第二話 永遠に姫
一週間後。櫻は好江の言いつけ通り、再び施設へ来ていた。一時間分の料金もきっちりクレジットカードで支払われていた。
いつものように大内に案内されて中に入るが、以前とは違う雰囲気を感じ取る。施設全体がどこか物々しい雰囲気で、大内も普段以上に落ち着かない様子だ。
「バタバタしてねえ? なんかあったの?」
「今、入居者さんが危篤状態なんです。……芝山さんです」
「芝山さんって、例のあの、好江さんとしちゃったおじいちゃん?」
こくんと小さく頷く大内の顔は険しい。
「今、病棟の方でご家族や入居者さんたちに見守られていて。咲野さんもそこにいらっしゃいますので、櫻さんもそちらに」
「え、何、俺そんなとこ行っていいの」
「病室の中は難しいですが、外でなら。それに、咲野さんが櫻さんにいてほしいっておっしゃってるんです」
櫻は大内に案内されるがままついていく。施設は病院が併設されており、一階の廊下で繋がっていた。フローリングの床と薄いベージュの壁から、清潔を体現したような真っ白なフロアに変化する。手摺を掴んでゆっくりと歩く老爺や、車椅子に乗った老婦が行き交い、医師や看護師たちの姿も見える。
その横を通り過ぎ、個室の病室に辿り着く。中からは微かに声が漏れ聞こえてくる。その向かいのベンチに、好江は座っていた。背を丸め、虚空をぼんやりと見つめている。いつもの若々しい姿はそこにはなく、老人然とした様子だった。けれどハンカチを握りしめている指の先は、やはり綺麗にピンク色に彩られている。
櫻たちの姿に気付くと、好江は「あら」と顔を向けた。いつもの彼女の顔に戻っていた。
「来てくれたのね、櫻ちゃん。ほら、ここ座って」
好江が自分の隣をぽんぽんと手で叩く。櫻は言われるがまま、そこに腰を下ろす。私はここで、と大内は頭を下げて去っていく。
座るのを促した好江は、一向に口を開く気配がない。芝山がいる病室のドアを、ただじっと見つめている。
「芝山さん、やばいんだって?」
櫻がぽつりと尋ねた。刹那、好江が小さく笑う。どこか困ったような笑みだった。けれどすぐに唇をへの字に曲げて「そうなの」と答える。
「ねえ、櫻ちゃん。私ねえ、約束ちゃんと守ってたのよ。芝山さんももちろん、他の人にも、あんなことしてなかったの。なのに、どうしてなのかしら。今日、朝ご飯の後、芝山さんが急に倒れちゃってね。そこからずっと、意識不明。ずーっとこの中にいるのよ。私、約束守ったのに」
好江の薄い唇は小さく震えている。ドアを見つめては、苦しそうに視線を逸らす。けれどそれにも耐え切れないように、またドアを見つめる。
「好江さんさあ。やっぱ、芝山さんのこと好きだったの?」
「やだわ、櫻ちゃん。前も言ったでしょ。お友達としては好きだけど、ラブじゃあないのよ」
「じゃあ、なんでそんなにつらそうなんだよ」
好江が、ようやく櫻の方を向く。いつも薄く施していた化粧は今日はしていないようだ。目尻の皺や頬の辺りに散った染みが、くっきりと浮いて見える。
「当たり前よ。いくつになっても、いくら老人になっても、身近な人が死ぬことに慣れたりなんてしないわ。いつだってつらくて、悲しいものよ」
そのとき、廊下の奥から医師がばたばたと駆けてきた。目の前の病室に駆け込む。中から、芝山さん意識が戻りました、と看護師が告げるのが聞こえた。
好江がふらりと立ち上がった。たたらを踏み、櫻が慌てて立ち上がり肩を抱く。手にしていたハンカチを口元に当て、開いたままのドアをただ見ている。ここからだと、病室の様子は全く窺えない。芝山を呼ぶ家族や入居者たちの声だけが聞こえてくる。
「好江さん、中に入らなくていいの?」
「いいの」好江が小さく首を横に振る。「私が入ったりしたら、きっと迷惑だもの」
お父さん、私よ、分かる? 娘らしき女性の声が聞こえてくる。おじいちゃん俺だよ、会いに来たんだよ。孫だろうか、若い男の声だ。
「ああ……お前たちか」
掠れた細い声が聞こえてきた。好江のハンカチを持つ手が、ぴくり、と動いた。芝山は子供たちや孫たちの名前を呼び、礼を言っている。
「あの人は……あの人は、いないのか」
彼は誰かを捜している様子だった。好江の手に力が籠った。真っ白なハンカチに皺がいくつも寄る。
「みっちゃん……道代さんは、どこにいるんだ」
ここよ、ここにいます。道代が叫ぶ。
ああ、みっちゃん、よかった。最期に会えた。ほんとうに今までありがとう。
