第二話 永遠に姫

 

 食事の時間、隣に座った彼女の手が腿に触れるのが合図だ。その夜は、個室の鍵を開けたままにしておく。職員たちが見回りに来る時間は大体分かっている。隙間を狙い、彼女は部屋へとやってくる。

 彼はベッドの中にいるだけでいい。彼女は音を立てないようにドアを開け、閉める。息を殺し、布団に潜り込む。

 彼女は彼の体をまさぐり始める。肩、胸、腹、そして下腹部。性器を重点的に撫でてやると、徐々に硬化していく。彼女はパジャマのズボンと下着を、布団の中で一気に引きずり下ろす。熱を持ち始めたものが露わになる。

 そして彼女はそれを、口で咥え込んだ。

 

「何それ? つまり、夜這いってこと?」

 櫻が耳の後ろを掻きながら、だるそうに尋ねる。連ねて並べられたピアスが三つ、じゃらじゃらと鳴った。

「そうなんです。本当に困ってるんです、私たち」

 施設職員の大内多香美が、憤慨を隠さず息を吐く。三十センチ以上背の高い櫻を、じいっと睨みつけている。

「巡回してたんですよ、私。そしたらね、苦しそうな息遣いが聞こえてくるんですよ。部屋の外から声かけても、なんにも応答ないし。私、何かあったのかもって焦っちゃって。職員はね、個室の鍵が渡されてるんです。だから急いで鍵取りに行って、ドア開けたら、どうなってたと思います? 裸ですよ、裸! 裸で、抱き合ってたんです! 性行為をしてたんですよ! もう、もう、私、倒れそうになっちゃって。でもどうにか踏ん張って、女性の方を自分の部屋に帰して。翌日、施設長と一緒に話を聞いたら、どうやら彼女、初めてじゃないらしいんですよ。今までも何度も、男性の部屋に夜忍び込んでるんです。もう、今度こそ私、倒れそうになっちゃって! でも踏ん張りましたとも! とにかく厳重注意です。彼女もしおらしくしていたので、その場は終わりました。でも、またしたんですよ、彼女! もうね、本当に困るんです! 風紀を乱しているんです彼女は!」

 大内が唾を飛ばさん勢いでまくし立てる。櫻はそれをただじっと聞いていたが、彼女が反応を求める表情を浮かべると、「何が?」とだけ返した。

「……は? 何が、とは?」

「その夜這いされたじいさんたちは、奥さんいるとかなの?」

「違いますよ! うちの施設はご夫婦でご入居される方もいらっしゃいますけど、基本的には同室ですし。被害に遭われた方はみんな独身の方です!」

「なら、別によくね? 不倫してるわけじゃないなら、どんだけエッチしたってそれは自由じゃん。そりゃーみんなの前でおっぱじめたらさすがに風紀がってなるけどさー。部屋の中でこっそり楽しむくらいなら別にいいんじゃね? って思うんだけど」

