第二話 永遠に姫
九日後。櫻は再び、施設に呼ばれた。出迎えたのは、憔悴しきった顔の大内だった。
「また、したんです、咲野さん。昨日の夜、例のあれを」
重い足取りで大内が櫻を案内する。食堂の横を通り過ぎるとき、櫻が目をやると、先日の女性五人組が集まっているのが見えた。中心では、道代がさめざめと泣いている。泣かないで、元気出して。ふざけてるわよね、あの人、信じられない。そんな慰めと罵声が混じり合い飛び交っていた。
「あーあ、約束全然守れてねえじゃん。また芝山さんに手出したの?」
「そうなんです。ああもう、なんでこんなことになるのか……」
大内が項垂れ、大きく溜息をつく。フロアの一番奥、【咲野】とネームプレートの貼られたドアの前に二人は立つ。
「でもこの前の様子だと好江さん、俺に興味なさそうじゃん。俺ができることなんもなくね?」
「それが、理由訊いても答えてくれなくて。そしたら、櫻さんがいるなら話すって言うので……」
「えーっ、なんで俺なんだよ」
「私にだって分かりませんよ! でも今日はちゃんと一時間分の料金お支払いしてるんですから。理由、ちゃんと聞き出してくださいよ!」
「はーあ。俺、そういう仕事してるわけじゃないんすけど」
ピンクに染まった髪を、くしゃくしゃと掻き毟る。櫻のぼやきを無視して、大内がインターフォンを押した。少し間があって、「はあい」と間延びした声が聞こえてくる。
「大内です。櫻さん、連れて来ました」
「あ、はあい。どうぞ」
大内がドアを開ける。好江が、九日前と変わらぬ笑顔で立ち上がって待っていた。テーブルの上には、また読書をしていたようで、文庫本と眼鏡が揃えて置いてある。
「ほんとうにごめんなさいねえ、またこんなところにお呼び立てしちゃって。さ、どうぞ、おかけになって」
促されるまま、櫻が腰を下ろす。同じように椅子に座ろうとした大内を、「あら、大内さんはだめよ」と好江が制する。
「えっ⁉ どうしてですか」
「私は、櫻ちゃんと二人きりでお話ししたいの。だから邪魔しちゃやあよ」
「じゃ、邪魔って」
大内が戸惑うように櫻へ視線を向ける。だが櫻はそれを無視し、机の上に置かれた本を勝手にぺらぺらと捲っている。
「……分かりました。私は席を外します。でも、その代わり絶対に、理由を話してくださいね」
「ありがとう、ごめんなさいねえ。大丈夫よ、ちゃんとお話しするから」
好江は悪びれぬ様子で、にこにこと微笑んでいる。大内は釈然としないままの様子で、櫻の耳元に口を寄せてくる。
「櫻さん、頼みますよ。あと、絶対にここでは、あれ、しないでくださいね。するときは、ちゃんとお部屋準備しますから」
「あーはいはい、分かった分かった」
しっしっ、と追い払うような仕草で櫻が手を振る。大内は渋面を作りながら、失礼しますと部屋を去っていった。
「さ、じゃあお茶でも沸かしましょ! 櫻ちゃん、紅茶でいいかしら?」
いいよー、と櫻が本を読みながら答える。恋愛小説だった。栞を挟んであるところでは、主人公とその恋人が互いを想って別れを決断する場面が描かれている。
好江が鼻歌交じりに支度をし始める。櫻が耳にしたことのない曲の合間に、かちゃかちゃと食器がぶつかる音が聞こえてくる。
「このお紅茶ねえ、結構いいお値段するのよ。でもねえすっごく美味しいの! クッキーもあるから、それと一緒に戴きましょ」
好江がウォーターサーバーからケトルに水を注ぐ。櫻は本から顔を上げ、部屋を見渡した。
広い部屋だ。大内曰く、好江の夫が生きていた頃は一緒に住んでいて、亡くなってからも同じ部屋に住み続けているとのことだった。かつて並んで寝ていたベッドを今は一人で占領し、順番待ちをすることなく洗面台やトイレを使え、好きな時間に起き好きな時間に寝られる。そんな生活を今、好江はしている。
「おばあさんの部屋なんて見ても退屈でしょう」
花柄があしらわれた薄桃色のポットに茶葉を入れながら、好江が話しかけてきた。
「べつに。部屋に退屈とか楽しいとかなくね?」
「そうかしら。私は可愛いものが好きだから、もっと可愛い家具で揃えたかったわ。ほら、これなんて見て。全然今時っぽくないでしょう」
そう言いながら好江は黒い桐のクローゼットを撫でる。言葉とは裏腹に、その指の動きは優しく愛おしげだ。
「そお? でも、なんか逆に今はこういうのが流行ってたりするんじゃねえの」
