第一話 不要な人
ベッドの上にバスタオルを二枚。できたら三枚。潤滑ゼリーでシーツが汚れてしまうのを防ぐためだ。高齢になればなるほど女性の膣内は濡れにくくなる。滞りなく性行為を行うために潤滑ゼリーは必需品だ。挿入中にも何度も足すことになるので、どうしても垂れ落ちてきてしまう。
場合によっては、排泄物で汚れてしまうときもある。骨盤底筋や括約筋の力はどうしても年齢と共に衰えていく。絶頂に達したとき、同時に糞尿を漏らしてしまう者も少なくない。そのときに備える意味でも、タオルは必需品となる。
もちろん、避妊具も着用しないとならない。かようにして高齢女性との性行為には、相応の準備と覚悟が必要になる。
かつて櫻が話していたことを思い出しながら、天城牡丹は口の縛られたコンドームを摘まみ上げた。
「こんなもの、要らないって言ってるのに」
揺らしながら忌々しげに言い放つ。目の前にそれをぶら下げられた櫻は、困惑したように眉尻を下げる。
「だから、何度も言ってるじゃないですかあ。そういうわけにはいかないんですって」
「どうして? 私はとっくに生理は上がってるわよ。あ、もしかしてあんた、病気持ってる?」
「ち、違いますよ。店の規則で定期的に検査は受けてますから」
「あっ、あんた、私が病気持ちだって思ってるわね? 失礼な子ねー」
「そんなこと言ってませんよ! ちゃんとつけないと、僕がお店に怒られちゃうんですってばぁ」
櫻が情けない声を出して泣きそうな顔をする。牡丹は彼の、この表情が好きだった。それを見たくていつも意地の悪いことを言ってしまう。さらさらの金髪を撫で、頬を寄せた。
「冗談よ、冗談! ほんとにあんたは可愛いわね。もう一回する?」
「牡丹さん、もう三回しましたよ。僕、もう出ないですよ……」
「なによもう、若いのに体力がない子ねえ」
「牡丹さんが元気すぎるんですってー」
牡丹が櫻と出会ったとき、ついに見つけた、と雀躍した。自分を満足させる男がやっと現れてくれた、と。
色々な店の男を試した。誰一人として牡丹を悦ばせることはできなかった。体力や技巧、陰茎の大きさや硬さだけのことではない。牡丹の顔を見て嫌悪感を剥き出しにしたり、老人を貶すような言葉を吐き続けたり。一度、SNSに晒し上げられそうになったこともある。牡丹のマネージャーの及川がどうにか収めてくれたようだったが。
その意味でも、櫻は牡丹を喜ばせた。気弱で自己主張しない性格。昔は一本木で男気溢れるような異性に惹かれていたが、八十も過ぎると男の趣味も変わる。従順かつ素直なのが一番可愛らしく思える。
「そうだ、櫻。練習に付き合ってよ」
牡丹が枕元の木製チェストから冊子を取り出し、櫻に手渡す。薄い水色の表紙には『琥珀の双葉』と書かれている。
櫻はぺらぺらと捲る。人物名が書かれたページ。更に進むと、誰かの会話のようなものがずらりと書かれている。
「えっ、あれっ、これって、脚本じゃないんですか?」
「そう。私が今度主演する映画の脚本」
「えーっ、こんなの僕、読んじゃっていいんですか⁉」
「いいのいいの。構わないわよ」
天城牡丹は女優である。芸歴は六十年以上にも及び、白黒時代の演劇界を牽引し、いくつもの代表作を持つ大女優だ。八十四になる今も現役で、かつてほど頻繁ではないもののドラマや映画に今でも精力的に出演している。
櫻は、牡丹のことを知らなかった。それが一層牡丹を喜ばせた。女優扱いされるのは、カメラのある世界だけで充分だ。
「十七ページ開いて」
言われるがまま、櫻は指定されたページを開く。静香とみゆきという二人の女が会話をしているシーンが書かれていた。
「牡丹さんが、このどちらかの役をやられるんですか?」
「私はね、静香をやるの。夫を亡くした未亡人の役。そのみゆきっていうのがね、静香とそう歳の変わらない女なんだけど、夫が死んだ後に現れた愛人なのよ」
「えーっ! なんかドロドロしてる話なんですね」
「ふふ、そうでしょう。静香はね、貞淑で夫に尽くし続けてきた女なの。みゆきが現れて自分は愛人だって名乗っても、夫はそんなことをする人じゃないと信じようとしなかった。でも遺品を整理していたら夫の日記が見つかって、そこにはみゆきへの愛が綴ってあって。そのページは、日記を持って静香がみゆきに会いに行くシーンなの。そこで初めて、静香は感情を露わにするのよ」
