第五話 姦しい葬式

 

最初から読む

 

 藤子がしっとりと締め括った。吉乃に対する愛が溢れた語り口で、故人を偲ぶ思い出話としてはこれ以上ないほどだった。けれど、紅子も八重子も、苦虫を噛み潰したかのような顔で藤子を見つめていた。

「藤子さんにとって吉乃さんは、憧れの人だったんですね」

「そうよ、そうなのよね」藤子は何度も頷く。「明るくて、いっつもきらきら輝いてて、星というよりは太陽みたいな人だったわねえ」

「……嘘よ」

 ぽつりと呟いたのは、紅子だった。三人の視線が一斉に彼女に集まる。

「あたしの知ってる吉乃は、そんな子じゃないわ」

「まあ、確かにそうねえ」八重子も続く。「まるでずっと、知らない人の話を聞いてるみたいだったわあ」

「あら、何よ。私が嘘をついてるっていうの?」

 藤子がむっとした様子で返す。憤然とした表情のまま、テーブルの上に置かれたマグロの寿司を無造作に手に取り口に運ぶ。

「そうは言ってないですよ。でもあなた、違う人のお葬式に間違ってきちゃったんじゃないですか? そうじゃないと説明がつかないわ」

「そんなわけないでしょ! 同じ顔で同じ名前の人間がいてたまるもんですか」

「でもねえ、確かに妙なのよねえ」

 八重子が桶の中をじっとりと見渡し、そして玉子を手に取った。

「藤子さん、吉乃さんは結婚しなかったって仰ってたじゃない? でもわたしが聞いた話だと、吉乃さんは結婚していて子供もいるっていう話だったのよねえ」

「そうよ、そうだったわ。あたしも吉乃には子供がいるって聞いてましたよ」

「あら、なあに二人して! でもそれじゃあおかしいじゃないの。今日の喪主、よっちゃんの姪っ子って言ってたわよ? なんで旦那や子供が出てこないのよ」

「それは、事情があるんですよ。あの子は複雑な身の上の子だったから」

 紅子が寿司を眺め回して、吟味する。迷った挙げ句いくらを手に取って、醤油をたっぷりとつけた。口元に持ってきたところで、ふと櫻に視線を寄せる。

「あらやだあなた、お寿司食べてる? せっかくなんだからいっぱい食べないともったいないですよ。ほらどうぞ」

 紅子が寿司桶を櫻の方へと寄せてくる。藤子と八重子もうんうんと頷いている。

「そうよね、若いんだからたくさん食べないと駄目よね。そんな細っこい体してねえ」

「ビールばっかり飲んでちゃ駄目よお。というより、あなたちゃんと成人してるの? ずいぶんとお若く見えるけど」

「はい。成人はしてますよ」

「あらあ、そうなの。最近の若い子は年齢がさっぱり分からないわあ」

「そうなんですよ。今の男の子ってお化粧とかもなさるでしょう。そうなるともう年齢不詳よねえ」

「うちのコーラス会にもそんな子いるわー。若い恰好してるからうちの孫くらいの年齢かと思ってたら、三十いってますって言われてもうびっくりよ」

 話題はまたどんどんと脱線していく。櫻がイカを摘まみながら「あの」と割って入った。

「紅子さんの仰ってた、吉乃さんの事情って一体何なんですか?」

「あっ、そうよ、そうよね。それ気になるわ」

「そうねえ。わたしの知ってる事情とおんなじなのかしら」

「はいはい、分かった、分かりましたよ。ちゃんと順を追ってお話ししますから、お待ちくださいな」

 紅子がどこか嬉しそうに二人を宥める。口紅のよれを気にするようにわずかに唇に触れながら、紅子は話し始めた。

 

 あたしの知ってる吉乃はね、そんな明るく朗らかな子じゃなかったですよ。どちらかというといつも寂しそうな、どこかちょっと無理したような笑みを浮かべてて、あたしが思い出す吉乃って言ったらその顔なの。