こちらこそ、ありがとうございます。あなたのお陰で、とても幸せな毎日でした。
そんな会話が交わされるのを、好江はただじっと聞いている。体が微かに震えているのが、腰を支える櫻の手にも伝わってくる。
そして、言葉が途切れる。しばしの沈黙。やがて医師らしき男が告げた。ご臨終です。わっ、と哀哭の声が聞こえてくる。
好江が、ふらふらとベンチに腰を下ろした。ああ、と小さく嘆息し、ハンカチで目元を覆った。合わせるように隣に座った櫻が、背中をゆっくりとさする。
「好江さん。俺、やっと分かったわ」
ワンピース越しの背中が冷たい。暖を与えるように、櫻は何度も手を往復させる。
「好江さんは、名前を呼んでほしかったんだな」
好江は、小さく頷いた。
好江と夫は、仲の良い夫婦だった。
見合いで知り合い、ほとんど互いのことを知らないまま結婚した。好江は当時から異性に好意を抱かれることが多く、告白されたことも幾度もあったが、誰に対しても首を縦に振ろうとはしなかった。好江にふられた男たちは、好江の夫をあんなつまらない男と揶揄した。
確かに好江の夫は温和ではあるが朴訥としていて、見かけも決して美男というわけでもなかった。けれど好江は彼を選んだ。愛していたわけではなく、愛せそうと思ったわけでもなく、ただ、それが親が勧めてきた道だったからだ。
だが結果的に夫婦生活は穏やかに進んでいった。夫は好江を愛し、また好江も夫を愛するようになっていった。
結婚して何年経っても子供を授かることはなく、好江は妊娠しにくい体ということが発覚した。好江は夫に泣いて謝り、離縁してくれと頼んだが、夫はそれを受け入れなかった。二人だけで生きていてもきっと楽しい、楽しくさせてみせると彼は好江に誓った。
夫はその約束を忠実に守った。二人きりで生きてきた四十余年、好江は退屈したことがなかった。夫は好江をいろんなところへ連れていき、いろんな体験をさせた。好江はそんな日々が楽しかった。
それは好江が七十歳になったときにこの施設に二人で入所してからも同じだった。自由に出歩ける機会が減り、狭い部屋で過ごすばかりになってしまったけれど、それでも好江は楽しかった。
だが入所しておよそ一年後、夫が認知症を発症した。物忘れが多くなり、徘徊するようになり、子供返りをし始めた。好江は甲斐甲斐しく世話をしたが、ある朝、目が覚めた夫にこう言われた。
おばさん、誰? 僕、家に帰りたい。
「ずうっと私のこと忘れてるわけじゃないのよ。時々思い出すの。でもね、その翌日にはまた私のこと忘れてたりする。それを繰り返していくうちにね、忘れてる時間の方が、どんどん長くなっていったの」
好江の向かい側では、櫻が紅茶を淹れている。二つのカップの中身をゆっくりと満たしている。薄桃色の陶器に、彼の小指に嵌ったゴールドの指輪が反射して光っていた。
「最期はね、あっという間だったわ。風邪をこじらせて、肺炎になっちゃって。でも、亡くなる前に意識を取り戻したの。私、必死に名前を呼んだわ。最後に、あの人に名前を呼んでほしくて。でもね、あの人、涙を一筋流して言ったの。お母さん、って」
櫻が片方のカップを好江の前に置いた。ありがとう、と両手を添える。冷えきった指先を温めるような仕草だった。
「あのときは悲しかったわねえ。死の間際、名前を呼ばれないことが、こんなに悲しいだなんて思わなかったわ。だってその人の人生の中に、私が存在してないってことじゃない。悲しいって思った後にね、すっごい怖くなったの。このまま、誰の記憶にも残ることなく、私は死んでいくんじゃないかって。誰一人として、死ぬときに私の名前を読んではくれないんじゃないかって。そりゃあ、私のお葬式にはきっとそれなりの人が来て、きっと悼んでくれるんでしょうけど。でも、私はもう死んでるんだもの。そんなの何の慰めにもならないじゃない?」
施設内に好江と親しい人物は何人かいた。けれどあくまで世間話を交わす程度で、実際彼ら彼女らが亡くなったとき、誰も好江の名は呼ばなかった。好江の中に、澱のように恐怖と焦燥が積もっていく。誰でもいい。本当に誰でもいいから、私の名前を呼んでほしい。
「それで、あんなことしたわけ?」
「そうなのよ。それで、あんなことしちゃったの」
うふふ、と小さく笑ってカップを持ち上げ、傾ける。中身をこくんと飲み込む。
好江は、誰かの特別になりたかった。誰かの死の間際、思い出されるような存在になりたかった。
