第一話 不要な人
その日、牡丹は櫻を外に呼び出した。夕方六時から、五時間コースの指名だ。場所は銀座。会うのはいつも夜、牡丹の家でばかりだったので、珍しい予約だった。
牡丹はショーウィンドウで自分の姿を確認する。和光の時計台の真下で佇む自らの姿は、雑踏の中でも明らかに異彩を放っていた。ワインレッドのドレスを身に纏い、背筋をぴんと伸ばしている。顔を隠すための大きなサングラスも、余計に彼女を目立たせていた。
「お待たせしました」
櫻が駆け寄ってきた。牡丹は赤いネイルの光る手をひらひらとさせる。
「あ、あの。大丈夫なんですか、こんなところで待ち合わせして」
櫻は声を落とし、不安そうにきょろきょろと辺りを見回す。平日とはいえ人通りはそれなりにある。ただならぬ雰囲気を帯びた彼女に、ちらちらと視線を寄越す人もいれば、関心なさげに素通りしていく人もいる。
「いいのよ、問題ないわ。及川は勝手に出かけたりしないでくださいーっていっつもぷんぷんするけどね」
「そりゃあそうですよ。人に囲まれたりしたらどうするんですか」
「大丈夫よ、どうせ私の顔なんてみんな覚えていやしないわ。あんたが大声で私の名前をここで叫んだら別かもしれないけどね」
「い、いや、そんなことしませんって」
「そう? ならよかったわ」
牡丹は櫻の全身をじろじろと睨め回す。ブラウンのジャケットにスラックス、グリーンのシャツ、光沢のある黒い革靴。いつもは無造作な髪が、今日は額が出るようきっちりと整えられている。
「よし、ちゃんとした恰好してきたわね」
「家にある一番いい服着てこいっていうからこれにしましたけど……大丈夫でしたか?」
「うーん。あんた、背が高くて細身だから、既製品のサイズに合わせるとどうしてもだぼっとしちゃうのね。まあいいわ、今度オーダーメイドで買ってあげるから。さ、行くわよ」
牡丹が櫻に背を向け、かつかつとヒールの音を響かせながら歩いていく。櫻が慌ててその後を追う。
「あ、あの、どこ行くんですか。ていうか、なんでこんな恰好を?」
「あんたの普段のだらしない恰好じゃあフレンチなんてとんでもないもの」
「フレンチ? フレンチ行くんですか? 今から?」
「あーもう、ぶちぶちうるっさいわね。いいから黙ってついてきなさいよ」
未だ戸惑った様子だったが、櫻は口を閉ざし牡丹についていく。まるで臆病な大型犬を散歩しているような感覚を牡丹は持った。綺麗で毛並みが良くて、気が弱くて従順。それくらいの男がちょうどいい。この歳になって、異性に追随する気なんてさらさらない。
銀座の街を闊歩する。晴海通りを抜け、並木通りを直進していく。巨大なビルが建ち並び、日が沈む頃になっても賑やかさは鳴りを潜めるどころか更に大きくなっていく。人々が行き交う。スーツを着たサラリーマンらしき人、ショップバッグを手に提げた女性、若いカップル。そんな中を牡丹は、背筋を伸ばして歩く。
その隣を櫻が並んでついてくる。さっきから所在なさげで落ち着かない様子だ。いい加減ネタばらしをしてやるか、と牡丹はサングラスを少しずらした。
「今日の夜、映画の共演者と食事をするのよ。加賀美華っていう女なんだけどね」
「えっ、加賀美華さんって、みゆき役の方ですよね?」
「そうよ。あんた、よく知ってるわね」
「あ、あれ観たんです、『紅蓮の女たち』。及川さんに勧められて」
余計なことを、と舌打ちしたくなるのを牡丹は堪える。櫻には、自分の作品を観てほしくなかった。特に、若い頃のものなんて。
「えっ、そんなお食事に僕がついていっちゃっていいんですか」
「いいのよ。あの耄碌女に自慢したいの。私の男はこんなに若くてイケメンなのよ! って」
「えぇー、なんですかそれ」
櫻は苦笑する。戸惑っている様子ではあるが、断りはしない。当然だった。それが櫻の商売なのだから。
そして、店の前に着いた。煉瓦の壁に囲まれた、黒く細い扉。窓の部分には装飾が施されている。脇には店の名前があしらわれた看板が光っていて、こぢんまりとした店構えだ。
櫻が店の周りを見回す。その横顔にはどことなく緊張が走っていた。
「あんまりきょろきょろしないの、みっともない」