 あたしたちは、たまたま知り合ったんです。あたしは朝のランニングが日課でしてね。ルートがいつも決まってて、近所の公園で走ってるんです。そこで、吉乃と出会ったの。毎朝、この人と顔を合わせるなあって思ってましてね。だんだん会釈くらいの挨拶を交わすようになったんです。そんな関係がしばらく続いてたんですけど、あたし、思い切って声をかけてみたの。

「あの。この辺りに住んでいらっしゃるの?」

 吉乃は、ちょっと驚いた顔をしてたわね。あ、いきなり話しかけたのは失敗だったかしら、って思いましたよ。この歳になると相手のテリトリーに入るのに躊躇しなくなっちゃうけど、でも相手が同じ年代だからといって同じ感じとは限らないじゃないですか。しまったわねえ、って思ってたら、にこって笑ってくれて。ちょっと無理したような笑い方だったわ。

「歩いて三十分くらいのところに住んでるんです」

 あー、よかったー、ってほっとしました。そこから、「走るために歩いてくるなんてなんだか変な感じですね」なんて他愛ない話をし始めて。その日から、吉乃と毎朝話すのが日課になったんです。

 二人で並んで走った後、ベンチに座って二、三十分。ほんとうに益体もない話で、でもとっても楽しかったわ。吉乃はあまり自分のことを話さない子で、あたしの話をいっつもにこにこ笑って聞いてくれてました。あたしが話を振っても、ちょっと困ったような笑顔で言葉を濁すだけで。ああ、あんまり自分のことを話したくないのねって思ってました。

 でもあるとき、急に自分のことを話し始めたんです。

 あれは、何がきっかけだったかしら。確か、子供の話になったのよね。あたしは一回結婚に失敗してまして。まあもうそれはそれはどうしようもない男だったんですけどね。だから離婚して大正解! 子供もいなかったしよかった! って思ったんですけど。やっぱり女ですから、自分に子供がいたらどうだったんだろう、どんな人生だったんだろうなあって思うこともあるんですよ。そんなことを話したら、吉乃がぽろっと言ったんです。

「子供なんていたって、いいことばかりじゃないですよ」

 いつもの笑顔よりも、なんだか苦しそうで。あ、もしかしたらこの子は、話を聞いてもらいたいのかもしれない、って思ったの。そもそも吉乃に子供がいるってこと自体初耳だったわ。一度も子供の話なんてしたことなかったんですもの。

「吉乃は、子供がいるのね。息子さん? 娘さん?」

「息子が、一人」人差し指を立ててたのをどうしてかすごく覚えてるわ。「どうしようもない息子なんです」

「あらやだ。そうなの?」

「はい。小さい頃からとてもやんちゃな子で、手を焼いてました。同級生をいじめたり、近所の子を意味もなく突き飛ばしたり。いろんな人に頭を下げる毎日で、謝るのが日課になっちゃったくらい」

 吉乃は自虐的に肩を竦めてて、彼女なりのジョークだったのかもしれないけど、笑えないわよね。

「家でもね、よく暴れる子で。おもちゃを壁に投げたり、テレビとか椅子を蹴ったり。それで叱ったりすると癇癪を起こして、ますます暴れるの。もうどうしたらいいか分からなくって、私」

「旦那さんは? 旦那さんは助けてくださらなかったの?」

「夫は……家庭に無関心な人で。なんていうんですか、仕事人間っていうんですかね。俺が稼いでくるから、家のことは任せた、っていうような感じで、育児には何も。私も何度も相談したんですが、とりつくしまもなくて」

 酷い旦那だわ、って思わず言いそうになったけど、ぐっと堪えました。余所のご主人の悪口だなんて、気を悪くされるに違いないですからね。

「だから私一人で頑張っていたんです。でも、だんだんそれもつらくなっていって。息子が幼い頃は良かったんですよ。暴れるとはいえ小さな体ですから、私も押さえつけられる。でも中学、高校と上がるにつれ、体格もどんどん良くなって、私の背なんてあっという間に越えちゃって。そうなるともう、ほんとうにどうしようもなくて。部屋の隅で蹲って嵐が去るのを待つしかなかったんです。でも……でも、物に当たっているうちはまだよかった。ある日……いつものように癇癪を起こした息子が、私を……殴ったんです」