「そういうものかしらねえ。本当はね、この施設に入ったときに、家具を全部替えようかとも思ったのよ。もっと可愛いのにしたいわって。でもねえ、この歳になると、もしかしたら明日死ぬかもしれないじゃない? そう思ったら、なんだかもったいなくて。死んだらもったいないも何も関係ないっていうのに、ねえ」
かちり、とケトルがお湯の沸いた合図を出してくる。はいはい、と好江は駆けていき、ケトルを持ち上げるとポットの中へとお湯を注いでいく。
モノトーンに飾られた家具たちの中で、好江の格好は可憐な少女そのものだった。腰の辺りに大きなリボンのついた水色のワンピースに、ピンク色に塗られた爪。胸元にはハートをあしらったネックレスが光っている。ともすれば年齢にそぐわない『可愛い』恰好だが、好江の雰囲気にはよく似合っていた。
「好江さんさあ、若い頃めっちゃモテたっしょ」
「あら。どうしたの、急に」
好江がくすくすと笑う。彼女の口元にはずっと、笑みが湛えられ続けている。
「ぜってえモテてたって。めっちゃ告白とかされたんじゃないの?」
「うーん、そうねえ。まあ、好きって言ってくれる男性は、それなりにいたわねえ」
「あ、そういうの謙遜しないタイプなのね」
「嘘言っても仕方ないもの。それに、なかったことにしたら言ってくれた人たちに失礼でしょ?」
好江がカップに紅茶を注ぐ。二つの口を、交互にゆっくりと満たしていく。爽やかな香りがふわりと漂ってきた。
注ぎ終えると、そのうちの一つを櫻に渡す。そしていそいそと白い缶を取り出してきた。開けると、中には様々な形のクッキーが所狭しと敷き詰められている。
「美味しそうでしょう。ここのクッキー、注文してから一年待ちなのよ。ようやく昨日届いたんだから。さ、召し上がれ」
櫻がいただきます、と手を合わせる。缶へ手を伸ばし、クッキーを一つ手にする。四角で格子柄が施されたシンプルなものだ。一口で口の中に放り込む。奥歯で噛むと、さくっと砕ける感触がして、仄かな甘みが櫻の舌の上に広がった。
「どう? 美味しいでしょう」
「んー。美味いじゃん」
「ふふ、よかったわ。いっぱい食べてね、私一人じゃこんないっぱい無理だもの」
「んじゃ、遠慮なく」
櫻は次にクリームの挟まったクッキーを手に取り、齧る。その様子を好江はにこにこと見守り、自分は手を付けようとしない。
「あ、また俺がいる」
唐突な櫻の言葉に、好江はきょとんとした表情をする。だがすぐにそれが耳元で光る桜型のピアスのことだと分かると、ふふっと小さく笑った。目尻に柔らかく皺が寄る。
「好江さんはさ」口の端の滓を舐め取りながら櫻が尋ねる。「今もモテモテなわけ?」
「ええ? さっきからどうしたの、恥ずかしいわ」
「いいじゃん、教えてよ」
「そうねえ、仲良くしてくださる方はお陰様でいるわねえ。モテてるって言っていいか分からないけど」
「芝山とかいう人もその一人なわけ?」
好江が笑みを崩さぬまま、カップを持ち上げた。口元へと傾けて、紅茶をほんの少し流し込む。「やっぱり美味しいわあ、このお紅茶」と頬に手を添えた。
「あのさー、俺もぶっちゃけ、好江さんがなんで夜這いみたいなことするのか全然興味ねえわけよ。でもさ、俺、今回これで金貰ってんの。仕事なのよ。好江さんから理由聞き出さないと、怒られちゃうわけ」
「あらあ、それは困ったわねえ」
好江が大袈裟に眉を顰めてみせる。櫻が紅茶を一口飲んで、あっちぃ、と呟く。
「その芝山って人のことが好きとか? でも、その人以外にも手出してるんしょ?」
「好きとかじゃないのよ。もちろんいい方だし、仲良くさせていただいてるけどね。ラブ、ってやつじゃないのよねえ」
「ラブじゃないなら、じゃあなんでそんなことすんだよ」
「べつに、誰でもよかったのよ」
好江が両手をテーブルに置き、ふくよかな指の先を彩るピンクをじっと見つめる。あらやだ、ちょっと剥げちゃってるわ、と小さく独り言つ。
「誰でもいいなら、芝山さんじゃなくたってよくね? なんかみんなめっちゃキレてたよ」
「分かってないわねえ、櫻ちゃん。誰でもいいっていうのは、誰でもよくないのよ」
「何それ。なぞなぞ?」
「ふふ。違うわよお」
左手の指先を右手で包んで隠しながら、好江が悪戯っぽい表情をする。櫻がクッキーに手を伸ばし、口に放り込む。今度は楕円の形をした少し硬めのものだ。
「誰でもいいから傍にいてほしい、って言っても、太ったおじさんじゃ嫌でしょう。誰でもいいから付き合ってくれ、って言ったって、私みたいなおばあさんじゃ絶対無理ってなるじゃない。つまりねえ、そういうことなのよ。誰でもいいは、誰でもよくないの」