「す、すみません。こんないいところ、僕みたいな若造、場違いっぽいなって」
「いい? 櫻」牡丹が櫻の背に手を添える。「場違いなところこそ、堂々としてなきゃ駄目よ」
「そ、そういうもんですか」
「そりゃそうよ。自分はここに相応しい人間だ、って思いながら歩くのよ。場違いだって思いながら体縮こまらせてるなんて、格好悪すぎるでしょ」
それは、牡丹が常々意識していることでもあった。自分はこの場所に相応しくない。そう思うことが加齢と同時に増えていく。自分が時流の中心ではないと思い知らされることが多くなる。
けれど、だからといって背を丸くするつもりはない。周りの人間全てから睨まれ疎まれようとも、背筋を伸ばし歩いていく。牡丹はずっとそうやって生きてきたのだ。
「今日は、あんたは私の男なんだから。みっともない真似したら承知しないわよ」
牡丹が低く言いながら背をぽんと叩くと、その途端櫻の顔から、すっと緊張が消えた。牡丹は思わずどきりとする。さっきの怯えはどこかに失せ、何の色もない表情でドアを見つめている。その横顔はあまりにも美しく鋭く、牡丹は息を呑んだ。
ああ、やっぱりこの子を選んだ私の直感は、間違っていなかった。どこか空恐ろしさを感じながら、牡丹は扉を開いた。
シンプルな入り口と裏腹に中は広く、洗練された雰囲気だ。石造りの壁、天井のシャンデリア、きっちりと磨かれた床。一部の壁はガラス張りで、その先はワインセラーになっているようで、ボトルがずらりと並んでいるのが見える。
牡丹がやってきたウェイターに名前を告げると、彼は恭しく頭を下げ、奥の方へと案内する。上品な装いで食事をする客たちの間を抜け、個室に案内される。ウェイターがドアを開けると、そこには着物姿の老女が一人座っていた。
「牡丹さん、遅刻ですよ」
ゆっくりと、上品な口調で加賀美華は告げた。牡丹と違い化粧は薄く、目元や首にはくっきりと皺が刻まれているが、それすらも自らの美の一つにしてしまっているようだった。白い花があしらわれた黒い着物もよく似合っており、昔から変わらず気品があり美しい人で、牡丹はそれがいつも気に食わなかった。
「悪いわね。歳を取ると時間感覚がめちゃくちゃで」
ウェイターの引いた椅子に腰かけながら、悪びれぬ様子で牡丹が答える。その横に櫻が座ると、華が目を細めた。
「あら。あなた、ウェイターじゃなかったのね」
「違うわよ。女二人だけってのも色気がないから、今日連れてきたの」
サングラスを外しながら牡丹が答えると、華が肩を竦めた。ウェイターがドリンクのメニューを机に置く。牡丹はそれを手に取ると、すぐに突っ返す。
「料理に合ったワインを適当に選んでちょうだい。あなたたちもそれでいいでしょう?」
「はい。大丈夫です」櫻が答える。
「まあ、いいですけど。相変わらず強引なんですねえ」
華が呆れたような声を出す。かしこまりました、とウェイターが頭を下げ、去っていく。
「それで? あなたはどなた?」
テーブルの上に三角の形で置かれたナプキンを膝の上に広げながら、華が尋ねる。櫻は膝に手をつき、深々と頭を下げる。
「申し遅れました。櫻といいます」
「櫻さん。私は、加賀美華といいます」
「はい。存じ上げてます」
また、華が目を細める。訝しんだときの彼女の癖だ。牡丹は何度その目を向けられたことだろう。私にはあなたが理解できない。いつもまるで、そう言いたげだった。
「あら、珍しい。あなたみたいなお若い方が、私のことをご存じだなんて」
「とはいっても、『紅蓮の女たち』しか観たことがないんですけど」
「ああ、あれね」
薄い桃色に塗られた唇を、華が自嘲的に歪める。
ドアがノックされ、ウェイターがやってきた。「食前酒でございます」と、ワゴンに載せた細いグラスをテーブルに並べていく。中ではスパークリングワインが音を立て光っていた。
「あらやだ、何これ? 私こんなの頼んだ覚えないけど」
牡丹が眉を顰める。その途端、空気が凍った。ウェイターが戸惑った様子で牡丹の顔を見ている。
「何言ってるんですか。牡丹さんが先程、食事に合うものを適当にって頼んでらっしゃったでしょう」
「え……そんなこと言った? 私が?」
「そうですよ。飲む前から酔っ払ってるんですか?」