「へええ、すごい大事なシーンなんですね」
「そう。だから練習しておきたくて。じゃあ、あんたがみゆきをやってね。25って書かれてるところから始めるから」
「え! 僕も演技するんですか⁉」
「当たり前よ、そうじゃないと練習にならないでしょうが」
できるかなあ、と不安を滲ませながら脚本を睨む櫻の姿を、牡丹はじっと見つめる。
櫻が牡丹を満足させたのは彼の性格や体力だけではなく、見た目もだった。
陶器のような白い肌、色素の薄い瞳、通った鼻梁、薄めの桜唇。仕事柄何人もの容姿端麗な男を目にし、どんな美形にも驚かなくなってきた牡丹ですら、櫻は目を瞠るほどの端整さだ。作り物めいた感じは一切せず、完全に生まれ持ったものだということが分かる。
体つきも悪くない。背は高く、肩や腕や胸にしっかりと筋肉がついている。服を着ていても脱いでいてもシルエットは美しく、目立つ。牡丹も自身の管理には余念がなく、同世代の女性と比べると肌にも張りがあり体型も程よい肉付きで弛みも少ないが、さすがに櫻と並ぶと劣等感を抱いてしまう。
どうしてこんな仕事をしているのだろうと牡丹は何度も思った。彼ほどの見た目なら、きっともっとそれを活かせる場所があるはずだ。たとえば、芸能界。とかく華やかさを求められる世界でも、櫻であれば遜色なく生き抜くことができるだろう。
櫻が口を開く。声も息遣いも聞き漏らすまいと、牡丹は耳を聳てる。
『あら、今日は、何のご用ですか。もう顔を見たくないと、おっしゃったのは、あなたの方ですよ』
その一言で、牡丹の期待は潰えた。
「あんた……演技、下手ねえ」
「そ、そりゃそうですよー! 僕、素人なんですから」
「にしたって、小学生の朗読だってもうちょっとましよ」
ほら、もう一度、と牡丹に急かされ、櫻が台詞を繰り返す。あまりにたどたどしく、感情がちっとも乗っていない。もちろん努力次第では才能が開花する可能性もあるが、それにしても素質がなさすぎる、と牡丹は少し落胆する。美貌の無駄遣いだと小さく笑い、息を大きく吸った。
『あなたの言っていることが、真実だと分かりました。夫とあなたは、確かに関係があった』
脚本を読まずに、牡丹が台詞を読み上げる。喉の奥が熱くなる感覚に襲われる。はじめは、脚本の中にあるただの文字の羅列でしかない。けれど役柄を自分の中で作り上げ、宿した途端に、それはただの文字ではなくなる。登場人物たちの思いを込めた言葉になる。牡丹はこの瞬間がたまらなく好きだった。
『ええ、その通りです。それで、あなたは、何しにいらしたんですか。今になって、私を、訴えたいとでもおっしゃるんですか』櫻が噛んだり言い直したりしながら読み上げる。
『そういうわけではありません。私は、たまらなく悔しいのです。あなたが』
ふっ、と頭の中が真っ白になった。自分の中にいる静香という女が、消えた、と思った。同時に、しっかり叩き込んだはずの台詞も全て消えた。
まただ。また、これだ。最近こういうことが増えた。今まで役に没頭していたのに、急にぷつんと糸が切れたように自分の中が無になる。こんなこと、今までなかったのに。
老い。そんな言葉が牡丹の中に浮かぶ。牡丹がこの世で一番憎んでいる言葉だ。そんなもののせいにしてたまるか。そんなものに負けてたまるか。大丈夫だ、台詞なんてすぐに思い出せる。また静香を呼び戻すことができる。けれど焦れば焦るほど、頭は鈍く固まり、役柄は遠ざかっていく。ああ、早く。早く、早く戻ってこい。
「はっくしょん!」
はっと我に返る。目の前で、櫻がもう一度くしゃみを繰り返す。苦笑しながら、牡丹はベッドの上に丸まっていた掛け布団を手に取ると、櫻の肩にかけた。
「あんたのくしゃみで台詞飛んじゃったじゃないの」
「うう、すみません」
洟を啜る櫻と肩を寄せ合い、牡丹も同じ布団に包まる。剥き出しになった腕が冷たい。裸でいたせいで体を冷やしてしまったのかもしれないな、と思いながら撫でる。とうに失ったきめ細やかな肌の感触が手のひらの上を滑った。
こんこん、とノックの音が聞こえた。牡丹が無視していると、がちゃりとドアが開き、マネージャーの及川美津江が顔を出した。
