第五話 姦しい葬式
「ちょっと待ってよどういうことなのよ!」
紅子が話し終えるや否や、声を上げたのは藤子だった。大きな目を更に見開き、唇をわななかせている。
「全然違うじゃないの、私がよっちゃんから聞いた話と!」
「だからさっきからそう言ってるじゃないですか」
頭に血が昇った様子の藤子を、紅子が呆れたように見つめる。
「藤子さんがお話ししてるのを聞きながら、もしかしたら吉乃は私に話さなかったこともあったのかもしれないって思ってました。子供を産む前に、歌手をしていたのかもしれないって。でも、明らかに色々とおかしくて。子供どころか結婚もしてなかったっていうし、首の傷の理由も違うし。どう考えても……吉乃が、嘘をついてるとしか思えなくて」
「で、でも、でも」藤子がつっかえながら繰り返す。「でも、嘘をついてるようには、とても見えなかったわ。歌のことを話すときはとても嬉しそうで、昔のこともすごく懐かしんでる様子で」
「あたしも同じです。息子さんのことを話すときのつらそうな顔も、お孫さんに助けられたときの嬉しそうな顔も、演技には見えなかった」
「もしかして吉乃さん、女優さんだったのかしらねえ」
八重子が頬に手を当てる。彼女の推測に、藤子と紅子が唸った。
吉乃さんはほんとにいい人だったよなあ。奥から大きな声が聞こえてくる。顔を真っ赤にした禿頭の男性が、ビールを片手に息巻いていた。三人は複雑な表情で彼に顔を傾けている。
「いい人なのは、変わらないのよねえ」
八重子が呟いた。二人は何も言わず俯いている。
「八重子さんの知ってる吉乃さんは、どんな人だったんですか?」
櫻が尋ねる。八重子はその問いには答えず、櫻の顔をまじまじと見つめる。怪訝に思っていると、八重子が小さく笑った。
「そうねえ。いい人だったわよ。人によってはもしかしたら彼女のことを悪く言ったかもしれないけど、すごくいい人だったわあ」
八重子が語り始める。
吉乃さんとわたしはね、ご近所さんだったの。わたしが息子夫婦と同居することになって、引っ越した家のお隣が、吉乃さんのおうちだったのよねえ。
最初はあんまり印象のいい人じゃなかったわ。ご挨拶に伺ったのよ、隣に越してまいりました、どうぞよろしくお願いいたしますって。そしたらね、
「どうも」
たったそれだけ。やあねえ、無愛想な人だわあって。つんと上を向いて、いかにも高飛車ですよって感じよ。
でもねえ、それも仕方ないかもって思っちゃったの。だって、すっごく綺麗だったんですもの。肌もつやつやで、髪もきちんと手入れしてるのねえって感じで。こんなに綺麗な人だったら、確かにちょっと傲慢になるのも分かるわねえって。
仲良くはなれなそうだなとは思ってたの。わたしみたいな、あんまり見た目に頓着しないような人間は、きっと苦手なんだろうなって。でも、意外とちょこちょこ話すようになったのよ。ゴミ出しするときとか、町内会で集まりがあるようなときとか。吉乃さんはいっつもつんと澄ましてて、あんまり周りの人たちはよく思ってなかったみたいだったけど、わたしは彼女のそういうところ、案外嫌いじゃなかったわねえ。
そんなこんなで、意外とわたしたちなんだか仲良くなっちゃって、あるときおうちにお呼ばれしたのよ。
「八重子さん、今からうちにいらっしゃいよ」
もう、有無を言わさぬ響き。どうせあなた暇なんでしょ、って言わんばかりで。まあその通りだったから、お邪魔させていただくことにしたのよねえ。吉乃さんが、どんなおうちに住んでるのかやっぱり気になっちゃったし。
だけどねえ、意外と普通だったのよ。吉乃さんっていっつも派手な恰好してて、きっと家の中も豪華なのねって思ってて。照明なんてシャンデリアだったりするんじゃないかしらって想像してたんだけど、我が家と変わらない、普通のおうちだったわ。
ただ、一人で暮らしてるにしてはだいぶ持て余しそうな大きさだったわねえ。寂しくないのかしらって思っちゃった。
