第四話 最期の宴
雅が櫻と一夜を共にした翌日。雅は松子を呼び出し、礼を述べたのち、告げた。
「まっちゃん、お待たせ。あたし、死ぬ覚悟ができたわ」
松子は驚いた。もう雅には、死ぬ気はないのだと思っていた。人間は欲深い生き物だ。甘美な経験を味わえば、更にまた求めたくなる。その思い出を最後に、とはなかなかいかない。だから雅も、きっとまた櫻に抱かれたくなり、希死念慮を失っていくのだと松子は思っていたのだ。
そのことを伝えると、雅は渋面を作った。
「やあね、逆よ。昨日櫻に見せたあたしは、今一番綺麗なあたしなの。これからどんどん醜くなる。そんな姿をあの子に見せながら抱かれ続けるくらいなら、このまま死んだ方がましなのよ」
ああ、やっぱり雅は変わらない。彼女は今も変わらず、美しいまま死にたいのだ。松子は嬉しくなった。
「それでね、ちょっと考えたんだけど。死ぬときの立会人として、櫻に見守っててほしいなと思ってるの」
「櫻くんに?」
「そう。あたしね、最期は好きな人の顔を見て死にたいの。誰だろうって考えたときに思い浮かんだのが、まっちゃんと櫻だったの。櫻にはもう話してて了承を得てるんだけど……どうかしら」
「私はいいけれど……櫻くんはよく許してくれたわね。私たちが死んでいるところに一人だけ生き残ってるなんて、なんだか大問題になりそうじゃない」
「うん、だから遺書もきちんと書くし、見届けたらすぐにその場を離れるように伝えてあるわ。あたしだって櫻に迷惑をかけるのは本意じゃないもの」
とはいえ、櫻にとってはかなりリスクのある行動のはずだ。それでもそれを受け入れたのは、櫻曰く「お客さんのニーズに合わせる」というやつなのかもしれない、と松子は考える。
「それでねまっちゃん、悪いんだけど、もう一つ考えたことがあって」
悪いんだけど、と言いつつ雅には悪びれる様子はない。自分の提案や着想は、いつでも最善であるという自信に満ち溢れている。
「死ぬときはね、跡形もなく死にたいの」
「跡形もなく?」
「そう。たとえばね、あたしの葬式があるとするじゃない。そのときはきっと、死化粧なんかを勝手にされて、棺に詰め込まれてると思うの。それを覗き込んだ参列者どもがね、きっと言うのよ。ああ、綺麗ね、まるで眠っているみたい。ふざけんじゃないわよ、って思うの。私が綺麗かどうかは、私自身が決めること。そんなのを勝手に決めつけられるくらいなら、訳も分からないくらいの形になって死にたいわ」
跡形もない死。たぶん苦しくて痛いのだろう、と松子は想像する。
二人は今までも何度も、どうやって死のうかと話し合ってきた。まるで今日の夕飯は何を食べたいかと相談するような軽々しい語調で。そしていつも結論は同じになる。できるだけ苦しまず、眠るように死にたい。
雅の心境の変化の理由は、櫻の存在が大きいのだろうと松子は推察する。自分が死んだ後に、櫻に美しいと思われるのがきっとたまらなく悔しいのだ。
松子はそのとき初めて、死への恐怖を感じた。想像を絶するような苦痛がそこにはあるのだろう、と。けれど。
「いいわね。二人で、跡形もなくなりましょう」
松子は微笑んだ。死への恐怖など、雅に落胆されることに比べたら、ちっぽけなものでしかなかった。
「ねえ、雅さん。本当に下に誰も歩いていないかしら。当たりでもしたら大変よ」
ビルの屋上。櫻に助力してもらいどうにか柵を越えた松子と雅は、あと数十センチで落下するという場所で、手を繋ぎ立ち竦んでいた。雅がさっきから腰を叩いている。どうやら腰を痛めてしまったようだ。矍鑠としているように見えても、身体は相応に老婆なのか。そんなことを思う松子も、やはり先程から背中が鈍く痛んでいる。
「やだ、変なこと言わないでよ。大丈夫よ、その為に朝早く起きてきたんだから」
「そうなんだけど、怖いじゃない。私、目が霞んじゃって、下がよく見えないのよ。ちょっと見てくれない?」
「あたしだってあんたと同じばばあなんだから、分かんないわよ」
「あらそんなことないわよ。雅さんは私より五つも若いんだから」
「この歳になったら五歳差なんて同い年みたいなもんよ。ていうか、もっと目の良さそうな子がいるじゃないのよ」
雅が振り返った。柵の向こう側にいた櫻は、会話を耳にしていたようで、面倒臭そうにのそのそとこちらへ近付いてくる。柵に手をかけ身を乗り出すと、「誰もいないよ」と教えてくれる。
松子はその言葉に下を向く。ビルとビルの隙間に、今にも吸い込まれてしまいそうな空間が広がっている。松子の脳裏に、ぐちゃぐちゃになった自分の姿がまた、浮かび上がってくる。ふう、と息を吐く。脚が震えているのが、雅にばれなければいいと願う。
「もう思い残すことはない?」
雅が尋ねてくる。そうね、と松子は返す。
「大河も朝ドラも無事最後まで見届けたしねえ」
「うん。ガラスの仮面の最終回は諦めた。あれはきっと大往生したところで終わりやしないわ」
「あらっ、そういえば私、二階の部屋の窓閉めてきたかしら」
「まっちゃん、いつもそこ閉め忘れるわよね。でもいいんじゃない? どうせ死ぬんだから」
「そうね。どうせ死ぬんだから、いいわよね」
「そうよ、いいのよ。……じゃあ、そろそろいきましょうか」