牡丹が唇を押さえる。まるで周りの視線から隠すようだった。小さく指を震わせながら視線を彷徨わせていたが、次に手をテーブルの上に置いたときには、口元に笑みを湛えていた。
「あら、いやだわ。このお店の雰囲気に酔っちゃったのかもしれないわね」
牡丹がしなを作ると、ウェイターは安堵した様子で配膳を続ける。ワインが三人の前に揃うと、彼は頭を下げ部屋を去る。牡丹はグラスを持つと、高々と掲げた。
「それじゃあ、乾杯しましょうか」
「何に乾杯すればいいのかしら」華も合わせてグラスを掲げる。
「それはもちろん、私とあなたの五十年ぶりの共演に」
ふっと小さく笑うと、華は自らのグラスを重ね合わせた。きん、と軽快な音が鳴る。そして櫻の方にも向ける。櫻は一礼して、同じように乾杯する。
「なんだかすみません。お二人のお食事を邪魔するような形になってしまって」
「いいのよ。私が呼んだんだもの」
「そうですよ。牡丹さんがいきなり妙なことをするのは昔からですから。もう私は慣れました」
「あら、いやあね。人をそんな変人みたいに」
「みたいに、ではなくて、充分変人ですよ、牡丹さんは」
老人同士とは思えない軽快さで会話が交わされていく。華はワインを一口飲むと、丁寧な所作でテーブルに置いた。
「それで、そろそろ教えてくださらない? 一体お二人はどんなご関係なのかしら」
牡丹と櫻が、顔を見合わせる。目が合って、櫻が小さく微笑んだ。いつものような少年の装いはなく、見惚れるほどの美しさがあった。気を取られている隙に、櫻は前を向き、華の顔をじっと見つめながら答える。
「僕は、牡丹さんの恋人です」
えっ、と声を上げたのは華ではなく牡丹だった。彼は冗句を吐いている様子はなく、牡丹は戸惑う。華が目を細めた。猜疑と軽蔑の色が宿る。牡丹は息を吸い、そして櫻の背をぽんぽんと叩いた。
「あっはは、やあねえ。いいのよ、そんな変な嘘つかなくても。あんた馬鹿ねえ」
牡丹が笑うと、櫻が「ええっ!」と間の抜けた声を出した。
「えー、僕、そういう感じなのかなってずっと思ってたんですけどー!」
そう狼狽する姿に、さっきまでの落ち着いた雰囲気はない。いつも牡丹の前で見せている、小心でどこか拙い普段の櫻だ。
「いいのよ、この人には本当のこと言っても大丈夫」
「そ、そうなんですね。失礼しました」
二人の様子を無感情に眺めていた華に、牡丹が向き直る。
「この子はね、私が買ってるの。お金を払ってデートしてもらってるのよ」
櫻がぺこりと頭を下げる。櫻からは、もし自分を紹介することがあったら好きなふうに伝えてもらって構わないと言われていた。もちろん、自分が男娼であることも、話しても何ら問題はないと。
「まあ、そんなことだろうと思ってましたよ」華が呆れたように息を吐く。「だけど、牡丹さんが役者として面倒を見てるのかとも思いましたけど」
「私もね、考えたのよ。なんせこの顔でしょ。でもねえ、全然駄目。ちっとも演技ができないんだもの。見かけ倒しもいいところよ」
「いやあ、僕には無理ですって。みなさんほんとすごいなあって改めて思いました」
櫻が照れたように笑う。頭を掻く仕草は、確かに下手な芝居のようだと牡丹は思った。
再びウェイターがやってきた。前菜を持ってきたようだ。向かって右が穴子のフリット、左がパンにフォアグラのテリーヌを乗せたものになります。説明を終えると、深々と頭を下げ去っていく。
「いただきます」
櫻が手を合わせ、頭を下げた。置かれたナイフとフォークで、綺麗にフリットを切り分ける。その所作は美しく、口に運ぶ様も上品で嫋やかだった。若いのに感心ね、と老人めいた言葉がどうしても牡丹の中に浮かんでしまう。
「さっきの話ですけどね。私は、ちっともすごくなんてないんですよ。すごいのは牡丹さん」
華が途切れた話の道筋を元に戻す。やはり彼女も品の良い手つきで、フォークとナイフを扱っている。
「賞もたくさん取られているし、若い頃からずっと現役で第一線を走っておられますし。本当にすごい方なんですよ」
「そうねえ。少なくとも、役者の道から逃げ出したあんたよりはずっと立派かもしれないわねえ」