けれど好江にはその方法が分からなかった。今まで彼女が微笑んで手を振れば、誰もが褒めそやし好きだと頭を下げてくれた。でも、その先はどうしたらいいか、見当もつかなかった。
そこで好江が思いついたのが、『夜這い』という方法だった。
「だって、男の人ってそういうこと好きでしょう。実際、みんな喜んでくれたわ。気持ちいい、最高だよ好江さん、って褒めてくれたもの。でも」
好江が深く息を吸う。
「でも、そんなのじゃやっぱりだめだったのね。今日の芝山さんを見て分かったわ。あんなことじゃあ、記憶になんて残らない」
「今の言葉は、俺としては聞き捨てならないね」
櫻が頬杖をつきながら不貞腐れたように言う。櫻は体を重ねることで誰かを充たす仕事をしている。そんな彼に、『あんなこと』と称されるのは確かに気分が悪いだろう。「ごめんなさいね」と好江は素直に謝る。
「私のやり方が、間違ってたんでしょうね。きっともっと、正しいやり方があったんだと思うわ。そうすれば道代さんみたいに、名前を呼んでもらえた」
誰か一人でも、自分を覚えていてくれればいい。かつても好江はそう思っていた。けれど、その思いを馳せていた一人が、自分を忘れてしまったとき、どうしたらいいのか術が見つからなかった。
「だから、もうやめるわ。スタッフさんには怒られるし、みんなには嫌われちゃうし。なーんにもいいことなかったもの」
好江はおどけたように肩を竦めてみせる。いつものように穏やかな微笑み。櫻がその顔をじっと見つめている。長い睫毛の下の色素の薄い瞳が、ぴくりともせず好江を捉えている。
「じゃあ、俺が覚えててやるよ」
好江の口元から、ゆっくりと笑みが消えた。カップに添えていた指を外し、両手を絡めるようにして重ね合わせる。
「俺が何年後に死ぬのか、好江さんより後なのか先なのかも分かんねえけどさ。死ぬときは絶対に思い出すよ。ああ、自分を覚えててほしくてたまんなかったおばあちゃんがいたなあって。そんで、名前呼ぶよ。何度だって呼んでやるよ。約束する」
好江が小さく首を横に振る。左右の手をぎゅっと握り締めるようにして、細い指に力を籠めている。
「信じられないわ」
静かに呟く。櫻は表情一つ変えず、好江を見つめ続けている。
「約束なんて、みんな破っちゃうじゃない。夫だってそうよ。私との出来事は何一つ絶対忘れないとか言ってたくせに、私のことすら忘れて。信じられない」
「でもさあ、俺言ったじゃん?」櫻が頬杖をついた手を外し、腕を組む。「俺、約束は破らないように生きてる、って」
微塵も揺れることのない瞳を、好江はぼんやりと眺める。
初めて会ったとき、櫻は好江のピアスを指差して言った。それ、俺じゃん。
そして二回目、また彼は言った。あ、また俺がいる。
たったそれだけだった。ただ、つけていたピアスを覚えていてくれただけ。
けれど好江にはそれがたまらなく嬉しかった。ここではどんなに着飾ろうとも、誰も目に留めない。好江さんは綺麗だと言う入居者たちも、好江が何を着て何を身に着けるかなんて微塵も関心はなかった。髪型やネイルの色を変えるたびに褒めてくれた夫もいなくなってしまった。
そんな中での櫻の言葉は、好江にとっては救い以外のなにものでもなかった。
そうか、もしかしたら。好江は思う。もしかしたら、櫻なら。
「分かったわ」好江が櫻の目から視線を逸らし、俯く。「信じる。だから、忘れないでね」
櫻が口を横に大きく広げ、にぃっと笑った。無愛想な仏頂面に、子供のような無邪気さが宿る。
「おー、期待しててよ。ぜってえ忘れねえから」
櫻がカップを手に持ち、乾杯、と掲げた。好江も苦笑しつつ、カップを掲げ乾杯と告げる。重ね合わせることのないまま、二人同時に口をつける。ちょうどいい熱さの紅茶が、芳醇な香りと共に喉の奥へと流れ込んでくる。
「それにさ、俺、元カノは忘れないタイプなんだよね」
「元カノ?」好江が首を傾げる。
「そ。俺、仕事中は相手のこと、まじで恋人だって思いながら接してっから。だからお客さんは、みんな今カノで元カノなわけ」
「ふふ、なあにそれ。プレイボーイねえ」
「あーでも、好江さんは俺のことタイプじゃないんだっけ?」
「あら。そんなことないわよ」
好江はカップを両手で包み込むようにして持ち上げる。そして、櫻の髪に目をやる。薄いピンク色が、窓から差し込む陽光に照らされて、きらきらと光っている。モノトーンな家具たちの中で、まるで異彩を放つように。
「私、ピンク色って大好きだもの」
好江は少女のように微笑むと、紅茶をゆっくりと口に含んだ。