるような挙動だったが、かといってそんな浮ついた妄言を信じられるほど松子は単純ではなかった。

「そういう耳心地のいいだけの言葉で、雅さんを惑わすのならやめてちょうだい。仕事だから、お金のためだからと言われた方がまだましだわ」

 相手の心に刺さるようにと、松子はわざと強く吐き捨てる。だが櫻は表情一つ変えず、松子をじっと見つめている。そのまっすぐで澄んだ瞳に、松子の方がたじろいでしまう。

「仕事だとしても僕は、本気で恋人やってるんですよ」

 つい、松子は目を逸らす。同時に敗北感が喉の奥から苦く滲み出る。その言葉に嘘を一切感じられなくて、戸惑ってしまった。

「でも……でも、そういう人が、あなたにはたくさんいるんでしょう。同じように恋人だと思っているような人が。それって、とても不誠実だと思うわ」

「そうですね、確かに誠実ではないかも。でも、誠実じゃないからこそ救われてる人もいるんじゃないかな」

「……言っていることがよく分からないわ」

 分からない。真剣に自分だけに向き合ってくれた方がいいに決まっている。松子は心の中でそう吐きつつ、果たしてそれが雅の望みなのだろうかとも考える。若い男に傾倒する恥や後ろめたさを、相手の不誠実さでバランスを取っているような気もした。

「ねえ、僕からも訊いていい?」

 櫻がついていた頬杖を外し、身を乗り出した。整った顔が近づいて、松子はたじろぐ。

「松子さんは、毎回デートについてきてるじゃないですか。それって、どういう気持ちなのかなと思って」

「そ、それは……雅さんが、ついてきてって言うからなのよ」

「それは分かってますよ。でも、僕らのデートをただ見守るだけなんて、つまらないでしょ」

「それがね……ふふ。意外と、そんなこともないのよ」

 松子の口元から思わず笑みが零れる。思ってもみなかった反応だったのか、櫻は目を丸くして、「ふーん」とだけ答えた。

 松子の強がりではなかった。松子は、二人の過ごす時間を心から楽しんでいた。正確には、そのときの雅の姿を。

 櫻といるときの雅は、いろんな顔を見せる。照れくさそうに笑う。寂しそうに別れを惜しむ。嫉妬で眉を顰める。どれもこれも、決して松子の前では見せない表情だ。そして、恋をしている相手にしか見せない表情。雅は間違いなく、櫻に恋をしていた。

 そんな雅を見られているというだけで、松子は幸せだった。

「二人で何か楽しそうな話してるわね。何話してたのよ」

 トイレから戻ってきた雅が、椅子に腰掛けながら尋ねてくる。櫻が「秘密」と小さく返す。

「あっ、何よそれ。私の悪口でも言ってたんでしょう」

 雅が拗ねて唇を尖らせる。これも、今しか見られない雅の表情だ、と松子は思った。

 

 一方で松子の中には不安もあった。雅が、死ぬことを諦めてしまってはいないだろうか、と。

 櫻と出会ってからの雅は、生きる希望に満ち溢れていた。更に美しくなり、人生を謳歌しているように松子には見えた。愛する櫻と別れたくはない、死にたくないと思うようになっていても、おかしくない。

 その事実を恐れつつも、けれど仕方のないことだとも松子は思う。元々雅には、死ぬ理由なんてないのだ。松子も、雅以上の死の伴侶を見つけられる気はしなかった。そうなるときっと、独りで死ぬことになるのだろう。松子はずっとその覚悟をしていた。

 そんな中、松子は雅から相談があると呼び出された。場所はいつも集まっているカフェではなく、カラオケルームだった。松子が訝しんでいると、「あまり人に聞かれたくない話なの」と雅は声を落とした。

「あのね、まっちゃん。軽蔑しないで話を聞いてほしいんだけど」

 その神妙な表情に体が強張るのを感じながら、「もちろんよ」と松子は返す。

「櫻のことなんだけどね。あの子、元々風俗で働いてる子じゃない」

 櫻の話か、と若干の落胆を覚えつつ、松子は頷く。

「だからね、普段は私たちがしてるような、デートみたいなことはあまりしてないと思うのよ。どちらかというと、もっと先の、なんていうか、際どいことをしてると思うのよね。そういう仕事だから、私たちみたいなばあさんと、そういうことするの、慣れてると思うの」