「ちょっと及川、勝手に部屋に入ってくるんじゃないわよ。真っ最中だったらどうするのよ」
「ノックしましたよ。お二人とも、そろそろお時間です」
及川は裸の二人を見ても何の躊躇も見せず、淡々と告げた。牡丹はベッドサイドに置かれた時計に視線を向ける。確かに、牡丹が金で買った櫻との時間は、あと五分で終わろうとしていた。これ見よがしに大きく溜息をつくが、及川は気にする素振りは見せず、二人の間に置かれた脚本を睨みつけた。
「牡丹さん、まさか、櫻さんに脚本見せてないですよね?」
「ちょうど今二人で見てたわ。本読みを手伝ってもらってた」
「牡丹さん……駄目ですよ、部外者に脚本見せたりしちゃ。流出でもしたらどうするんですか」
「あんたは二言目には流出だの炎上だのって、そんなんばっかりね。それよりも聞いてよ。この子、びっくりするくらい演技が下手なの」
「役者じゃないんですから当たり前です。それより、早く準備をしてください」
及川が淡々と言い放つ。彼女は牡丹の娘といってもいいほどの年齢だが、ちっとも物怖じする様子を見せない。それは長年の関係の上で成り立ってきたからというよりも、及川の元来の性質だろう。現に、及川が牡丹の担当になったばかりのときから、遠慮という文字は及川の中にはなく、はっきりとした物言いは周りが戦々恐々とするほどだった。だからこそ、自分は及川を三十年も傍に置いていられるのだろうと牡丹は感じている。
「そういえば、これ、買ってきました。どうぞ」
及川が牡丹に手渡してきたのは、炭酸水の入ったペットボトルだった。受け取りながら牡丹が目を細める。
「何これ。こんなの頼んだ覚えはないけど」
「いえ、牡丹さんが数時間前に、電話で。櫻さんを迎えに来るついでに買ってきてほしいと」
その言葉を聞いた途端、牡丹の眉間にぎゅっと皺が寄った。ペットボトルを強く掴み、及川の方へ投げつけた。ペットボトルは小さく弧を描き、及川の足元にぼとんと音を立て落ちた。
「私が嘘をついてるっていうの⁉」
牡丹が歯を剥き出しにして叫ぶ。及川はそんな彼女の姿から目を逸らし、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。私の勘違いでした」
謝られてもなお、牡丹は息を荒くし及川を睨みつけている。転がるペットボトルの中から、しゅうしゅうと炭酸が弾け回る小さな音だけが漏れ、広い部屋の中に響く。及川が、それをゆっくりと拾い上げた。
「それで、明日の初顔合わせですが。詳しいスケジュールはスマホに送っておいたので、目を通しておいてください。朝お迎えに伺います」
及川がまるで何事もなかったかのように淡々と告げた。今の悪辣な空気に臆することのない、いつも通りの声色だった。牡丹の中から怒りが溶け、「はいはい」とおざなりな返事と共に体外へと出て行く。及川は決して必要以上に謝ったり、牡丹におもねるようなことはしない。そこもまた、牡丹が及川を信頼している要素の一つだった。
「櫻さん。帰る準備はできましたか」
一部始終を息を呑んで見守っていた櫻が、話を振られ慌てて服をかき集める。急いで身に着け、荷物をトートバッグに詰め込むと、ベッドから降りる。
「それじゃあ、牡丹さん、今日もありがとうございました」
「こちらこそ。また連絡するからね」
にこにこと無邪気な笑顔で手を振ると、櫻が去っていく。ぱたんとドアが閉められ、しばらく経ったところで、牡丹は大きく溜息をついた。
裸のまま、掛け布団に包まる。少し冷えた肌に、天鵞絨の感触が心地いい。
転がったままの脚本に手を伸ばす。開かずに胸に抱く。牡丹は、ぶつぶつと諳んじ始める。
そういうわけではありません。私は、たまらなく悔しいのです。あなたが夫の愛した最後の人だったということが、悔しくて、許せないのです。
ふう、と牡丹が息を吐く。ほら、言えた。何の問題もない。自分に言い聞かせる。
牡丹にとって、この映画『琥珀の双葉』は勝負作だった。数十年ぶりの主演作だから、というだけではない。それ以外にも、この作品で絶対に失敗できない理由があった。
老いなんてものに躓いている場合じゃない。今まであらゆる障害や挫折を何度も乗り越えてきたのだ。こんなものなんてことない。だって私は、女優なのだから。
牡丹は、何度も何度も自分に言い聞かせる。