「そんな……」

 私は想像しました。吉乃の華奢で小さな体が、息子に殴られる姿を。胸がきゅっと痛くなったわ。許せないと思った。できることなら、私が時間を遡って、吉乃を救いに行きたいって思いましたよ。

「今まではね、息子に愛情もあったんです。特に生まれたばかりのときなんて、すっごく可愛くて。あのときの笑顔とか、小さくて柔らかい手の感触とかを思い出して、それで息子に息子として接することができてました。でも、初めて殴られたそのとき……あ、この子は私の息子なんかじゃない、って思いました。ただの、乱暴で粗野な、私にとって害をなす男でしかないんだなと」

 すると急に、吉乃がジャージのチャックを下ろしました。首を隠すようにしていた襟が開いて、吉乃の喉元が露わになって。それを見て、私、言葉を失いました。喉の辺りに真一文字に、大きな傷ができていたんです。

「これね、息子にやられたんです。鋏を投げつけられて、その刃がちょうど喉をかすめて。血がだらだら出て、ああ私死ぬんだ、息子に殺されるんだわって絶望的な気持ちになりました」

「酷いわ……そんなになってまで、旦那さんは何も言わなかったの?」

「いえ、さすがに見かねて、息子に怒鳴っていました。でもねえ、その頃はもう、息子は夫の背丈もゆうに越していたんです。逆に夫は息子に殴られてしまいました。鼻が変形して、顔が真っ赤に腫れて、もうほんとに酷い有様で。自分の息子にそんな目に遭わされたのが余程ショックだったのか、数週間後、夫は何も言わず家を出て行って、もう戻ってきませんでした」

「ええっ!? 逃げたってこと?」

「そうなりますね。私と息子は捨てられてしまったんです。会社も辞めていて、連絡がつかず。今でも消息は不明です」

「そんな、酷すぎるわ」

 あまりのことに、我慢してたのに思わず言っちゃったわよね。吉乃は反論も同調もせず、やっぱり寂しそうに小さく笑うだけでした。

「そこからはずっと、耐え忍ぶ毎日です。息子は定期的に暴れ回って、私に暴力を振るった。それでもこの暴力性が外に出なければ、誰かに迷惑をかけないのであれば、私は喜んで犠牲になろうって。それが母親としての責任だって思っていました」

「そんなこと思う必要ないわよ。いくら母親だって、そこまでの責任はないはずだわ」

「そうかもしれませんね。でも、幸いにも息子はその頃外面だけは良くて、友人も沢山いたし彼女もできていました。外での苛立ちや鬱憤を私で晴らしていたのかもしれませんが、それでもいいって本気で思っていたんです」

 そう言う吉乃がいじらしくて、抱き締めてあげたかったですよ。あたしは子供がいませんけどね、親って、そこまで子供の奴隷にならなくたっていいはずなんです。でも、吉乃は責任感が強いから……今こうやって話してるだけで、ほんとうに可哀想で仕方ないですよ。

「そして、息子が結婚しました。お相手はすごく気立ての良いお嬢さんでね。息子も我が家では想像できないくらい、彼女に優しく接していました。暴力性が奥さんに向かないか心配する反面、でもこれでもう私は苦しまなくて済む……自分勝手なんですけど、そうも思ってました」

「自分勝手なんかじゃありませんよ! そう思うのは当然です」

「ありがとうございます。でも、それで終わりじゃなかったんです」

 その言葉を聞いたとき、ぶわっと鳥肌が立ちましたよ。まるで怪談話を聞いてるみたいだったわ。

「息子は家庭で何かあるたび、実家に戻ってくるようになりました。そして私に暴力を振るうんです。ひとしきり殴ると、すっきりしたような顔で帰って行きました。そうやって家庭の平穏を保っていたんです」

