第一話 不要な人
店を出た頃には、もう午後十時を回ろうとしていた。華は、及川を呼んであるから一緒に送らせるという牡丹の誘いを断り、駅へと向かっていった。それなりの酒量を口にしていたはずだが、しっかりとした足取りで雑踏の中へと消えていった。
牡丹と櫻は、店から少し離れたところで及川の車を待っていた。春先の夜風は冷たく、牡丹は剥き出しになった腕をさする。櫻が自分のジャケットを脱いで牡丹に差し出そうとするが、牡丹は苦笑して首を横に振り拒む。仕方なく櫻はジャケットを着直す。
「今日は、ご馳走様でした。すごく美味しかったです」
櫻が小さく頭を下げる。酔っていなさそうに見えたが、耳の辺りがほんのりと赤い。
「いいのよ。こちらこそ、騙して連れてきたみたいで悪かったわね」
「いえ全然! とんでもないです」
櫻は結局、どうして自分を呼んだのかと牡丹に尋ねることをしなかった。牡丹はそれが櫻にとっての礼節なのだろうかとも考えたが、もしかしたら単に興味がないだけなのかもしれないと思い直す。その理由が、自分を抱いてくれる若い男を見せびらかしたいからなのか、自分がまだ女だということを誇示したかったからなのか、きっと櫻にとってはどちらでもいいことだ。ただ、牡丹が望んだから、その通りに従う。それだけなのだろう。
「でも、お二人ともいきなり険悪なムードになるから、ちょっとドキドキしちゃいました。その後は仲良さそうにお話ししてたからよかったですけど」
「あら、仲良さそうに見えた?」
「はい……え、違うんですか?」
「どうかしらね。あの子は、私のこと今でも恨んでると思うから」
我ながら芝居がかった思わせ振りな言い回しだな、と牡丹は思う。役者を長くやっているとこんな嫌な癖がついてしまうのか。黙って続きを待つ櫻に、牡丹は滔々と語り出す。
「『紅蓮の女たち』の後に、華と西木が付き合って、結婚したのよ。その頃、華はお嫁さんにしたい女優ナンバーワンだなんて言われてたから、結構話題になってたわね。おしどり夫婦とかいって、二人でバラエティ番組に出たりして。それでねえ、私、西木をあの子から寝取ったのよ」
自身の爪に落としていた視線を、櫻に向ける。櫻はにこにことした笑みを崩さないままで耳を傾けている。
「それが原因で、華と西木は離婚した。私はしばらく西木と付き合ってたけど、すぐに破局した。そこからすぐだったわね、華が引退宣言をしたのは。加賀美華の引退は天城牡丹のせいだって、いろんなところで言われたし書かれたわ。華はさっき否定していたけど、まあ、私のせいでしょうね。もう何十年も前の話だけど、きっとまだ恨んでると思うわ。時間と共に風化なんて言葉、人間の感情には関係ないって、この歳になるまでいやってほど思い知らされてきたんだから」
櫻は小さく、そうなんですねと呟いた。その瞳には何の色もない。軽蔑も憐憫も。華と同じ無色の目。相手に感情を与えなければならない女優としては、我慢ならない目だ。
けれどきっと、だから自分は櫻を気に入ったのだろうな、と牡丹は推測する。
ずっと、何者かになることを望んできた。それが誰かに必要とされる術だと牡丹は信じ込んでいたからだ。求められたい。認められたい。その思いは年を取るたび強くなる。老いて衰えていくたび、自分は疎まれているのではないか、この世の中に不要な人間なのではないかと考えるようになった。
けれど、役を演じているときは違う。天城牡丹という女優を求められているのだと実感できる。だからこそ、牡丹は女優という生き方を捨てられなかった。床に臥せ斃れるその日まで、女優でいなければならないのだ。
だから牡丹にとって、何者にもならなくていい瞬間は、たまらなく心地良いものだった。
「あんたは、私が何をしても肯定してくれそうね」
「もちろん」櫻が柔らかく笑う。「だって僕は今、牡丹さんの恋人ですから」
牡丹が訝しげに目を細める。
「あんた、さっき店でも言ってたわね、それ。一体何なの? 気色悪い」
「えーっ、そんなこと言わないでくださいよお」