「はい、どうぞ」
吉乃さんはにこりともせず紅茶を出してくれたわ。花柄のティーカップで、わたしはお礼を言っていただいたの。なんだか不思議な味だったわねえ。美味しいかどうか、わたしにはよく分からなかったわ。
吉乃さん、わたしを呼び出したわりに、自分からなんにもお話ししようとしないのよ。わたしがお茶を飲む姿を、頬杖つきながらじいっと見つめてるの。なんだか値踏みされてるみたいで、落ち着かなかったわあ。
だからね、わたし、つい聞いちゃったの。「お一人で暮らしてるんですか?」って。
気を悪くするかしら、色々な事情がみんなあるものですしね、ってちょっと不安になったんだけど、表情を変えずに「そうよ」って、また短く返されたの。
「寂しくないんですか? こんな大きなおうちで一人だなんて」
ちょっと失礼かしらねえ、って思ったんだけど、なんだか吉乃さんも不躾な態度だし、わたし思い切って訊いちゃったの。吉乃さんは、表情一つ変えないで答えたわ。
「全然寂しくないわね。もう誰かと暮らすのはこりごり」
「あらあ。こりごりってことは、誰かと暮らしてたことがあったんですか?」
「ええ。何回か」
にやっと笑うと、吉乃さんは急に立ち上がって、部屋の隅にある棚を漁り出したわ。そして、三つの指輪を持ってきたの。
「これね、全部結婚指輪なの。私、バツ三なのよ」
バツ三、だなんて言葉、聞いたことなかったからびっくりよねえ。でもなんだか納得しちゃって。だって吉乃さんとても綺麗だから、それくらいモテてもおかしくないもの。
もしかしたら軽薄だって非難する人もいるかもしれないけど、わたしは素直にすごいわって思ったわ。わたしねえ、男性に縁のない人生だったの。お付き合いさせていただいたのは今の旦那だけだし、誰かに言い寄られるような経験も全然なかったわ。だから、吉乃さんのこと、なんだか憧れちゃって。
「吉乃さんのことだから、きっと素敵な男性ばかりだったんでしょうねえ」
素直な気持ちだったわ。吉乃さんは目が肥えてそうだし、きっといい男ばっかりだったんだなって。そしたらねえ、彼女、ゆっくりと頷いて言ったの。
「ええ。みんな、最高の人たちだったわ」
なんだかそれを聞いてわたし、吉乃さんのことが一気に好きになっちゃって。別れた人の悪口を言う人はたくさんいても、最高だったって胸を張れる人って、そうなかなかいないじゃない? そしてこんな吉乃さんが好きになった、最高の人たちって、どんな人なんだろうって思ったの。
「ねえ、吉乃さん。よければ、どんな方々だったのか教えてくれない?」
吉乃さんはにっこり笑って「ええ、もちろん」って答えたわ。その言葉を待っていた、って言わんばかりに。
「最初の夫はね、職場の同僚だったのよ。三歳年上の、実直な人だったわ」
吉乃さんの口から、職場、なんて言葉が出てきてちょっと驚いたわ。吉乃さんが働いてる姿、全然想像できないんだもの。
「とてもいい人でね。仕事の教え方も丁寧で、優しくて。私、あっという間に好きになっちゃったの」
それから吉乃さんは、一人目の旦那さんとの馴れ初めをじっくりと語ってくれたわ。はじめは自分に興味がなかったけど、猛アタックして付き合うことになって。プロポーズされて、結婚して、子供を産んで。きっと幸せな日々だったんでしょうねえ、って聞いてる私も感じたわ。でもねえ。
「私の人生、これでいいのかしらって突然思ったのよ」
「あら。どうして? 幸せそうじゃない」
「幸せよ。幸せだけど、なんにもない。簡単に想像できちゃう人生。落語みたいなものね。オチは分かりきってるけど話は進めなくちゃいけない。それって、すごくつまらなくない?」
わたしには理解できなかったわあ。つまらなくても幸せならいいじゃないって思うんだけど。でも、吉乃さんくらい綺麗だったら、そう感じちゃうのも仕方のないことなのかもしれないわね。