「どうして、そこまで吉乃がする必要あるの? 警察とか呼んだ方がいいわよ!」

「でも……息子の結婚生活を壊したくなかったんです。孫も生まれて、余計にそう思うようになって」

 もしかしたらまだ、吉乃には息子への愛情が残っていたのかもしれませんね。子供のいないあたしには、吉乃の言うことにそれ以上反論なんてできませんでした。

「けど、私にはもう一つ懸念事項があったんです。孫のことです」

「お孫さん?」

「はい。孫は男の子だったんですが……息子に、そっくりなんです。大きくなるにつれてどんどん似ていって、孫の顔を見るたびに、怖くなってしまって。この子が、息子のような人間になってしまったらどうしようって。それならそうなる前に、私が力で敵わなくなる前に、私が殺してしまったほうがいいのかもしれない……って」

 物騒な言葉が、あの吉乃の口から飛び出してきて驚きました。でもきっと、それくらい追い詰められていたってことなのよね。

「でも、そんな簡単に人を殺したりできないんです。やっぱり、孫だから可愛いし。迷っているうちに、どんどん孫は大きくなっていく。高校生になった孫は、息子の生き写しでした。高圧的な話し方も大仰な身振り手振りも似ていて……息子もそれに気づいていて、ずいぶんと可愛がっていました。そんなある日、息子が孫を連れて急にやってきたんです」

「それは、奥さんなしで?」

「はい。二人並ぶとほんとうに瓜二つで。息子は、何故かずっとにやにやと笑っていて。私、分かってしまったんです。自分にそっくりな子供に、自分と同じことをさせようとしているんだって」

「同じことって、もしかして……」

「そうです。何か嫌なことや腹の立つことがあったら、この女を殴っていい。そう子供に教えに来たんです」

 なんてことかしら、って思ったわ。そんな怖いことがこの世にあるなんて、って。自分の息子と孫に、暴力を受ける。最悪の恐怖でしょう。

「いいか、よく聞け。人生を円滑にするためには、たった一人のサンドバッグがいればそれでいい。そうすれば、みんなに優しくすることができる。そう言って、私に大きく振りかぶってきたの。そうしたら」

 今でもすごく鮮明に思い出せます。唾を飲んだ吉乃の、白くて傷のついた首が、ゆっくりと動いていたのを。

「そうしたら……息子が、急に倒れたんです。殴ったんです、孫が。息子を」

「えっ!? お孫さんが、助けてくれたの?」

「そう、そうなんです。何してんだ、おばあちゃんに手を出すな、って。そこからはもう……息子と孫の大喧嘩で。でも体格が同じくらいの孫の方が若くて体力もあって、息子は満身創痍でした。騒ぎを聞いた近所の人が通報したらしくて、警察が来て、その場は治まって。それから、息子が一人で家に来ることはなくなりました」

「それはつまり、殴られることがなくなったってことかしら?」

「はい。孫が反発したのが、やっぱり大きかったのかもしれません」

「そうなのね。よかった、ほんとうによかったわ!」

 あたしは思わず吉乃の手を取って、なんだか泣きそうな気持ちになってました。今も息子に苦しめられている吉乃はいない。そう思ったら、すごく安心したんです。

「ねえ、紅子さん」

 あたしの手を握り返して、ぽつりと吉乃が言いました。

「子供なんていたって、いいことばかりじゃないと私は思います。実際私は、嬉しいことよりも苦しいことやつらいことの方が多くて、何度も子供を産んだことを後悔しました。でも、あのとき思ったんです。孫が、息子の暴力に立ち向かってくれたとき。ああ、子供を産んで良かった。誰かが傷つくことに立ち向かえる人を作り上げる助けができて、良かった、って」

 さっきもお話ししましたけどね。あたし、子供がいないんです。子供がいる人生ってどんなもんなんだろうって思いながら、この歳まで生きてきたんです。

 でも、吉乃の話を聞いて、子供を作ることって相当な覚悟がいることなんだなって思い知らされました。同時に、そんな人生を共有してくれた吉乃を、すごく愛おしく思ったんです。

 もしかしたら吉乃の身に、何かまたつらいことが起こるかもしれない。そうなったら、私が全力で寄り添って、守って、力になろうって、そのとき決意したんです。

 

(つづく)