櫻が子供のような声を出した。美麗なスーツ姿にはとても似合うとは言えない、情けない表情を浮かべている。
「僕のモットーなんです。仕事中は、相手のことを恋人だって思うこと。相手に、本気で恋すること。だから今は僕は、牡丹さんの恋人なんです」
なんて嫌な男なんだろう。牡丹は笑う。一時的な愛情は、違う日には違う女に注がれる。本気で受け取ってしまったら最後、嫉妬と焦燥に苦しむことになる。たちが悪いのが、きっと櫻は誰に対しても真摯なのだろうということだ。演技などではない。間違いなく彼は、恋しているのだろう。それは何度も違う人間を演じてきた牡丹だからこそ分かることだった。本当に、嫌な男だ。
強い風が吹く。後ろで一つにまとめた髪が乱れそうになり、牡丹は咄嗟に手で押さえる。大通りから逸れているせいで車通りがあまりない。腕をさすりながら、「ねえ」と櫻に声をかける。
「ここじゃあタクシー捕まらないんじゃない? 大通り行った方がいいんじゃないかしら」
櫻が怪訝そうな表情をする。牡丹は咄嗟に口元を押さえた。考える。何か変なことを言っただろうか。自らの言動を思い返す。分からない。不安になる。こんなに冷たい風が吹いているのに、脇にじっとりと汗が滲み始めてくる。
「大丈夫ですよ」
櫻が笑って、牡丹の手を握った。冷えた空気にもかかわらず温かい手だった。
「及川さんが迎えに来てくれますから、大丈夫です」
牡丹は手を握り返しながら、小さく頷いた。
数分後、及川がやってきた。牡丹と櫻は後部座席に乗り込む。牡丹はしばらくただじっと黙って窓の外を見つめていたが、いつの間にか眠ってしまったようだった。櫻と及川は会話を交わすことなく、その音だけが車内に響いていた。
牡丹の家に着く。及川が牡丹を起こし、部屋までついていく。しばらくして及川が戻ってくると、今度は櫻を送るべく車を発進させる。
「お食事はいかがでしたか」
車を走らせて五分ほどした頃、及川が尋ねた。今日、この車内で初めて発せられた言葉だった。
「とても楽しかったですよ! さすがにちょっと緊張しちゃいましたけど」
「そうですか。楽しまれたのならよかったです」
そこで車内は再び沈黙に包まれる。櫻はゆっくりとシートに背を沈めた。ふと、ふわりと甘い香りがする。牡丹が好んでつけている香水の匂いだった。甘すぎず上品な、質の良いムスク系の香りだ。
「あの、及川さん」車が信号で止まるタイミングで、櫻は身を乗り出し声をかける。「牡丹さん、大丈夫なんですか」
一瞬、及川は言葉に詰まる。声がうわずらないよう、大きく息を吸って答える。
「大丈夫なんですか、とは?」
「いえ、あの……僕の勘違いだったら申し訳ないんですけど。牡丹さん……もしかして、認知症じゃないかなって思って」
及川のハンドルを握る手に力が籠った。信号が青に変わる。アクセルを踏み込む。車がゆっくりと走り出す。
「あの、僕のお客さんに、そういう方がいらっしゃったんですよ。物忘れが多くなった、というか……自分の言ったことやしたことを、忘れてしまうというより、その人の中でなかったことになっちゃうんですよね。最初は、歳かなあ、忘れっぽくなっちゃって、なんて笑ってたんですけど、だんだん……症状が、悪化して。奇行が目立ったり、人の顔を覚えられなくなったり。あの、認知症って、治療できるんですよ。治すのは難しくても、進行を遅らせたりはできるんです。だから、あの、早いうちから病院に……」
櫻が言葉を選びながら及川に語りかける。けれど、及川は何も答えない。櫻はしばらく答えを待っていたが、諦めるように再びシートに凭れた。
「今みたいな」
及川が口を開いた。走行音に掻き消されてしまい、櫻の耳には届かない。櫻が再び身を乗り出し、運転席の方へ顔を寄せる。
「今みたいな言葉は、絶対に天城の前では言わないでください」
「今みたいなっていうのは……」
「牡丹さん、大丈夫なんですか、という言葉です。絶対に言わないでください」
及川の口からつい、鋭い声が出た。櫻は、分かりました、と小さく答えると、傾けた体を戻す。
