第四話 最期の宴

 

 四肢が、ありえない方向に曲がっている。細く皺だらけの枯れ枝のような腕と脚だ。関節からはところどころ骨が覗き、皮膚と肉を突き破って血を滴らせている。

 目はこれ以上ないほど見開かれている。眼窩から双眸が飛び出し、今にも零れそうだ。半開きになった口からは膨れ上がった舌が顔を出し、抜けた歯がその上を滑り落ちる。

 コンクリートには、真っ黒に変色した血溜まりが広がっている。その上に横たわる老婆。着物を着て、髪を一つにまとめていたが、その装いすら判別できなくなるほどの凄惨な状態だ。

 その姿を想像しながら、早乙女松子はぎゅっと目を瞑る。死体は、松子の顔をしていた。

「まっちゃーん! お待たせー!」

 声が聞こえて、ビルの屋上に向けていた視線を、松子はその方向へ向ける。髪の毛を緑色に染め、真っ白なドレスを着て真っ白なスカーフを巻いた老女が、大きく手を振っていた。松子は小さく手を振り返す。彼女の横には、桃色の髪の毛の青年。

「雅さん。綺麗なお洋服ねえ」

 松子が褒めると、日立雅はオレンジ色の唇をにいっと歪めた。

「いいでしょ、これ。今日の日に相応しい色だと思わない?」

「ええ、とっても素敵。雅さんはどんな色でもお似合いだわ」

「でしょー! ほら、聞いた? 櫻。私は何でも似合うのよ!」

 雅がけらけらと笑い、隣に立つ櫻の肩を強く叩く。彼は渋面を作りながら、叩かれた肩をさする。

「知らないってば。僕にお洒落のこととか訊かないでくれって言ってるじゃん」

「なぁに言ってんのよ、こんな真っピンクな髪色して!」

 雅が櫻の桃色の髪をくしゃくしゃと掻き回す。櫻は「何すんだよぉ」と身を捩り、手櫛で髪を整える。けれど元々がひどい癖っ毛で、それほど変わりはないように見える。

「まっちゃんも鮮やかな水色でとっても綺麗よ!」

「あら、ありがとう」

 松子は自分の着物を見下ろし、袖をひらひらと舞わせてみせる。褄下の辺りだけに紫陽花があしらわれたシンプルなデザインで、帯も無地の薄い黄色のシンプルな装いだ。老女二人がそれぞれの装いを楽しむ中で、年若い櫻だけは襟首がよれよれになった黒いシャツに着古したジーンズと対照的だ。無精髭と指紋のついたぶ厚い眼鏡も清潔感のなさに拍車をかけているが、髪の色だけは雅の言う通り美しい桜色だ。彼の働く銀楼館という店の店長から、せっかくなんだから名前の色と合わせろと指示があったと松子は聞いている。

 奇抜な色だが、彼にはとても似合っていた。松子は、櫻の美しさを知っていた。どんなに野暮ったい恰好をしていても、まばらに髭を生やしていても、その整った顔は隠し切れていなかった。雅もそれを分かっていて、彼を傍に置いていることも、松子は知っている。雅は、美しいものがとても好きだ。

「さっ、それじゃあ行きましょうか!」

 明るく声を張り上げる雅の後ろで、櫻が大きく欠伸をした。早朝五時。通る人すらほとんどいないこの時間帯で、眠気をどうにか堪えている様子だ。

 雅が小さな白いハンドバッグから鍵を取り出し、待ち合わせていたビルのドアに差し込む。

「ていうか、ほんとにここ入っちゃって大丈夫なの?」

 ドアを開けて中に入ろうとする雅に、櫻が気怠そうに尋ねる。だが雅は無視して中へと進んでいく。松子も、その後ろへ続く。

「あのー、聞いてます? 大丈夫なのかってば」

「うるっさいわねえ。言ったでしょ、ここはあたしの元旦那の会社なの。ほんとひどい男だったんだから。あの男の会社なんて、どうなったって知ったこっちゃないもの。タイムマシンがあったら私、真っ先にあの頃の自分に会いに行くわね。こんな男を好きになるんじゃない、って引っぱたいて目を覚まさせるわ。ついでにあの男も殴ってやる」

 雅が拳を作り、ぶんぶんと振り回す。その後ろで櫻が項垂れる。

「はあ、やだなあ……不法侵入とかで訴えられんの僕なんですけど……」

 ぶつぶつと呟きながらも、櫻は大人しくついてくる。

 エレベータに乗り込み、最上階へ。人の気配の一切ない、オフィス内の静かな一室。廊下には非常階段に通じるドアがある。雅はそちらへ向かうと、開錠しドアを開け外へと出て行く。松子と櫻もそれに続く。

 階段を上ると、屋上に出た。風が強い。雅のスカーフがばたばたと激しくたなびいた。「うわああ」と櫻が情けない声を出すのが、松子の背後から聞こえてくる。

 強風を物ともせず、雅はずいずいと屋上の端まで歩みを進めていく。柵のある方まで行くと、ゆっくりと空を見上げた。松子もその横に並ぶと、同じように顔を上に向ける。

 晴天だった。その中へ千切って散らしたような雲が、春風と共に流れていく。少し肌寒いくらいなのに、松子の手の中は汗で湿っていた。雅に悟られないよう、そっと着物の袖口で拭く。気を抜くと寒さで体を壊しそうだから気をつけなきゃ、と自分に言い聞かせたところで、もうそんな必要はないのだったと松子はすぐに思い直す。