「そんな中、好きな人ができたの。二十歳年上の、会社の経営者。そして、相手には奥さんと子供がいた」
いわゆるダブル不倫、ってやつよねえ。ご主人や娘さんに申し訳ないって思いつつも、やめられなかったらしいわ。障害があればあるほど愛は燃え上がるって本当なのねえ。
「でもね、ある日、夫にバレちゃったの。私、怒鳴られるのを覚悟してた。殴られたっていいと思ってた。だけどね、あの人、笑ってたのよ。悲しそうな顔で、なんにも言わずに。こんなときまで優しいなんて、どうかしてるわ」
結局、そのまま最初のご主人とは別れちゃったみたい。親権はご主人が持ったんですって。そのお相手の経営者の方も離婚して、晴れて再婚、ってなったそうよ。
「会社を経営してるだけあってね、それはもうお金持ちだったわ。いくら使ってもなくならないの。退屈なんて言ってる暇すらなかったわね。この家もね、その人が買ってくれたのよ」
「あらあ、いいわねえ。わたしもいくら使ってもなくならないとか言ってみたいわあ」
「でしょう。でもね、やっぱりかなり忙しくしていて、なかなか家に帰ってこないのよ。大きな家で一人。お金があっても、孤独は埋められないし。それにね、不安になるのよ。もしかしたらあの人は、今、別の女を抱いてるのかもしれないって」
明日は我が身、ってやつかもしれないわねえ。だって、かつて自分がしてたことだったわけでしょう? 自分も同じ目に遭わされてるのかもしれない、って不安になるのは、当然のことかもしれないわ。
「興信所を雇って、尾行させたりもして、それで間違いなく仕事だって分かっても、やっぱり不安はなくならないの。顔を合わせるたび喧嘩になったわ。私が本当に仕事なのかって詰め寄るからよ。あっちは辟易するわよね。本来なら安らげるはずの場所の家が、息が詰まるようになって、ますます仕事に没頭するようになって。そのまま、結局離婚したわ」
でもね、二番目の旦那さんは、家を残してくれたみたい。君が好きに住むといいよって。やっぱりお金持ちってすごいわよねえ。
その当時で、吉乃さんは四十歳。久々に働きに出ることになったらしいの。そしたらね。
「その職場で、告白されたのよ。十七も年下の子に」
「えっ、えっ。十七ってことは、ええっと」
「二十三よ。フリーターで、バイトの子だったわ」
「えっ、えーっ! すごいわ、さすが、さすが吉乃さんよ!」
本人は、息子くらいの子に手は出せない、犯罪よなんて言ってたけど。でも、お互い好き合ってたらそんなの関係ないわよねえ。実際、その子の勢いに負けて、結局付き合うことになったみたい。
「もうとにかく、好き好き攻撃がすごくてねえ。若さもあるものだから、体力もやっぱりあって」
「あらっ。あらやだ。やだわあ、もう」
「ふふ。一時的な熱に浮かされてるだけって自分に言い聞かせてたけど、でもその子は私のことをずっと好きでいてくれて。付き合って一年くらいした頃かしら。彼がね、結婚したいって言ってくれたの」
でもねえ、やっぱり今までと同じように、結婚生活はうまくいかなかったみたい。とにかくね、その彼の嫉妬が凄かったんですって。
「彼はフリーターでしょ。二人で生きていくには、私が稼がなくちゃならない。そうなると家を遅くまで空けていくことになる。彼としては、それがたまらなかったみたいね。外で何してるのか、他の男と遊んでるんじゃないのか、気が気じゃなかったみたい」
「あら、ねえ、それって……」
「そうよ。私が、前の夫に感じてたこととそっくりそのまま同じこと」
吉乃さん、大きな溜息をついてたわ。紅茶はとっくに冷めてたけど、全然手をつけてなかった。
「因果応報ってあるものよね。人の旦那を寝取ったと思ったら、今度はその男を寝取られるんじゃないかと苦しんで。その次は、今度は疑われる側に回って。不思議なものだわ」
