第三話 最奥に棲む
また、週末になる。
櫻は以前にも増して、背後の存在を強く感じていた。間違いなく紫の話を聞いてしまったからだ。この襖の向こうで緑の夫は、自分と緑の行為を見ながら自慰をしている。その事実は櫻の動きを疎かにさせるには充分だった。
けれどそんなことは気にする素振りなく、いつものように緑は嬌声を上げている。むしろ、今までよりも大きく喘いでいるような気さえした。
そのとき、異臭が漂ってきた。襖が開いたのだ、と櫻は直感する。後ろを振り向かずとも、あの厚ぼったい二重の目を、片方だけ隙間から覗かせている様が容易に想像できた。
そしてそれを合図にするように、緑が更に声を上げ始めた。
ああっ、すごいわ、もういっちゃう。
櫻はこのまま続けていいのかどうか逡巡する。もはや愛撫のようなものは一切せず、どうにか続けなければとひたすらに腰を打ち付けているだけだった。けれど緑は襖の奥の夫を煽るように、どんどんと激しく身悶えている。
ああっ、こんなに気持ちいいの初めて。こんなにいっちゃうの、初めて。
明らかに、夫に聞かせようとしていた。今度は櫻の背後から、呻き声が聞こえてくる。いおい、いおい。うまく回らない舌で妻の名を呼ぶ声。そして、ずりずりと畳が擦れるような音も。否が応にも、性器を擦りつける老爺の姿が脳裏に浮かぶ。
すごい、あの人なんかより、全然いい。
緑が悲鳴に似た金切り声を上げた瞬間だった。たんっ、と大きな音がした。襖の縁が、柱に強く打ちつけられた音だ。
「いおい‼」
先程よりもはっきりと声が聞こえた。櫻は慌てて振り向く。
襖は遂に開け放たれ、畳に這いつくばるような恰好をした男が、櫻と緑を睨みつけていた。
櫻は思わず腰を抜かす。二人の性器が男の前に露わになった。
いおい、いおい。まるで呪詛の如く妻の名を呼びながら、芋虫のようにずりずりと這い寄ってくる。目は血走り息は荒く、ただひたすらに妻の方へと近寄ってくる。
「いやあっ、あなた、やめて!」
緑が叫んだ。櫻は我に返る。
「ちょ、ちょっと、やめてください!」
慌てて櫻は男に掴みかかろうとした。その瞬間、緑の顔が見えた。
緑は笑っていた。この状況を愉しんでいるようでも、夫を嘲っているようでもなかった。
まるで慈母だった。懸命に自分のところへ向かってくる夫を、愛おしく柔らかく見つめ、受け入れんとしている笑みだった。
その姿を見て、櫻の体は固まってしまった。布団の外に座り込んだ状態で、ただ行く末を眺める。
男はようやく布団の端まで到達し、緑の細い足首を掴む。
「ああっ、やめて、あなた! お願いよ!」
言葉だけは抵抗しているものの、その手を振り払おうともしない。武骨な指は脹脛から太腿まで這い上がり、それを支えにするように男はどんどんと緑の体へ覆い被さっていく。ずんぐりむっくりとした男の体が、緑の体躯を隠すように組み伏せた。
「だめよ、あなた! 誰か、誰か助けて!」
助けを求める声も当然のように逼迫感はない。寝巻のズボンをうまく脱げない夫を、手助けしている始末だ。
櫻はその様子を茫然と眺めていた。二人はもはや櫻の存在など忘れてしまったかのように、身体を絡ませ始めている。
不意に、ノックの音がした。
「櫻さん。大丈夫ですか」
紫だった。櫻は我に返り、慌てて畳まれていた服を着込む。いつの間にか男の下半身は裸になり、弛んだ尻を揺らし緑の両脚の間で蠢いている。緑はやめて、やめてと叫びながら、できものだらけの背中にしがみついている。その様子を一瞥すると、櫻は部屋を出た。そこには紫が立っており、慌ててドアを閉める。
「どうかなさったんですか」紫が尋ねる。
「ああ、いえ。実は、緑さんとお父さんが……」
「父? 父がどうかしましたか」
「中で、その。行為を始めていまして」
娘の前で両親の性行為についての話をすることは、さすがの櫻でも躊躇われた。けれど紫は顔色一つ変えず「そうですか」と答える。
「お風呂は、今日はどうしますか。ちょっと準備がまだできていないんですが」
「あ、いえ。それほど汗はかいていないので、結構です」
「分かりました。では、居間へどうぞ」
紫の後を、櫻は釈然としないままついていく。居間ではいつものように窓が開け放たれ、陽光と風が入り込んできていた。櫻が腰を下ろしてしばらくすると、紫がお茶と苺を持ってやってくる。ありがとうございます、と櫻は礼を言う。
「あの……驚かれないんですね」
先程から顔色一つ変えない紫に、櫻は思わず尋ねてしまう。その問いにもやはり表情は変えず、窓の外を眺めるままだ。
「父のことですか」
「はい。僕は正直、かなり驚きました。お父さんが襖から出てきたこともそうですが……そのまま緑さんを襲って、緑さんはそれを受け入れたことに」
「そうですか。まあ、母は父のことを愛していますからね」
紫は庭から卓袱台に視線を移し、苺を一つ手に取った。先端を齧る。溢れ出る果汁が彼女の唇を濡らし、顎まで垂れていく。紫はそれを指先で拭う。
「愛している……酷い暴力を受けていたのに、ですか?」
「もちろん、暴力や暴言を受けていたことに関しては恨みも怒りもあったはずです。でもそれ以上に、母は父を愛していました。だからずっと、父の傍にいつづけているんだと思います」