 櫻の言葉に、大内の顔がみるみる赤くなる。

「何言ってるんですか! もしそれが怪我や事故の原因になったらどうするんですか?」

「えー何? 結局は施設側の責任問われるからみたいな感じってこと?」

「いえ、そういうわけじゃ……! それに、ご家族だってこの事実を知ったらなんて思うか!」

「元気でいいわねえってなるんじゃないかなあ」

「そんなわけ! ショックを受けるに決まってるでしょ!」

「老人同士がセックスするなんて、みっともない、身内の恥だって?」

 櫻の声が低くなった。大内が言葉を詰まらせ、目を泳がせる。はぁ、と櫻が大きく溜息をついた。

「で? 俺に何をしてほしいわけ?」

「あ、は、はい」

 大内が居住まいを正す。先程までの流暢な口ぶりとはうって変わって、言いづらそうに口籠る。水色のシャツの裾が、彼女の指のせいで皺がいくつも寄ってしまっている。

「彼女の相手をしてあげてほしいんです」

 小声の答えに、櫻が大内をじっと見つめる。もっと正確に話せ、と言わんばかりの視線だ。大内は苛立ちながら、声を荒らげた。

「だから! 彼女と性行為をして、性欲を発散してあげてほしいんですよ! もう二度と入居者の方に手を出さないように!」

「いや、それはいいんだけどさあ」少しパーマがかったピンク色の毛先を、櫻が指で弄る。「当たり前だけど、そのおばあちゃんの同意がないと俺は無理だからね?」

「そ、それはもちろん当たり前です。なので今から、その方にお会いになって、お話ししていただきたくて」

「へいへい。そのおばあちゃんにも好みがあると思うんだけどなあ」

 櫻がのっそりと立ち上がった。小柄な大内が横に並ぶと肩くらいまでしかない。気怠げに背を丸めているので、本当はもう少し背丈があるかもしれない。

 大内が苦手なタイプだった。確かに顔立ちは整っていて、くっきりとした目鼻立ちやすらっとした体つきには目を奪われる。けれど両耳たぶにびっしりとついたピアスや、脱色した眉、ピンクの髪に赤と黒の派手なスカジャンという出で立ちは、大内が生まれてからこの方避けて生きてきた人種そのもので、櫻を選んだことを早くも後悔していた。

 施設長に依頼され、女性用風俗を探しているうち、『銀楼館』というサイトに行き着いた。そこは高齢女性専用の風俗だった。開くと、ずらりとキャストの顔写真が並んでいた。その中でひときわ目を引いたのが、櫻だったのだ。

 しかし、実際会ってみると写真の耽美な雰囲気とは程遠く、粗野で品性に欠けた態度だった。確かに見た目は写真と相違ない端正さではあったが、ある種の写真詐欺だと大内は憤慨していた。

「あ」櫻が声を上げた。長い手を伸ばすと、テーブルに置いてあった湯呑みに手を伸ばす。大内が櫻が来たときに淹れたお茶だ。それをごくごくと一気に飲み干すと、げっぷをした。

「そんじゃあ行きますか」

 大内は分かりやすく渋面を作るが、櫻は無視したままドアを開けた。

 

 咲野好江は今日も可憐だった。

 いつもにこにこと笑みを浮かべており、垂れた目尻やふくよかな体つきは安心感を与える。きっと若い頃は可愛らしい女性だったのだろうということが容易に想像できる。言葉遣いも丁寧かつ穏やかで、人当たりがいい。職員内でも人気が高く、そんな彼女が夜な夜な淫行に耽っているとは最初誰もが信じられなかった。当然だ、と大内は思う。実際その現場を目撃した大内ですら、自分の目を疑うしかなかったのだから。

「あら。知らない方がいらっしゃるわ」

 見るからに施設の雰囲気にはそぐわない櫻が部屋に入ってきても、その笑みを崩さなかった。櫻は、好江の顔をじいっと見つめている。

「それ、俺じゃん」

 好江の耳を指差して呟いた。厚めの耳たぶには、桜をモチーフにしたピアスが光っている。

「この方、櫻さんってお名前なんです」

 大内が紹介すると、櫻はぶっきらぼうに一礼した。

「櫻さん。素敵なお名前ねえ。私は咲野好江と申します」

 好江は膝の上に手を重ね、ゆっくりと深く頭を下げた。肩の下まで伸びた髪は、つむじの辺りまで綺麗に黒く染められている。どうやら読書をしていたようで、好江の前のテーブルには文庫本と老眼鏡が置かれている。

「ごめんなさいね、こんなところまで来ていただいちゃって。さ、座って座って。ほら、大内さんも」

 好江は優しい声色で、ゆっくりと話す。言われるがまま、櫻と大内は小さな椅子に腰を下ろし、テーブル越しに好江と向かい合う形になる。

 こんなところ、と好江は言うが、この部屋は施設の中でもランクの高い一室だ。広さもあり、家具も充実している。ダブルベッドに大型のテレビ、壁沿いにずらりと並んだ本棚。奥の引き戸はトイレと洗面台に通じているが、洗面台の鏡の裏の棚には化粧水や美容液が所狭しと並んでいる。ほとんどが以前住んでいた家から持ってきたものだが、他の入居者が見たら確実に羨む様相だ。もちろん、それ相応の金額を払っているということでもある。そして部屋の一番奥には、小さな仏壇と老人男性の遺影。

「お茶か何か召し上がる? この前ねえ、いい紅茶が届いたのよ。一緒にクッキーも買ったから、よかったらいかがかしら」

 腰を浮かせかけた好江を、大内が「結構です。座っててください」と遮る。好江がしゅんとした顔でもう一度椅子に腰を下ろした。その沈んだ表情を見ると罪悪感に駆られるが、大内はぐっと堪える。過去の話し合いで、何度この顔を見せられ籠絡されたことだろう。