「すっごくいい天気ね」

 雅が目を眇めながら、にっこりと笑う。そっと顔を雅に向けた松子は、その横顔に見惚れる。やわらかな太陽の光の下で、雅の美しさはより一層引き立っていると松子は感じた。目も鼻も口もすべて美しかったが、松子が一番好きなのは耳だった。短く整えられた緑色の髪から、小さく丸い耳が覗いて、陽光に透けて少し赤い。あらゆる手が加えられ、さまざまな装飾品で飾られた彼女の体の中で、唯一生まれたままの場所。だから、松子は好きだった。

 松子の視線に気付いた雅が、顔を少し左側へと傾ける。松子は誤魔化すように、もう一度天を仰ぐ。

「ほんとうね。とてもいいお天気」

「ええ。最期の日の朝に相応しいわね」

 心底愉快そうに雅が笑う。

「ほら、ちょっと櫻! そんなところにいないで、柵越えるの手伝ってよ!」

 ドアの前に立ったままの櫻に向かって、雅が声を張り上げる。櫻がぐしゃぐしゃに乱れる髪を鬱陶しそうにかき上げながら、のそのそと二人の方へと歩いてくる。

「てか、いいの?」

「何がよ」雅がスカーフを押さえながら櫻に訊き返す。

「せっかく二人とも綺麗な恰好してるのに。ぐちゃぐちゃになっちゃうじゃん」

 櫻の言葉に、雅が細く描かれた眉を高く上げた。ぐちゃぐちゃ、という言葉に、松子はさっき想像した自らの姿を思い出して、唇を噛む。けれど雅は対照的に、にやっと唇を歪めた。

「何言ってんのよ。だからいいんじゃないの」

「えぇ? 何が」

「ぐちゃぐちゃになっちゃえば、美人だってブスだって挽肉でしょ。それでいいのよ」

 雅が同意を求めるように、松子へ視線を滑らせる。松子は小さく笑うと、ゆっくりと頷いた。

 雅が松子の手を握った。手のひらは湿っていて、どちらの汗なのか松子は分からない。松子は雅の顔をじっと見つめる。

「それじゃあ、さっさと死にましょ」

 雅が笑う。美しい顔で。最後に見るのが、この顔でほんとうによかったと松子は心から思った。

 

 早乙女松子は死のうと思っていた。

 孤独に苛まれているわけではない。夫は数年前に亡くなってしまったが、息子夫婦や孫は定期的に連絡をくれる。近所にも、時折挨拶を交わし世間話をする人たちもいる。

 大病を患っているわけではない。体の所々が痛むし飲む薬の量が年々増えてはいくが、まだ頭はきちんと働くし朝の散歩を楽しむ余裕もある。

 不自由のない老後を送っていた。それでも、松子は死にたかった。

 息子夫婦は正月や松子の誕生日には事務的なメールを寄越しはするが、最近はちっとも帰ってこない。会えば同居を迫られると思っているのだろう、と松子は推測していた。近所の人たちも、笑って話をするがそれだけだ。彼らにとって松子はただの一人の老人に過ぎず、何かあったところで助けてはくれないということを松子はちゃんと分かっていた。きっと死んだところで、誰も気付きやしない。

 頭も体も、今はどうにか自由が利く。けれどいつしか、駄目になるときが来る。自分自身が思うままにならなくなり、急速に死に近付く日が来る。

 松子はそれが怖かった。日々松子の心を蝕み、噛み付いてくる死の恐怖に耐えきれなかった。

 ならば死んでしまおう。ある日松子は、唐突にそう思った。毎日毎日怯えるくらいなら、自分から死の瞬間を選んだ方が幾分かましだ、と。どうせこれから、人生が劇的に変わるような出来事など起こりやしないのだから、と。

 けれどどうしても、独りで死ぬ勇気が出なかった。どうしようかしらと思案していると、ニュース等で時折目にする、集団自殺という言葉をふと思い出した。独りで死ねないのならば、誰かと死ねばいい。

 起動にやたらと時間のかかるパソコンで、「集団自殺」というキーワードで検索をかけてみる。ニュースがいくつか引っかかった。読み漁るうち、彼らはネット上で知り合って集まっていることが多いのに気付く。そのような交流をするサイトがあるのかと、松子はそのとき初めて知った。

 次は「自殺 サイト」で検索をかける。一番上には、相談窓口へ誘導するページが出てきた。

 無責任なことね。松子は心の中で吐き捨てる。そこへ電話をかければ、きっと親身になって話を聞いてくれるのだろう。優しい声色で、どうにか心を癒やそうとしてくれるのだろう。