櫻は想像する。緑は夫が半身不随と言語障害を患ったとき、一体何を感じただろうか、と。
きっと安堵もあっただろう。夫から与えられる苦痛や屈辱から、これで解放される。同時に、おそらく喜びもあったはずだ。浮気を繰り返している夫がこれからはずっと自分の傍にいてくれる。施設への入所を拒んだのは、夫ではなく緑だったのかもしれない。
そして、櫻はようやく気付く。
「僕は、きっと緑さんに利用されたんですね」
紫は何も答えず、残りの苺を口の中へ放り込んだ。味わうようにゆっくりと咀嚼しているのが、閉じた口の動きで分かる。
緑は安堵と喜びの他に、きっと落胆も感じていた。暴力性を失った夫がずっと家にいてくれているというのに、夫は自分には触れてくれない。緑の中にある夫への欲望は決して満たされず、一方で夫は妻に触れる気力も欲求も持ち合わせていなかった。
そこで緑は、櫻を呼んだのだ。若い男との行為を夫に見せつけ、嫉妬と性欲の両方を喚起させるために。
耐え切れず襖から飛び出し、這い蹲って自分のもとへやってくる夫の姿を見て、緑は何を感じただろう。櫻はあのときの緑の、慈愛に満ちた表情を思い出す。きっと、愛おしくて堪らなかったに違いない。
長い年月を経て二人の愛情と欲望は変質し、奇妙な形に生まれ変わり、そして今日成就したのだ。
「母を恨みますか?」
いつの間にか紫は、卓袱台に落としていた視線を櫻に向けていた。今日は左眉の上の傷は、前髪で隠されている。
「いいえ。相手の望むことをするのが、僕の仕事ですから」
「そうですか。お人好しですね」
紫がまた苺を一粒摘まみ、今度は齧らず丸ごと口に入れる。
「お人好しは、紫さんも同じだと思いますよ。ご両親のために、施設にも頼らず、一人で介護をなさっているんですから」
今日は、凪いだ日だった。いつも喧しいくらいの音を立てて部屋に入ってくる風は、その気配を全く見せない。何の音も聞こえない、静かな午後だ。
紫がごくん、と苺を嚥下する。
「父の世話は、私がやりたくてやっていることですから」
「ですが……昔酷い目に遭ってきたのなら、なかなかそこまで割り切れないような気もしますが」
「逆ですよ、櫻さん。酷い目に遭ってきたからこそ、今、私はとても嬉しいんです」
紫が、にい、と笑みを浮かべた。化粧っ気のない唇に苺の果汁が濡れて光り、まるで紅を引いているようだ。
「父は、女という生き物を常に下に見て生きてきました。特に、私や母のことを。どれだけ殴っても暴言を吐いても、逆らわず文句も言わない、都合の良い下等生物。ずっとそうやって接してきたんです。でも、自分に障害が残り、その下等生物に助けを乞わなければ生きていけなくなってしまった。きっと相当な屈辱のはずです」
櫻は口腔内に溜まった唾液を飲み込む。粘ついた液体が渇いた喉に引っかかる。けれど、差し出された苺やお茶に手をつける気にはなれなかった。
「だから私はとっても愉快でした。食事を口に運ぶたび、おむつを替えるたび、濡れたタオルで体を拭くたび、父の自尊心は削られていく。悔しくて情けなくて堪らないはずなのに、人や物に当たることもできなければ、文句を満足に言うこともできない。その父の胸中を思うと、私は嬉しくて仕方ないんです。そうですね……櫻さんの言葉を借りるなら、これが私の復讐なのかもしれません」
紫が濡れた唇を舐め取った。舌を戻すと同時に、口元に湛えていた笑みは消えていた。
「周りは、私のことを可哀想とよく言います。いい歳をして結婚もできず、恋人もおらず、この家から出ることなく親の介護をしている。ひとりで可哀想。……とんでもない。私は今、とっても幸せです。今までの人生の中で一番、幸せな日々を過ごしているんです」
櫻には虚勢のようには思えなかった。本当に彼女は今、幸福を心から感じているのだろう。
もしかしたら今が、この家族の一番幸せで穏やかなときなのかもしれない。三人それぞれがそれぞれの幸福を享受し、絶妙な均衡の上で成り立っている。今まで歪な形だった家族が、ようやく正しい形になったのだ、と櫻は思う。世間の言う正しさと、各々の持つ正しさは、必ずしも同義とは限らない。
窓の外から、ざりざり、と音がした。紫が腰を浮かせる。
「タクシー、来ましたよ」
櫻も続けて立ち上がる。結局苺もお茶も、今日は一度も手をつけなかった。
「今日もありがとうございました」
紫が頭を下げる。櫻も会釈を返し、そして家を出る。
門の前にはタクシーが停車していた。向かう足を止め、後ろを振り返り矢田家を見上げる。
古く、大きな家だ。長年雨風に晒され続けてきた壁はところどころが剥がれ、青かったはずの屋根は煤けている。庭には雑草が生い茂り、大きな木が一本、存在感を携えて聳え立っている。中央の物干し竿にはシーツや服やタオルが掛けられ、時折風で揺らめいている。
きっともう、ここに来ることはないだろう。そう思いながら踵を返す。そのときふと、足元に何かが転がっているのに気付く。
蝉の死骸だった。体を膠着させた蝉が、仰向けになり細い脚を投げ出して死んでいる。
あの蝉だろうか。紫が気にかけていた、早く土から出てきてしまったあの蝉。
櫻は逡巡して、けれど視線を逸らしタクシーの方へと再び歩みを進める。タクシーのドアが自動で開き、櫻は小走りで向かっていった。