 雅がぶつぶつと繰り返す。要領を得ない様子に、松子は雅の手をそっと握る。柔らかくて冷たい、骨張った手だ。

「雅さん、大丈夫よ。軽蔑なんてしたりしないわ」

 ありがとう。雅が項垂れて、小さく呟く。松子の手を握り返してくる。

「あのね、私ね、あの子に……櫻に、抱いてほしいの」

 松子が大きく息を吸い、ぎゅっと目を瞑った。

 好きな人に抱かれたい。松子には分からない感覚だった。夫のことは好きだったけれど、性行為にはいつまで経っても慣れなかった。夫の性欲が衰え抱かれなくなったとき、心底安堵した。

 けれど愛の先に、体を触れ合いたいという欲がある人もいるということは分かっていた。そして雅が特に、そういった要求が強いということも。過去の夫たちの話をするときに、悪口を交えながらどんな行為をしたのか語る雅の顔は、どこか懐かしんでいるように見えた。

 だから松子は、櫻と話す雅を見るたび、いつかこんな日が来るのではと思っていたのだ。

「ねえ、まっちゃん、気持ち悪いって思わないでね。自分でもおかしいと思うのよ。こんな歳にもなって、あんな若い子に、抱いてもらいたいなんて。でも、駄目なの。どうしてもそう思っちゃうのよ」

 いつもはきはきとした物言いで、強気な態度の雅が、言葉を詰まらせ顔を赤くし俯いている。握った手は微かに震えていた。爪を彩る宇宙の色が、今日はどこか弱々しいように松子には見えた。

「ねえ、まっちゃん。櫻はどう思うかしら。仕事だから、きっとあの子はお金を払えばしてくれるけど。でも、気持ち悪いって思われたら、私」

「大丈夫よ、雅さん。櫻くんはそんなこと思わないわ。だって雅さんは、こんなに綺麗なんだもの」

 松子がどんなに励ましの言葉をかけても、雅の沈痛な面持ちは変わらない。どうしたものかと思案していると、「ねえ」と雅が更に声を低くした。

「まっちゃんにお願いがあるの」

「なあに? 私にできることなら何でもするわよ」

「あのね。あたしが櫻とするとき……一緒にいてほしいの」

 雅の言葉に、松子は言葉を失う。

 よくない冗談よ、と笑おうとして、けれどすぐに口角を引き締める。切羽詰まったような雅の表情は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えなかった。

「雅さん……さすがに、それは」

「お願い、お願いよ。三人で同衾しようなんて言わないわ。ただ、見守ってくれているだけでいいの。まっちゃんがいてくれれば私、櫻の前で醜く老いた体を晒すことだって、怖くないわ」

 さすがにこんなこと、おかしい。止めるべきだ。松子の中で警鐘が鳴る。雅が若い男と交わる姿など、見たいはずがなかった。櫻だって、やりづらいに決まっている。

 それでも、雅の泣きそうな顔を見ていると、松子には断ることなど到底できなかった。

「分かったわ……見てるだけよ」

「本当に⁉ ありがとう、ありがとうまっちゃん!」

 雅の顔がぱあっと明るくなる。そして、松子に抱きついてきた。雅のネックレスが松子の首筋に当たり、ひやりと冷たくなる。

 松子は雅をそっと抱き締め返す。薄く冷たく、骨張った痩せた体。この体が櫻に抱かれるのだと想像し、松子はそっと唇を噛んだ。

 

「悪いわね。金の為とはいえ、こんなばあさんを抱かせることになって」

 約束の日。雅はにやりと笑って、櫻に言った。

 雅はいつも、櫻には強気な態度だった。皮肉を吐き、少し意地悪く、冷たく接する。松子はそれが雅の愛情の裏返しであることはよく分かっていた。素直に愛の言葉を吐くことができないのだ。幸いにも櫻はそんな雅をいつもぬるりと受け流し、気にしている様子は一切なかった。

「そんなことないよ。僕は職業柄いろんな女の人を見てきたけど、雅さんはびっくりするくらい綺麗だよ」

 気怠く吐かれた歯の浮くような台詞でも、雅の頬はさっと赤く染まる。「ああやだやだ、リップサービスね」と吐き捨てると、逃げるようにバスルームへと消えていった。

 部屋には松子と櫻だけが残された。ラブホテルの一室。それほど淫靡な雰囲気はないものの、松子はそわそわと落ち着かなかった。そもそも、こういった場所に入ること自体が初めてだった。床に正座をしている松子に、ベッドに座る櫻が身を乗り出す。

