第三話 最奥に棲む
矢田緑からの予約は、毎週土曜日、昼十二時から入れられている。都心から高速を使い車で一時間ほど。都内ではあるが自然が多く残る地区で、周りも古い作りの建物が多い。一軒あたりの土地も広く、矢田家もその例外ではない。タクシーで家の前に着くとすぐに大きな庭と聳え立つ木が目に入り、洗濯物が風にはためいている。
今日もやはり暑い日だった。タクシーから降りると、蒸した空気が櫻の皮膚にまとわりつく。周りには陽光を遮るものはなく、日射しが一直線に降り注ぐ。
門のところまで行き、チャイムを押す。モニターのついていないブザー式のものだ。来訪者の確認をされることなく、目の前の硝子戸が開く。出迎えるのはいつも紫だ。いつも似たような長袖の黒いワンピースを纏い、いらっしゃいませと深々と頭を下げる。
家の中へと通される。荷物を居間に置くと、廊下の突き当りの部屋へ案内される。ドアを開けると、緑が正座をして待っている。
「どうぞよろしくお願い致します」
娘と同じように深々と頭を下げる。やはり娘と同じように、生え際には白いものが身を寄せ合っている。
緑はいつも自ら服を脱ぐ。脱いだ服はきちんと畳み、布団の横に揃えて置く。自然と櫻の方も、脱いだ服を布団を挟んだ反対側に置くようになった。そして裸になった緑は、布団の上に横たわる。
それまで寡黙だった緑は、櫻が体に触れると唐突に声を上げ始める。息を荒くし、体を身悶えさせ、よがり狂う。
すごい、すごいわ、きもちいい。もういっちゃいそう。
まるで誰かに聞かせるように、彼女は叫ぶ。
行為を始めて少し経った頃。櫻はまた、背筋にひやりとしたものを感じた。視線だ。同時に、饐えた匂いが漂ってくる。
意識が背後に向かいそうになるのを、櫻は堪える。紫の言葉を思い出す。そこは物置。誰かがいるはずがない。
しかし次の瞬間、はっきりと聞こえた。荒い吐息。そしてその合間に、ううぅ、と唸るような声。
「あの、緑さん」
たまらず櫻は緑に声をかけた。けれどより一層大きな喘ぎ声が、櫻の言葉を掻き消した。それ以上問い質せぬまま、行為は続き、そしてアラームが鳴った。
櫻は急いで後ろを振り向く。襖はぴったりと閉ざされていて、もう誰の気配もない。緑は何を気にする素振りもなく、いつものように櫻の下から滑り抜け、服を着て頭を下げる。今日もありがとうございました。襖の奥に気を取られ返事をし損ねた櫻をよそに、緑はそそくさと去っていく。
緑が出て行き、櫻はもう一度襖を見つめる。気のせいではない。あの息遣いと声は、確実に誰かがここにいることを示していた。家庭にあまり踏み込みすぎるのは仕事としてご法度だということは、櫻とて重々承知している。けれどそれを凌駕する好奇心が櫻を支配していた。
櫻にとって、緑は掴みどころのない人物だった。今までの顧客は、おおよそであるが二分化されていた。あくまで性的な接触のみを求め、性欲の発散が目的の客。あるいは、寂しさを紛らわしたり会話相手を欲していたり、精神的繋がりを求める客。どんな客であろうと、櫻は彼女たちの願望を叶えるべく、自分という存在を無にし接し続けてきた。
けれど、緑に対してはどうしたらよいのかと櫻はずっと考えあぐねていた。緑は、二分化したパターンのどちらにも当てはまらない。会話をすることはほとんどなく、むしろ必要以上の接触を避けているようにすら思える。かといって性欲解消のためとも思えなかった。彼女の喘ぎや反応はおそらく演技だ。初めの頃はどうしてわざわざ金を払い男を呼んでまでそんなことをするのか櫻には理解できなかったが、襖の奥からの気配を感じるようになり、ようやく気付いた。この奥にいる人物に、櫻との行為を見せ、嬌声を聞かせているのだ。
一体、誰に。考えるたび、興味が抑えきれなくなっていく。この襖の奥に、その答えがある。櫻はつい、手を伸ばしてしまう。
そのとき、ノックの音がした。慌てて手を引っ込める。
「櫻さん、お疲れ様でした。よければ、お風呂お使いください」
紫だった。いつものように、浴室の準備をしてくれたようだ。「ありがとうございます」今度はどうにか返事をすることができる。
紫の気配が去ったのを確認すると、櫻は襖に耳を聳てた。物音や息遣いは聞こえてこない。小さく息を吐くと、裸のまま廊下へ続くドアを開いた。
風呂から上がると、いつものように紫に居間へと案内され、いつものように苺を出された。やはりいつものように、大粒で艶やかな苺だった。
紫は櫻の向かいに座ると、窓に顔を向ける。今日はあまり風がなく、部屋の中は日射しが入り込み暑いくらいだった。また、蝉が鳴いている。
「今日もいますね。蝉」紫がぽつりと呟く。
「そうですね。鳴いてますね」
「この前と同じ蝉かしら」
「そうかもしれませんね。この時期になかなか見かけないでしょうし」
「確かに、何度か日中に鳴いているのを耳にしました。まだ仲間を探しているんでしょうね」
かわいそう。ほとんど声にならないような声を口にする。
紫の耳の後ろから、一筋汗が垂れているのが見えた。紫はそれを拭うことなく、そのままにしている。顎の裏を通り、喉を滑り、鎖骨に落ち、ワンピースの襟元に吸い込まれていく。
「あの、紫さん」
「なんですか?」紫は窓の方を向いたまま応える。
「部屋の奥、やっぱり誰かいますよね。今日、声を聞いたんです。声といってもほとんど呻きのようなものですけど」