「いいですか、咲野さん。前にご説明した通り、櫻さんはご老人専用の風俗で働いてらっしゃる方なんです。咲野さんが肉体的にこう……なんていうんですか。持て余しているというか、触れ合いたいと思ってるのなら、彼が相手してくれます。ずっとというのはさすがに無理ですけど、初回は施設が費用を持ちます。なので、一回試して……試すって言い方はよくないかもしれませんけど。とにかく、考えてみていただきたいんです。何度も言いますけど、入居者の方には手を出してほしくないんです」

 前のめりになって説明する大内を、好江はただじっと見つめて聞いていた。内容を咀嚼するようにゆっくり三度頷いた後、小さく首を傾げて「そうねえ」とだけ言った。そして、沈黙。

「そうねえ、って……どういうことですか、そうねえって」

 焦れた大内が唾を飛ばす。

「だって、なんだか難しくて」

「難しいこと言ってないでしょう! 入居者とするくらいなら、この人としてくださいってだけです!」

「やだあ。大きな声出さないで」

 身を縮こまらせる好江に、大内は更に眉を吊り上げる。好江は七十を超えているが矍鑠かく しやくとしていて、普段の受け答えもしっかりできる。にもかかわらずこの話題になると、とぼけて老人然とした態度になり始める。それが大内の癪に障るのだ。

「なあ、好江さん」

 苛立つ大内を制するように、櫻が組んだ脚を解き身を乗り出した。

「べつに、あんたが俺を好みじゃなかったらはっきりそう言ってくれればいいから。そしたら別の奴を寄越すだけだし。だからその辺だけさっさと教えてくんない?」

 好江は櫻の粗暴な口振りにも怯む様子はなく、それどころかまじまじと櫻の顔を見つめている。そしてぽつりと「綺麗なお顔ねえ」と呟いた。

「はあ?」櫻が怪訝な声を出す。

「おめめもおっきくて、肌もお人形さんみたいに白くて。それに、桃色の髪がとってもお似合いだわ」

「はあ。そりゃどうも」

「あなたみたいな綺麗な人なら、私みたいなおばあさんの相手なんて、しなくてもいいんじゃない?」

「あのね、俺は仕事でやってんの。金さえもらえりゃ、どんなばあさんだってなんでも言うこと聞く。それが俺のお仕事」

「あらあ。そうなの」

 納得したのかどうか分からない様子で、またゆっくりと三度頷く。そして、大内の方へ向き直った。

「大内さん。せっかくですけど、私、遠慮しておくわ」

「ええ⁉ 遠慮って」大内が眉を顰める。

「だって、こんな若い方に相手していただくなんて、申し訳ないもの」

「若いのが嫌なら、五十代のおっさんもいるけど?」

「あら、やだわ。五十歳なんて息子の年齢よ」

 好江が口元を手で押さえ、上品にころころと笑う。

「年下が苦手ってことですか? おじいさんが働いてる風俗なんてあるのかしら……」

 大内がぶつぶつと呟きながら考え込む。すると好江が「ほんとうにごめんなさいね」と頭を下げた。髪は艶やかで、根元まで綺麗に黒く染まっている。

「大内さんには、ご迷惑をかけてしまったわ。櫻さんにも、こんなところまでご足労いただいてしまって。でももう、大丈夫です。私、あんなことはしません。皆さんをこれ以上困らせたくないもの」

 しおらしい好江の態度に、大内が面食らった顔をする。その横では、櫻が頬杖をつきその言葉を聞いていた。

「……約束してくれるんですか? もう、しないって」大内が念を押す。

「ええ、しません。約束するわ」

「絶対ですよ? 絶対に絶対ですからね?」

「もちろん。安心してちょうだい」

 大内が櫻を見遣る。櫻は唇を尖らせ、おどけた様子で肩を竦めてみせた。はぁ、と大内が小さく溜息をつく。

「分かりました、そのお言葉信じます。もう私たちを裏切らないでくださいね?」

「ええ、もちろん」

 にっこりと可憐な笑みを浮かべる。柔和で温かく、楚々とした笑顔だ。

「それに私、もともとあんなこと好きじゃないもの」

 

(つづく)