雅のその言葉を合図にするように、二人は繋いでいた手を解いて、そしてもう一度繋ぎ直す。
松子はゆっくりと息を吸う。澄んだ空気が肺に落ちる。晴れた空はどこかまだ薄暗く、ビルたちはまだ息づく様子はない。最期の景色を自分で選べるなんて贅沢ね、と思った。
いくわよ。雅が言う。うん、いいわよ。松子が答える。
足を一歩踏み出す。爪先が虚空へとはみ出る。重力が傾く感覚がして、風が吹いた。ふわりと、身体が宙に浮いた。
死。その言葉が、松子の頭の中でいっぱいになった、そのときだった。
「あらやだ、ちょっと待って!」
雅の叫ぶ声が聞こえた。松子は思い切り引っ張られ、尻餅をつく。背中が柵に当たり、がしゃんと音を立てた。
「ちょっとやだわ、何よ急に。びっくりするじゃない」
「ねえ、まっちゃん。昨日の夜何食べたか覚えてる? 一緒に食べたわよね」
地べたに座り込んだままの松子の横にしゃがみこんで、着物の裾を引っ張ってくる。何だったかしらねえ、と眉間に皺を寄せて考えてみる。
「ああ、思い出した。おうどんよ。鈴蘭の月見うどん、私は」
「あたしはきつねうどん。ねえ、最後の食事がうどんでいいの? あたしは嫌よ」
真剣に言うその姿に、松子は思わず笑ってしまう。
「私、鈴蘭のおうどん好きよ」
「違うわよ、あたしも好きだけどそうじゃなくてさ。もっとお寿司とか、フランス料理とか。こう、最後に相応しい食事っていうのがあるじゃない」
はいはい、と松子は尻を叩きながら立ち上がる。腰に鈍く痛みが広がって、かばうようにゆっくりと背を伸ばす。
「それじゃあ、お寿司食べに行こうかしらね。この柵また越えるの一苦労ねえ」
「何言ってるの、ちゃんと二人で最後の食事しっかりと決めないと。話し合いだよ」
はいはい、と松子はもう一度言って笑う。ふと、柵の向こうの櫻と目が合った。櫻はわざとらしい仕草で肩を竦めてみせる。結局また今日も死ねなかったね、とでも言いたげに。
これで自殺に失敗したのは三度目だ。色んな死に方を試そうとしてきた。焼身自殺。海への身投げ。いずれも死んだ後の体が判別不明だったり消えていたりするものばかりだ。けれどどれも、実行前に思いとどまっている。雅の一言によって。
そういえば、あの映画観たかったの。公開するのすごく楽しみにしてたのよ、あれを観ないと死ねないわ。
近所にね、餌をあげてる野良猫がいるの。あたしがいなくなったらあの子はどうなるの。誰か、世話をしてくれる人を探さなきゃ。
そうやって死は回避され、二人はまだ生きている。
櫻の手を借り、柵の内側へと戻ってくる。「冷えたわね、ちょっとお手洗い」と言って、雅が屋上を出て行く。松子と櫻だけが場に残される。
「死ぬんじゃなかったんですかー?」
櫻が皮肉っぽく語尾を伸ばす。松子は洟を二度すすると、「いいのよ」とだけ答える。
雅が死にたかったのは、生きる理由が欲しかったからなのだと、松子はようやく気が付いた。彼女は、理由がないと生きていてはいけないと思っている。そうして死ぬ間際でどうにか必死でそれを見付けては、この世にのさばる事を自分に許している。自分が醜くなる恐怖を抱えながら。
「だって、松子さんも死にたい人なんでしょ。これじゃあいつまで経っても死ねないじゃないですか」
「いいの。なんなら私は、もっと長生きしなくちゃいけないわ」
「長生き? なんでですか」
「雅を、殺してあげなくちゃいけないからよ」
唐突に松子の口から飛び出た物騒な言葉に、櫻がぎょっとした顔をする。風で乱れる髪を手櫛で整えながら、松子は続ける。
「きっと、雅さんは死ねないわ。もっと老いて身体がいうことを利かなくなるときまで、今日みたいなことを繰り返すと思う。それで、そのときに言うのよ。ああ、こんなになる前に、もっと早く死んでおけばよかった、って」
自らの美貌を誇りに思う雅は、美しさを失った自分の姿を見て、きっと涙を流すだろう。死んでしまいたいと嘆くだろう。おそらくそれは、松子にしか見せない顔だ。誰も知らない、雅の表情。それだけは、絶対に誰にも見せてやらない。
「だからね、そのときは私が殺してあげるの。雅さんが美しいまま死ねるように」
松子は本気だった。自分にできることなら、なんでもしてあげたい。一緒に死んでほしいと言われれば死ねる。死にたいと懇願されたら、殺すことだってできる。
「すごいっすね」
櫻が小さく呟いた。その口元には、先程までのような皮肉は浮かんでいない。
「僕も職業柄、いろんな愛を与えてきたつもりでしたけど。なんかそれ聞いて、敵わないなって思いました」
「そりゃあそうよ」先程の櫻を真似するように、松子が肩を竦めてみせた。「老人をなめないでちょうだい」
櫻が笑った。今まで松子の前では見せたことのない、静かな笑みだった。松子は何故か、櫻のほんとうの姿を今初めて、目にしたような気がした。
屋上のドアが開く。雅が戻ってきた。朝日に照らされ、白いドレスを身に纏った雅は、なんて美しいんだろうと松子は見惚れる。
この人の為ならば私は、醜くこの世を生き続けて、その果てに地獄に落ちても構わない。松子は、そう感じた。
ねえ、考えてたんだけど、天麩羅なんてどうかしら。笑いながら言う雅の声が、屋上に響き渡った。