 けれど結局、その相手は人生に責任を持ってくれなどしない。貧困に喘ぐ人に金を貸してはくれないし、孤独な人に愛を注いではくれない。責任を持たなくていい立場だからこそ、耳心地の良い言葉を吐くことができるのだ。

 それでもきっと、彼らに救われる人たちもいるのだろう。ただ、私がそうではないというだけで。そんなことを考えながら、検索結果のページをスクロールしていく。そして深いところまで探っていくうち、松子はついにそのサイトを見つけた。

 そこでは、さまざまな理由で希死念慮を抱く人たちが交流していた。一緒に死にませんか。死にたい人たちとお話がしたいです。そんな内容があちこちで飛び交っている。

 真っ黒な背景に白い文字で書かれたその場所には、噎せ返るような負のエネルギーが渦巻いていた。吐きそうになるほどの凄惨な体験談や、世の中への嫌悪感。松子は読んでいて、気分が悪くなってしまいそうだった。

 そして同時に、自分のような立場の人間が自殺願望など持ってはいけないのではないか、と思うようになっていった。松子にはこれといった理由などない。ただ漠然と、死にたい、そう感じているだけだ。そんな自分がこの中へ入り、誰かと死にたいと言ったところで、一笑に付されてしまう。もしかしたら、怒りすら覚えられるかもしれない。

 やはり、自分はこの淀んだ気持ちを抱えながら、この世にのさばっていくしかないのだろうか。そんな考えがよぎったとき、松子はある一つの投稿を見つけた。

【名前:オト 当方、七十三歳、女性。この世に勝手に死を押しつけられるくらいなら、自分の好きな瞬間に死を選びたい。最後に悔いを残さぬよう、余生を楽しめる相手を募集。】

 どきりとした。松子は七十八歳。ほぼ同世代だ。そして、性別も同じ。若い人たちばかりが死を願うこの場所で、まさか自分と同じような状況の人を見つけるとは思ってもみなかった。

 ネットという世界に疎い松子とて、書かれた情報が全て真実とは限らないことくらい、重々に承知していた。本当はずっとずっと若い人なのかもしれない。性別すら偽っているかもしれない。

 危険を孕んでいるのが分かっていながらも、松子は胸が躍るのを止められなかった。自らと同境遇の相手と話したい、会ってみたいという気持ちが膨れ上がっていった。

 松子は彼女にメッセージを送った。

【私は七十八歳の女性です。よければお話ししたいです。】

 すぐに返事が来た。そこから松子が、オトと名乗る彼女と会う約束を取り付けるまで、それほど時間はかからなかった。

 松子はネットやアプリを通じて知り合い実際に顔を合わせたという話を聞く度、どうして軽率なことをするのだろうと理解に苦しんでいた。顔も本名も分からない。そんな相手と会ったところで、トラブルの種になるのは目に見えている。事実、そんな事件はニュースで沢山目にしてきた。

 それなのに、こんな選択をするなんて。どうせ死ぬのだからと自棄になっているのもあったかもしれないが、松子は自分が信じられなかった。

 会う日のために、松子は久しぶりに服を買った。一時間かけ化粧をし髪を整えた。オトを待っている間は高揚と緊張が入り交じり、心臓も胃も口から吐き出してしまいそうだった。こんな思いをしたのはいつぶりだろうかと、巣鴨の地蔵通り商店街の入り口で佇んでいた。

「あの、ウメコさんよね?」

 声をかけられたとき、松子は自分に言われたのだとすぐには気付かなかった。何度か呼ばれ、自分がサイトではウメコという名前でやり取りしていたことを思い出した。

「あっ、し、失礼しました! ウメコです!」

 慌てて顔を上げる。そして、目の前に立つ女性を見て、息を呑んだ。

 まず目を惹いたのは、緑色の髪だった。まるでエメラルドのような、鮮やかで深い緑。少年を思わせるベリーショートが、陽光に透けて光っていた。

 次に印象的なのは、目。細く鋭い目を、更に際立たせるようにアイラインをきつく上へ引いている。眉もかなり細い。鼻は高く尖っている。その下の唇は、林檎のような真っ赤な色で染まっていた。肌は艶やかで、不自然なほど皺がない。

 恰好も、巣鴨という場所にはちっともそぐわないほど派手だ。大きな花柄がこれでもかというほどあしらわれた青いシャツに、真っ赤なワイドパンツ。ハンドバッグとハイヒールは髪の色と同じグリーンだ。

 首元には鎖のような形をした金色のネックレスが光っている。手首にも、同じように金色のブレスレット。そんな中で、耳だけが何も装飾されておらず、逆に浮いていた。

「遅くなってごめんなさいね。オトです」

 酒焼けしたような、嗄れた声だった。笑ったときに覗いた歯は、異様なほど白い。彼女の独特な出で立ちに、道行く人は振り返り、稀有な視線を送り、人によっては露骨に顔を顰めた。

 けれど、松子は彼女の姿に見惚れていた。なんて、なんて美しい人なんだろう。この人が自分と同じ女性であり、自分と同じ年代であることに、激しい劣等感を覚えると共に、強い憧れと恍惚感も抱いた。

 その彼女が、日立雅だった。

 

(つづく)