「なんかよく分かんねえけど」櫻は咀嚼したクッキーを紅茶で流し込む。「一応芝山さんを選んだ理由はあるってことね」
「そうねえ。私だって、ある程度の清潔感みたいなものは大事にするわよ。妹背さんとかねえ、お風呂嫌いだから三日くらい入らなかったりするらしいのよ。そんなのはさすがに嫌じゃない? それに、相手にだって選ぶ権利はあるもの。嫌がられたら、それ以上するつもりはないし」
「つまり、芝山さんのことはべつに好きじゃないけど、ある程度身綺麗で、好江さんが襲っても抵抗せず受け入れたから、繰り返し狙ってる、ってことね」
「あら、櫻ちゃん、まとめるのが上手ねえ」
まるで幼い孫を褒めそやすような言い回しだった。そんなにやりたかったんだ、と櫻は言いかけて、口を噤む。以前この部屋で好江が言っていたことを思い出していた。私、もともとあんなこと好きじゃないもの。
「好江さん、旦那と仲悪かったの?」
唐突な話題転換に、好江が目を丸くする。けれどすぐに細めて、部屋の奥の方へ視線を向けた。その先には彼女の夫の遺影がある。真っ白な髪で髭を生やした眼鏡の男性が、にっこりとこちらへ微笑みかけている。
「仲は、良い方だったと思うわ。私たち、子供ができない夫婦だったのよ。だからその代わり、二人でいろんなところへ旅行に行ったり、いろんな遊びをしたり、とっても楽しかったわあ」
その口振りとは裏腹に、彼女の表情には旧懐の様子は見えない。まるで、昨日あった出来事を話しているかのようだ。
「だからねえ、夫への当てつけとかじゃないのよ。それにそんなことするんだったら、夫が生きているうちにしまくってやるもの」
櫻は、好江の顔をじっと見つめた。ふっくらとした頬に、小さな鼻、垂れた目尻。人の好さそうな顔立ちで、皺すらも彼女の穏やかさを際立たせているように見える。派手になりすぎない程度に施された化粧は彼女にとてもよく似合っていて、薄桃色の唇から覗く小さな歯が白く美しかった。
櫻は、ふぅと小さく息を吐くと「ギブアップ」と両手を挙げた。
「お手上げ。答え教えてよ」
「えー、だめよお」好江がくすくすと笑う。「ちゃんと櫻ちゃんが当ててくれないと」
「いやまじ勘弁してって。俺が大内さんにキレられるんだってば」
「うーん、じゃあ、こうしましょ」
好江がカップに手を添えたまま、身を乗り出す。
「一週間後、またここに来てちょうだい。それまで理由を考えておいてね、宿題。約束してくれるなら、私も一週間のあいだは何もしないって約束するわ」
「はあ? 信用できねえんだけど」
櫻が腕と脚を組み、威圧的に睨みつける。当然のように好江の様子は何も変わらない。
「そんなこと言わないで。私だって人間だもの、約束破っちゃうことくらいあるわ」
「少なくとも俺は、約束は破らないように生きてるね」
「あらあ、そうなの。じゃあどうしようかしら、困ったわねえ」
好江が頬に手を当て、小首を傾げる。眉根を寄せて、口を尖らせている。あまりにも芝居がかった仕草だが、よく似合っていた。櫻がふざけて、同じように頬に手を当て、首を傾げる。
「好江さんがその顔すると、男はみんな言うこと聞いちゃうんだろうね」
「いやだわ。そんな人聞きの悪い」
「てか、なんで俺なわけ? なんでそんな何回も呼んでくれんの? 言っとっけど、次からは好江さんの自腹だかんね」
櫻が頬から手を離す。まるで不潔なものを触ってしまったかのように、ズボンに手のひらを何度も擦りつけている。
「何言ってるのよ、櫻ちゃん。誰かに会いたがるのに、理由なんてないのよ?」
「そうは言っても、大体なんかしらあるだろ」
「うーん、そうねえ」
好江は頬に沈めていた指を、薄めの唇に当てて考え込む。黒目がちな瞳で櫻をじいっと見つめている。
「髪の色が、綺麗だから」
「はあ?」櫻が顔を顰める。
「櫻ちゃんの髪の色が、綺麗なピンク色だから。私、ピンク大好きだもの。それじゃあ駄目かしら?」
その言葉を聞いた櫻が、黒目を上にして分けた前髪に視線を向けた。指先で一房摘まむ。桜の色に染まった髪の毛が、櫻の指の間で躍る。
櫻が指を離し、大きく溜息をついた。
「わあったよ。一週間後ね。まじで約束だからな」
「うふふ。ありがとう」
好江が満足そうに笑みを零す。
櫻は腕に巻いたデジタルの腕時計をちらりと見た。まもなく一時間が経とうとしている。
カップに手を伸ばす。さっきまで湯気を吐き出していた紅茶は、既に熱を失いぬるくなっている。櫻は一気に飲み干すと、ごちそうさま、と呟き手を合わせた。