華は牡丹の吐く嫌味に顔色一つ変えず、一口大に切ったフリットを口にする。牡丹の方もやはり、無反応の華に苛立つ様子もなく、咀嚼をしている。
「あ、あのう。逃げ出したっていうのは……?」
おずおずと尋ねる櫻に、華がにこりと笑って答える。
「私ね、もうずっと前から演劇の世界には顔を出していないんですよ。実質引退状態みたいなものなの。今度出る映画が、何十年ぶりの作品なんです」
「ええ! そうなんですか。でも、よく出演を決心しましたね」
「そりゃあ、世界の西木監督のオファーですもの。それに、牡丹さんが主演って聞いたら、断るわけにはいかないでしょう」
「よく言うわよ。私のせいで芸能界から遠ざかったんじゃなかったかしら?」
牡丹が吐き捨てるように言う。
「いやだ、そんな週刊誌の妄言を真に受けないでくださいよ。私は、私の意志で道を選んだんです。牡丹さんは関係ありませんよ。……これ、ナイフで切るのはちょっと難しいわ」
オーブンでカリカリに焼かれたパンにナイフの刃を当てながら、華が手を止める。牡丹も倣ってみるが、確かにこのまま切ったら粉々になってしまいそうだ。
「いいんじゃないの、これは手でいただいちゃっても。私はそうするわ」
「そうですよね、私もそうすることにします。ちょっとお下品ですけど」
「いいのよ、大口開けなきゃ。……で、要するに、女優でいる自信がなくなったってことよね、あんたは」
「そうですねえ。いろんな人に毎日見られる生活に、疲れたっていうのもあるかもしれませんわ」
華がパンを手に持ち、頬張る。牡丹もほぼ同時に齧りついた。さく、と音を立てて口の中にパンとテリーヌが放り込まれる。
「だから、牡丹さんは本当に大変だと思います。常に美しさを求められ、いつまでも気高くいなければならない。若い男と寝て、英気を養いたい気持ちもよく分かりますわ」
話の矛先を向けられ、櫻のフォークを持つ手が止まる。しかし牡丹の方は、華の嫌みにやはり表情を変える様子はない。
「そうよ。女優は、女であることを忘れたら終わりだからね」
華が、無表情のまま牡丹をじいっと見つめる。牡丹は目を逸らすことなくその視線を受け止める。
牡丹は見られることには慣れていた。女優という仕事に就いて以来、衆目に晒され続けてきたからだ。嫉妬、羨望、侮蔑、嘲笑、憐憫。ありとあらゆる種類の視線をぶつけられてきた。最初は慄いていた彼らの目に、歳を重ねるごとにだんだんと慣れていった。更に鋭い視線で跳ね返す術も覚えた。
けれど、加賀美華からの視線には、どうにも慣れない。彼女は時折、牡丹が受けたさまざまな感情のどれもが宿っていない瞳を、牡丹に向けることがある。昏く深い闇。苦手だった。どんな顔をしていいか分からなくなる。それは演技をしているときもそうだった。どれだけ役に没頭していても、華に射竦められると、一気に素の自分に引き戻される。
演技は戦いだ。自分の持てる表現力の全てをぶつけあう戦い。クランクインまであと僅か。華と戦う日はすぐそこまできている。
ふ、と華が小さく笑って視線を落とした。牡丹の肩から、ゆっくりと力が抜ける。
「やっぱり牡丹さんは凄いですわね。私は、死ぬまで女でいるなんてごめんですもの」
「あら、そんなことで久々の女優業は大丈夫なのかしら」
「どうかしら、不安でいっぱいですわ。牡丹さんにご尽力願わないと」
そう微笑む華の顔には不安が滲んでいる様子はない。むしろ、お前を食い尽くしてやるという気迫すら牡丹には見えた気がした。
「そういうことなら、どう? この子貸すわよ」
「え、えっ。ぼ、僕ですか」
グラスを片手に、櫻が慌てた声を出す。皿の上は食べかすひとつ残さず綺麗に平らげられていた。
「確かに、綺麗なお顔立ちの魅力的な殿方ですけど。私は遠慮しておきますわ。今更女になんてなれませんもの」
「やあね、私よりも十も若いくせに。それにさっきから、女であることが嫌だったみたいな発言ばかりじゃないの」
「牡丹さん。牡丹さんから見たら私は、とっくに女を捨てた惨めな老人に映るのかもしれませんわね。でもね私、今とっても気楽なんです。生理もとっくに上がって、化粧も滅多にしなくなって、愛だの恋だのに煩わされることもなくなって。女を捨てることで、私はやっと楽に自然体で生きていられる気がするんですよ」