櫻に言われずとも、及川には分かっていた。牡丹の物忘れが最近激しくなっていることを。一度頭に入れた台本は決して忘れない、というのが牡丹の女優としての評価だったが、今は台詞を覚えるのも覚束なくなっている。
間違いなく認知症の初期症状だろう。今のところかろうじて女優業を全うできているが、それも時間の問題だ。きっとそれは牡丹自身も気付いているはずだ。
本来なら櫻の言う通り、治療に専念すべきなのだろう。けれどそれは天城牡丹が認知症であると認めたことになり、そしてそれはすなわち女優としての死だ。
もう少しだけ。もう少しだけでいいから。及川は願う。
今度の『琥珀の双葉』は、牡丹にとって大きな意味を持つ作品だ。せめて、それが終わるまでは、待ってほしい。
及川がバックミラー越しに櫻の姿を見る。悄気たような表情で、自分の手元をじっと見つめていた。
「櫻さん」
声をかけると、弾かれたように顔を上げる。
「よかったら、撮影、見学してみませんか」
「えっ。さ、撮影って、映画のですか。僕が行っていいんですか?」
「はい。櫻さんに、見てもらいたいんです」
櫻が小首を傾げる。わざとらしい仕草だ、と及川は感じる。
「天城牡丹の演技を、あなたに見てもらいたいんです」
櫻は、女優としての天城牡丹をそれほど知らず、そして素の姿を知っている数少ない人間のうちの一人だ。そんな彼が、牡丹が演じる姿を目の前で見て、どんな反応をするのか及川は見てみたかった。もしかしたらこれが、牡丹の最後の演技になるかもしれないのだから。
櫻が、大きな目を更に丸くする。そして、にっこりと笑みを浮かべた。おそろしく美しくて、完璧な笑顔だった。
「はい。僕も、見てみたいです」
車は、間もなく駅に着こうとしていた。
撮影は埼玉県のはずれで行われた。映画の舞台は自然の残る郊外の設定だ。まずは静香がみゆきの家へ訪ねてくるシーンから撮ることになっている。天城牡丹と加賀美華が五十年ぶりに演技を交わす、貴重な瞬間だ。
撮影の準備が始まり、牡丹も華もスタッフたちに挨拶をする。その中央には、西木東馬が座っている。異様な緊張感に包まれていた。誰もが些細な粗相すらしてはならぬと体を強張らせ面持ちを硬くしていた。それは、牡丹とて同じだった。澄ました様子ではあるが、先程から指先同士を頻りに擦り合わせている。
そんな中、ひとり平然とした様子の櫻は、及川には異様に思えた。
スタッフたちには、事務所に入った新人を勉強のために連れてきたと嘘をついた。一般人とは思えない彼の容姿を見て、その言葉を疑う者は誰もいなかった。
及川が懸念していたのは、櫻が芸能人や映画の雰囲気を前にして軽薄な態度にならないだろうかということだった。周りをきょろきょろしたりはしゃいだりしたら、たまったものではない。けれど杞憂だった。それどころか彼は、顔色一つ変えず撮影の様子を見守っていた。
やけに落ち着いている櫻に、及川は奇妙さすら覚えた。どんな冷静な人間でも、非日常の光景に浮ついたり落ち着きを失ったりするものだ。もしかしたら、こういう場に慣れているのかもしれない、と及川はふと思う。
牡丹は櫻を見て「やあねえ、連れてきたの?」と嫌そうな声を出してみせていた。けれど、その口元がわずかに緩むのを及川は見逃さなかった。
「それではシーン25、開始しまーす!」
助監督の声が響き渡った。現場の空気が更に張り詰める。現在は空き家の、借りた民家の前。そこで牡丹と華が対峙する。牡丹から漂う痛いほどの緊張感が及川にも伝わり、手のひらにじっとりと汗が滲む。
天城牡丹にとって、この映画は大きな意味を持つ作品だ。天城牡丹の久方ぶりの主演だからというのも、『紅蓮の女たち』の再来のキャストだからというのも、もちろん間違いではない。
けれど一番の理由は、牡丹にとって雪辱を晴らす作品になるからだと、及川は思う。
牡丹は、華から西木を奪った理由を誰にも明かそうとしなかった。週刊誌は若い女に嫉妬しただの映画の再現をしたかっただのと好き勝手書き散らしたが、それに対しても何も反論しなかった。