「そんなところいないで、こっち来たらどうですか」

「いいのよ、私はここで」

 松子は首を横に振る。櫻はそれ以上口を出してこようとはせず、姿勢を戻した。ぼんやりと虚空を見つめる櫻を、松子はそっと盗み見る。

 何度見ても美しい顔だ、と松子は思う。今日はいつもかけているぶ厚い眼鏡を外していて、余計際立っている。薄いグレーのワイシャツを着ていて、浮き出た肩や腕のラインは適度に鍛えられていることが分かる。この男に雅が今から抱かれるのかと思うと、松子は居た堪れなくなった。

 視線に気づいたのか、櫻は松子の方へと首を傾けた。松子は慌てて目を逸らす。

「松子さん、今日よくついてきましたね」

 呆れたような響きがあって、松子は恥じ入る。そこまでするなんておかしいよと言外に伝えられているような気がした。

「雅さんが来てほしいって言うから。仕方なくよ」

「松子さんって、ほんと雅さんのこと好きですよね」

「好きというか……私にできることならなんでもしてあげたいだけよ」

 ふうん、と空気の抜けたような返事。松子は膝に乗せた拳をぎゅっと握り締める。

「じゃあ、雅さんが死ねって言ったら死ぬんだ?」

 まるで子供のような問いを、皮肉めいた笑みを浮かべて吐かれる。だが松子は、静かに笑って答えた。

「ええ。死ぬわ」

 いつだって、死ぬ覚悟はできている。心の中でそう付け足しながら。櫻が面食らったような顔をするのが、松子は小気味良かった。

 シャワーを浴びた雅が、裸にバスローブを着た状態で戻ってくる。入れ替わるようにして、櫻がバスルームへと向かう。

 雅はベッドの縁に座り、硬い面持ちでバスローブの裾を頻りにいじっていた。赤いペディキュアの塗られた自身の爪先をじっと見つめ、無言のままだ。松子も何と声をかけていいか分からず、沈黙の時間がしばし続いた。

 しばらくして、櫻が戻ってくる。首にタオルをかけ黒いボクサーパンツ一枚だけの恰好の櫻を見て、雅が息を呑むのが伝わってきた。無駄な体毛が一切ない、均整の取れた美しい体だ。

 櫻がベッドへと上がり、中央へ座り込む。ぎし、と二人分の重力でベッドが軋んだ。雅は体を固まらせたまま動かない。

「来ないの?」

 櫻が煽るように訊く。「行くわよ」と雅が上ずった声で答え、櫻と向き合うような形で座る。

 雅が、ゆっくりとバスローブを脱いでいく。松子と櫻の眼前に、雅の裸体が露わになっていく。

 細く白い体だった。緑色の髪の毛も相俟って、まるで長葱のようだわと松子は思う。脂肪をできるだけ取り去った、枝のような腕と腿と腹。反対に胸は不自然なほど大きく膨れ、垂れず形を保っている。肌は、しみもほくろも一つも見当たらない。皺も不自然に少なく、作りものめいた体だ。

 だからこそ美しいと、松子は感じた。常に、いつまでも美しくあろうとした、雅の努力の末の顔と体だ。

 櫻が雅を抱き締める。優しく包み込むような抱擁だった。強張っていた雅の体から、溶けるように力が抜けていくのが分かる。櫻の唇が雅の首筋や鎖骨を這う。雅の薄いピンクの唇から、小さく吐息が漏れた。

 櫻に愛撫される雅の姿を、松子はただじっと見ていた。松子が危惧していた嫌悪感はなく、まだ知らなかった雅の表情に喜びを覚えていた。恍惚と緊張の混じった顔は、松子だけでは決して見られなかった。

 雅が櫻に組み敷かれる。櫻が腰を浮かせ、屹立したものに器用にゴムをつけた。

 雅がぎゅっと目を瞑る。寝ても形の崩れない裸の胸が、大きく上下していた。小さな耳は、真っ赤に染まっている。すると、何かを掴むように雅が右手を大きく伸ばした。

「まっちゃん。まっちゃん、お願い、来て」

 雅が苦しそうに声を上げる。松子が立ち上がり、慌てて駆け寄る。感覚の鈍った足がたたらを踏んだ。

「お願い、まっちゃん。手を握ってて」

 そう哀願する雅の手は小刻みに震えていた。松子は一瞬躊躇するが、すぐに手を握り締める。

「大丈夫よ、雅さん。私はここにいるわ。だから、大丈夫」

 体温を感じさせない、冷たい氷のような手。いつも鮮やかに彩られている爪は、今日は何も色はなく、薄くジェルネイルが塗られているだけだった。

「ありがとう。まっちゃん、ありがとう」

 雅が消え入りそうな声で何度も呟く。松子に手を握られながら、雅は櫻と結ばれた。

 

(つづく)