第一話 不要な人
「すみません、いつもいつも送ってもらっちゃって。ありがとうございます」
櫻は運転する及川に礼を言う。車は左のウインカーを光らせ、そのまま左折していく。
「いえ、構いません。あなたのためではなく牡丹さんのためですから」
及川の突き放したような物言いに、悄気た様子で櫻が肩を落とす。櫻が牡丹の家から帰るとき、毎回のように繰り返される問答だ。都度礼を言うほど櫻に感謝されているというよりは、車内の沈黙に耐え切れずに口にしてしまうだけだろう。かといって及川は、世間話をして交流するつもりも毛頭なかった。
櫻に告げた通り、彼を牡丹の家から送り迎えするのは牡丹のためだった。万が一マスコミが、櫻が牡丹の住むマンションに入っていく姿を撮ってしまったら。ましてや、部屋に入る様子まで見られてしまったら。格好のネタだ。八十四歳の大女優、夜な夜な男娼を家に呼びつけ性行為に耽る。そんな下品なタイトルが雑誌の一面に躍るに違いない。
だから及川が車で送迎をするようにしていた。万が一出入りを誰かに見られても、及川と一緒であれば説明はなんとでもつく。
それにしても、と、赤信号の隙に助手席の櫻の横顔を盗み見る。牡丹がこういった男を好むとは意外だった。確かに驚くほど綺麗な顔をしているが、彼女が今まで浮名を流してきた相手とは全くタイプが違う。白いパーカーにジーパンという出で立ちはまるで少年のようで、男らしさや威厳といったものとは無縁に思える。それとも、性の捌け口くらいであれば彼くらいの方がちょうどいいのだろうか。そういえば、彼にとてもよく似たアイドルの子がいたな、と思い出す。牡丹と共演経験はないが、もし会うことになったら牡丹は何と思うのだろう、とぼんやり考える。
牡丹が金で男を買うことに対し、及川は特に反対はしなかった。むしろ積極的に相手を探していたのは及川の方だった。下手に同じ業界の若い男に手を出して問題になるよりは、男娼を相手にしてもらった方がリスクが少なくていい、というのが及川の考えだった。それに若い男を相手にしていつまでも若々しくいられるのであれば、及川にとっても喜ばしいことだった。
天城牡丹は美しい。デビュー当時から誰もが目を奪われるような美貌の持ち主だったが、年齢を重ねるにつれその美は更に熟成されていっている気がする。本人も日々努力はしており、健康に人一倍気を遣い、暇さえあればジムに通い体を鍛えている。その結果性欲を持て余しているのであれば、どんどん解消していってもらって構わない。及川は、牡丹にはいつまでも元気で長生きしてもらわなければ困ると常々思っている。天城牡丹という女優を、及川はまだまだ感じ足りていないのだ。
「そういえば、櫻さん」
微睡んでいたのだろうか、俯いていた櫻がびくりと肩を震わせた。ふぁい、と間の抜けた返事が左隣から聞こえてくる。
「今日読んだ脚本の内容、絶対に他言無用でお願いします」
「あ、は、はい。それは、もちろん」
「天城が外部に漏らしたなんて知られたら、大問題になります。もしあなたが天城のキャリアを邪魔するようなことがあれば、私はあなたを地の果てまで追い詰め、殺すことも辞さない覚悟ですから」
「えぇー……またそんな物騒な冗談を」
冗談のつもりはなかった。及川は、牡丹のためなら人を殺したって構わないと本気で思っている。
「それにしても、櫻さんはラッキーですね。あの天城牡丹の演技を、本番ではないとはいえ間近で見られたんですから」
「ラッキー、なんですかね」
「当然です。天城牡丹に憧れてこの業界に足を踏み入れた人は大勢います。彼女と共演することが目標の俳優もいるんです。幸運以外の何物でもありませんよ」
及川もその一人だった。何の気なしに観た七十年代の映画で、及川は天城牡丹という女優に心を奪われた。
おそろしく美しい人だ、と感じた。当時三十代だった彼女は可憐で、しかし時には艶やかさを身に纏い、卓越した演技力で周りを圧倒していた。天城牡丹が台詞を吐く度に及川は耳を聳て、細やかに動く表情がテレビに映るたびに息を呑んだ。彼女の細い眉、切れ長の瞳、すっと通った鼻梁、赤く厚みのある唇、全てが及川を虜にした。
牡丹の所属する芸能事務所に就職できたとき、及川は会社に牡丹の担当をさせてくれと何度も懇願した。牡丹は気難しく何度もマネージャーが変わっており、新人だった及川には務まらないと断られ続けたが、ついに熱意に負けたのか担当をさせてもらえることになった。
確かに牡丹は我儘で融通が利かず、及川も何度も怒鳴られ罵倒されたが、そんなものちっとも気にならなかった。演技をする天城牡丹があまりにも美しすぎたからだ。それが間近で見られるのであれば、何をされたとて構わないと感じていた。
その熱意が通じたのか、それ以来ずっと及川は牡丹の傍にいさせてもらっている。これ以上の幸福はなかった。
「へええ、やっぱり牡丹さんってすごい女優さんなんですねえ」
櫻が呑気な声を出す。若い子からの認知度はどうしても低くなってしまうのは分かっていつつも、及川はやはりもどかしい気持ちになる。今演技派と持て囃されている俳優たちなど、牡丹に比べれば凡百の存在でしかないというのに。
「櫻くんは天城の作品を観たことがないって仰ってましたよね。一度くらい観てみてもいいと思いますよ」
「うーん、そう思ったんですけど、何から観たらいいのか」
「だったら『紅蓮の女たち』を是非。今回の新作にも通ずる映画ですから」
「へええ、そうなんですか?」
「ええ。『琥珀に双葉』と同じ監督の作品で、愛人のみゆき役である加賀美華も出演しているんです。新作では敵対し合う二人ですが、『紅蓮の女たち』だと共闘して一人の男に復讐する物語になっています。七十年代の作品なので今観るとやはり違和感があるかもしれませんが、それでも遜色のない出来で……」
及川はそこまでまくし立てて、我に返る。余計なことを滔々と語ってしまった。牡丹のこととなると、どうしても饒舌になってしまうのが自分のよくないところだ、と自戒する。櫻は気に留める様子もなく、スマホにタイトルをメモしている。
櫻といると、妙に舌が滑らかになってしまうことも及川は自覚していた。彼自身は口数がそれほど多い方ではないというのに。そういうところを、牡丹は気に入っているのかもしれない、と及川は推察する。
「ともかく、天城の演技が本当に素晴らしいので、御覧になってみてください」
「分かりました、ありがとうございます! でも、僕なんかからしたら、演技してる俳優さんたちはみんなすごいなーって思っちゃいますけどねー。さっきも牡丹さんにへたくそだって怒られちゃいましたし」
車は人気のない道を走る。さっきから対向車もほとんど現れず、ほとんど意味をなさない信号機だけが黙々と働いている。大通りを抜けると、奥の方に駅が見えてきた。櫻が住む家の最寄り駅だそうだ。彼は家まで送らせたがらず、いつもここで降りるようにしている。
「櫻さん、本当は演技できるんじゃないですか?」
減速しながら、及川は問う。櫻はきょとんとするが、すぐに破顔した。
「まさか。演技なんて、僕はできませんよ」
車が駅前に着く。今日もありがとうございました、と礼を言い、櫻は去って行った。