及川は、こう考えている。確かに理由は嫉妬かもしれない。けれどそれは華の若さや美しさに対してではない。『紅蓮の女たち』で、牡丹と華は同じ男を愛した。結果その男は、実生活で牡丹ではなく華を選んだ。牡丹はきっと思っただろう。私よりも、華の愛している演技の方が長けていたから、西木は華を愛したのだと。
悔しかったに違いない。負けたと思ったに違いない。だから牡丹は華から西木を奪ったのだ。
そのときは胸がすいたかもしれない。けれど、牡丹は後悔した。結局これでは、女優の力ではなく、女を使って西木を奪っただけではないか、と。
だから『琥珀の双葉』は牡丹の雪辱戦なのだ。今度こそ、自分の演技の方がすぐれていると、西木に認めさせるための。
すべて及川の推察に過ぎない。けれど確信を抱いていた。この世界で誰よりも、自分が牡丹の狂気も情熱も理解しているのだという自負があった。
スタート、と西木の声がした。一拍置いて、華が口を開いた。
『あら……今日は、何のご用ですか。もう顔を見たくないとおっしゃったのは、あなたの方ですよ?』
ブランクを感じさせない、堂々たる演技だった。本妻の突然の登場に動揺しつつ、優位に振る舞おうと気張る様子が、表情や仕草ではっきり読み取れる。
『あなたの言っていることが、真実だと分かりました。夫とあなたは、確かに関係があった』
牡丹が華の演技に応える。静かで抑えた演技だ。華がにやりと笑った。
『ええ、その通りです。それであなたは、何しにいらしたんですか? 今になって私を、訴えたいとでもおっしゃるんですか』
愛人の不遜な態度に、妻は唇をわななかせる。今までずっと押し込めてきた感情が、初めて露呈する場面。この映画の中でもとりわけ重要なシーンだ。
牡丹が大きく息を吸う。震える唇を開く。
『そういうわけではありません。私は、たまらなく悔しいのです。あなたが』
言葉が止まった。
及川は体じゅうの血液が、凍ったような感覚に襲われる。
周りのスタッフや華は、牡丹が言葉を止めたのを「間」だと思っているようだった。けれど、及川にはそれが違うということが直感で分かった。
牡丹は、台詞を忘れてしまったのだ。牡丹は必死に華を睨みつけ、動揺を隠しているが、内心の焦りが及川には痛いほど伝わってくる。
ああ、どうして今なの。及川は叫び出したくなる。あと少しだけ、もう少しだけでいいのに。どうか、天城牡丹に、演じさせてやってほしい。
一体誰に祈っているかも分からないが、及川は祈らずにはいられなかった。及川にとって天城牡丹は、常に凛としていなければならない存在だ。自らの過ちを認めず、誰かに頭を下げたりせず、傲岸不遜で、気高く誇り高くいてくれていなければだめなのだ。
牡丹の沈黙は続く。周りも、これが演技の間ではないことに気付き始めてきたようで、怪訝そうな表情を浮かべる者が増えてくる。
誰か、どうか。及川には祈ることしかできない。誰か、誰か。
誰か、彼女を助けて。
「はっくしょん!」
大きな声が静寂を裂いた。櫻だった。隣で、ずるずると洟を啜っている。
カット、と監督が叫ぶ。ふざけんなよ、くしゃみなんてしやがって、とスタッフたちが文句を言いながら、再び準備を始める。
牡丹がこちらを向いた。どこか泣きそうな顔をしている。だが、櫻と及川の顔を見て、ゆっくりと澄ました表情に変わっていく。
「ちょっとあんた、ふざけんじゃないわよ!」
牡丹が叫んだ。「うう。す、すみません」と櫻がぺこぺこと頭を下げる。
牡丹が破顔する。そしてすぐにまた、表情を整える。
「うわー、やっちゃいました。せっかくお二人ともすごい演技だったのに」
分かりやすく気落ちする櫻の横顔を見て、及川は思わず笑う。
スタッフがもう一度準備を始める。牡丹と華が再び向かい合う。静香とみゆきの顔で。
「でも、牡丹さんなら、きっと大丈夫ですよね」
櫻が尋ねる。先程までの気弱な姿はなく、じっと牡丹を見つめている。
「はい、大丈夫です。天城牡丹は、死ぬまで女優ですから」
及川も答えながら、牡丹を見る。傲岸で不遜で、気高く美しい顔だ。
スタート、という声が、辺りに響き渡った。