ゆっくりと告げると、華はワイングラスの中身を飲み干す。牡丹はその様子を眺めながら、喉元から静かな怒りがせり上がってくるのを感じていた。
「すごいのはあんたの方よ、華」
言葉に感情が滲み出ないよう、舌を硬くさせながらゆっくりと口に出す。
「私にはできないわ、そんなこと。あんたみたいに、女性器なんてついていませんみたいな顔で生きていくなんて、とてもじゃないけど無理だもの。私は一生、死ぬまで女でいるわ。死ぬまで女優でいるために」
かちゃ、と音がした。華が持っていたフォークとナイフを皿に置く音だった。
そしてまたあの目で牡丹を見つめてくる。もっと見ろ、と牡丹は乞う。何の感情も籠っていない瞳に、怒りや憐れみを宿らせろ。そうすれば、この女に勝てる。
牡丹はずっと女であることを強いられてきた。女でなくなったときが女優の終わりだと信じてきた。だから大金をかけてしみと皺を消し、体型を保つため走り鍛え、着飾ることを忘れなかった。恋をし続け、体を重ね合わせ続けて、そして今は金を払い男を買っている。若く美しい男と同衾して、この体が女であることを忘れないようにしている。
だから、華にだけは絶対に負けたくなかった。何十年も女優を休み、女であることをやめてしまったような彼女には。
負けたくない。絶対に、負けたくない。
そう願いながら、ただ黙ってじっと視線を交じり合わせる。
『ねえ、私たちが女同士じゃなかったら、私たちの仲はもっと素敵なものになっていたかしら』
沈黙を裂いて、牡丹の耳に声が届いてきた。聞き覚えのある台詞。何度も何度も頭の中で繰り返して、何度も何度も口にしてきた言葉だ。
驚いて隣を見る。同じように、華も目を丸くして櫻を見つめていた。櫻はにこにこと笑みを浮かべている。
「あんた……覚えたの?」
「はい。印象的な台詞だったので、覚えちゃいました」
櫻が口にしたのは『紅蓮の女たち』のラストシーン、牡丹が演じる女が吐いた言葉だ。女二人が男を殺すことによって復讐を無事終えるが、二人の中にはまだ男への愛情があり、互いに相手への怒りを抱くようになる。そして最後、その感情が爆発し、二人は罵り合い傷つけ合う。その果てに女は、相手の女にそう言うのだ。
「ええっと、あとはなんでしたっけ。もし私たちが、男だったら……」
『もし私たちが、男同士だったら。もしくは、男と女だったら。こんなことにはなってなかったかもしれないのに』
牡丹が櫻に代わり、続きの言葉を口にする。その途端、当時の情景が一気に蘇る。
二人に復讐される男役兼監督の西木東馬はその頃、世間から注目を浴びていた新進気鋭の人物で、『紅蓮の女たち』に並々ならぬ情熱を注いでいるのが誰の目にも明らかだった。牡丹は彼に何度も怒鳴られ殴られ、なんでこんな簡単な演技ができないのだ、この大根女優、と罵られた。
その仕打ちを受けたのは華も同じだった。牡丹と華は、西木に怒りを覚えながらも、共闘し撮影を続けた。まるで映画の中の二人のように。
『あら、それはどうかしら』
華が口を開いた。
『私たち、女同士だからここにこうやって一緒にいるんでしょ。私、自分が女であるのを後悔したことなんて一度もないわ』
五十年前とは全く違う。顔や髪にはしっかりと年齢が刻まれ、声も嗄れ、当時の若さは消え去っている。それでも牡丹の目には、あの頃の華の姿が確かに見えた。
ふふ、と華が破顔した。
「びっくり。今でも諳んじられるだなんて」
「まあ、あの鬼監督にいやってほど叩き込まれたからね。骨の髄まで染みついちゃって取れないのよ、きっと」
そう言って笑い合う。
ウェイターが再びやって来る。白ワインを紹介したのちグラスに注いで回り、次のお食事をお持ちします、と言って去っていく。
「それじゃあ、もう一度乾杯しておきましょうか」
華がグラスを掲げた。
「あら。今度は何に乾杯するの?」
「そうですねえ。……私たちが女同士であることに、とかはどうかしら」
華が悪戯っぽく笑う。牡丹も笑みを浮かべ、グラスを掲げる。
「いいわね、それ」
乾杯、と唱和し、グラスを重ね合わせる。涼やかな音が、部屋の中に響いた。