紫は何も答えない。ゆっくりと瞬きだけした。上下の長い睫毛がぶつかり合って、また離れていく。
「聞き間違いだと思いますよ」
やはり淡々と返されるが、櫻は食い下がる。
「そうは思えませんでした。はっきり、人の声が聞こえたんです。もちろん緑さんの声ではありません」
「そんなこと言われましても。あそこは、ただの物置ですから」
「そうですか。でしたら、開けてもいいですか」
紫の頬が、小さく引き攣った。しかし表情は変わらない。
「櫻さんは、人の家のことを詮索されるようなお方だったんですね」
「申し訳ありません。けれど、背後で視線を感じたり声が聞こえたりするのでは、仕事に支障が出てしまいそうですので」
紫が、長い溜息をついた。視線を窓から遠ざけ、顔を櫻の方へ向けると、苺の入った器をずいと押してくる。
「よければ、どうぞ」
「あ、はい。いただきます」
櫻は小さく頭を下げ、苺に手を伸ばす。口に放り込むと、甘く瑞々しい果汁が溢れてくる。よく冷えていて、口腔内が涼しげになる。
「父なんです」
蛍光灯の光を浴びて光る真っ赤な苺を眺めながら、紫が口を開いた。
「あの襖の奥にいるのは、私の父なんです」
紫の父。つまり、緑の夫。櫻は、緑の夫がいる隣の部屋で、緑と体を交えていたということになる。
「確か、あの部屋は物置だと仰ってましたが」
「ええ、物置です。今の父は、ただの物でしかありませんから」
悪辣な言葉を吐きながらも、やはり表情は変わらず、口調も淡々としている。けれど舌の奥に潜む悪意は、確かに櫻にも届いていた。
「父は去年、脳梗塞を患いました。一命は取り留めましたが、後遺症が残ってしまったんです。半身麻痺と、言語障害。一人では布団から起き上がることもできませんし、会話もままならなくなりました。だから父はあの部屋で、置物のようにじっとベッドの中で過ごしているんです」
「それは……大変でしたね。お二人にも心労がかかるでしょうし」
「そうですね。でも、母はどうでしょう。あの人は、一度も父の世話をしようとしませんから」
「ということは、紫さんがお一人で?」
「はい。食事も、排泄の処理も、入浴も、私が一人でやってます。幸い自宅でもできる仕事に就いていますので、自由は利きますし」
では、緑は? 単純な疑問が櫻の頭の中に浮かぶ。彼女は老体と呼ぶにはまだ早いほど矍鑠としている。むしろ性行為を嗜めるほどの気力と体力は持ち合わせているはずだ。娘一人に世話を任せるのは、少し酷ではないだろうか。
「母は、父にずっと苦しめ続けられてきましたから」
櫻の疑問に答えるように、紫が続ける。
「父は絵に描いたような、酷い男でした。酒を飲み、暴れて母を殴り、物を投げつけてきました。当然のように浮気も繰り返していました。けれど生活力に乏しい母は父に頼るほかなく、暴力と屈辱に耐えながら日々を過ごしていました」
紫がふと後ろを振り返り、背後にある柱に目をやった。側面には、削られたような傷がある。通常の生活でできるとは思えないほど深く抉られていた。
「そんな父が、今ではほとんど動けない、口もまともに利けないような状態です。一体、母はどう思っているんでしょうね。あの人は無口で、娘の私にもあまり気持ちを話したりしないものですから。私もよく分からないんです」
「紫さんは、被害には遭わなかったんですか?」
ゆっくりとこちらに傾けた顔を窓へと戻す。瞳は常に昏く、煌々と照る太陽ですら光を与えられていない。
「もちろん、何度も殴られました。母は庇ってくれましたけど、癇癪を起こした父は手が付けられなかったので。父は妙に狡賢いところがありまして、顔や腕などの目につくところは絶対に手を出さないんです。決まってお腹や背中や、服に隠れるところばかりを狙って殴ってきました。それに外面だけは異様に良い人だったので、周りは誰も父の残虐さに気付かなかったんです。親戚も学校も、誰も助けてくれず、幼い私には助けを求めることもできず、私も母と同じようにただ耐えることしかできませんでした」
「でも……ある程度の年齢になれば、逃げることもできたんじゃないですか」
「そうですね。でも、母が」
それまで流暢に話していた紫の唇が、ふと動きを止める。僅かではあるが眉根を寄せ、小さく苦悶を顔に浮かべる。当時の苦しみを反芻しているのだろうか、と櫻は想像する。
「母のことを考えると、この家を出て行くことはできませんでした。父の罵声や暴力をたった一人で浴びることになる。そう思うと、どうしても」
一陣、大きな風が吹いた。紫の黒い髪が翻り、机の上に置かれていたティッシュがたなびく。紫が淹れた緑茶の表面が揺らめいた。櫻は湯呑みに手を伸ばし、中身を口に入れる。ぬるさが喉に心地好い。
「それでも、今は献身に介護なさっているんですね」
「はい。施設も検討しましたが、やはり父も家にいる方がいいかなと」
けれど結果的に、彼はこの家の最も奥の部屋に押し込まれ、妻の性行為を隣で聞かされている。それは、彼にとって果たして最善なのだろうか。それに何故、緑はそんなことを。
浮かんだ疑問を口にしようとした刹那、ざりざり、と鳴った。タクシーが家の前に着くのを知らせる音だ。紫は腰を上げ、櫻も訝しさを押し込めたまま立ち上がる。
「今日もありがとうございました」
紫が頭を下げ、週末の逢瀬を締め括る。