それでやっぱり前のご主人同様、喧嘩がかなり増えたみたい。原因はもちろん、その彼の嫉妬。
「そしたらね、ある晩帰ってきたら、彼が玄関で包丁持って立ってたのよ」
「え! 包丁!?」
「そう。びっくりでしょう。そんな陳腐なドラマみたいなこと、本当にあるのねって」
呑気に言ってたけど、きっと吉乃さん、怖かったでしょうねえ。殺されるかもしれない恐怖なんて、わたしには永遠に分からない気がするわ。
「もう、全然話が通じないの。訳の分からないことばっかり叫んでて。ついには包丁振り回し始めて。止めようとしたんだけど……」
そこで吉乃さん、言葉を切って、おもむろに首に巻いてたスカーフを外し始めたわ。そしたら、びっくりよ。漢数字の一みたいな傷痕が、くっきり残ってるんですもの。
そこからはもう、大変だったみたいよ。辺りは血まみれで、慌てて救急車を呼んで。大事には至らなかったけど、正気を取り戻した彼は、泣きながら何度も吉乃さんに謝ってたみたい。
そしてその数日後、彼は忽然と姿を消したんですって。
「手紙がテーブルの上に残っててね。きっと僕はいつか吉乃さんを殺してしまう。愛している人を殺してしまうなんて耐えられない。ですって。ほんと、随分勝手な男よねえ」
そんなこと言いながらね、吉乃さん、とっても嬉しそうだった。形は違っても、三人の旦那さんに、本当にすごく愛されてたんだなあっていうのが伝わってきたわ。
「もう結婚はこりごりね、一人で死んでいくわって思ってた。そんなある日、いきなり知らない女性が訪ねてきたの。二十代半ばくらいかしら。誰かしらって思ってたんだけど、その人、何て名乗ったと思う?」
「えっ、何、何かしら。全然分からないわ。教えてよお」
「私、あなたの娘です。……そう言ったのよ」
もう、驚きよね! 一番目の旦那さんとの間の娘さんだったのよ! どうやって吉乃さんの居場所を突き止めたか分からないんだけど、突然やってきたんですって!
「何の用かって思ってたら、その子、言うのよ。お父さんと復縁してほしい。お父さんはお母さんのことがまだ好きだ。もう一度、私の母親になってほしい、って」
もう、もう、素敵なお話よねえ! わたし、なんだか泣きそうになっちゃって。やっぱり最後は、家族の絆なのよって! ……って、わたしは思ったんだけどねえ。
「絶対にいやよ、ってはっきり断ったわ」
「ええっ!? どうしてよ!」
「そりゃあそうよ。娘とは二十年近く会ってないのよ? 今更母親になれだなんて無理よ、ごめんだわ」
つんとしたお澄まし顔で言ってたわ。もう、吉乃さんの悪いところよねえ、って思ってたんだけど。
「それに、こんなどうしようもない女が母親じゃ、娘が可哀想でしょ。たった一人の男を愛し続けることもできないような女なのよ」
きっと、それが本心だったんでしょうねえ。どんな人だって、娘にとっては母親よ! って思っちゃったけど。もしかしたらそれが、吉乃さんなりのけじめのつけ方だったのかもしれないわね。
「でも、せっかくまた家族で暮らせるチャンスだったのに……寂しくないの?」
「最初に言ったでしょ。私はね、ちっとも寂しくなんてないの」
吉乃さん、三つの指輪を愛おしげに撫でてたわ。
「最初の夫は、娘を。二番目の夫は、この家を。三番目の夫は、私の首にこの傷を。そして、三つの指輪を、それぞれ残してくれたの。それだけでいいのよ。傍目から見たら一人で寂しく過ごしてるババアに映るんでしょうけどね。私の毎日は、思い出で賑やかなのよ」
ちっとも強がりには見えなかったわ。腕と脚を大きく組んだ吉乃さんは、とっても堂々として見えたもの。
絶対にわたしでは歩めなかった人生を、吉乃さんは歩んできた。そしてそれを、わたしにお裾分けしてくれた。それがなんだかとっても嬉しくってねえ。だから吉乃さんには、自分の人生を絶対に後悔なんてしないで、あの高飛車な表情で生きていってほしい。そんなことを願ったりしてたわ。