第三話 最奥に棲む

 

 ああっ、すごいっ、すごいわ、きもちいいっ、またいっちゃうっ。

 櫻が腰を振るたび、緑が嬌声を上げる。櫻の背中に爪を立て、弓なりに仰け反りながら悶えよがっている。

 部屋の中は蒸し暑い。四月、今日はそれなりに気温の高い日で、それでもエアコンや扇風機の類は必要のないくらいのはずだった。けれどこの部屋には噎せ返るような空気が籠り、櫻はさっきから額の汗が緑の首筋や鎖骨を叩いているのが気にかかっていた。一方で緑は頓着する様子はなく、髪を振り乱し喘いでいる。

 昼の十二時。部屋には窓がなく、薄暗さが櫻の時間感覚を狂わせる。天井にぶら下がっている丸型の蛍光灯の、二本連なっているうちの外側が切れているからだけではない。じっとりとした粘り気のある暗い空気が、この場所を覆い続けている。

 それと同時に、えた匂いもどこからともなく漂っている。七畳ほどの小さな部屋の壁に沿って置かれた収納棚には埃がうっすら積もり、畳の上に敷かれた布団はどこか湿っている気がする。けれどその類とはまた違う、何かもっと、生き物の体温を感じるような匂い。たとえば、熟成された皮膚や肉体から発せられる、いかにも人間的な。

 そのとき、櫻の背筋をぞわりと何かが逆撫でた。

 誰かの視線だった。緑のものではない。緑は行為の間ほとんど目を瞑っているし、それに視線は組み敷いた下からではなく、背後から感じる。

 櫻の後ろには部屋があるようだった。襖で区切られていて、いつもぴったりと閉めきられている。きっとその奥には構造的に窓があるのだろうと想像はできるが、どんなに風通しが悪くても緑は一度も開けようとはしない。

 そこから視線を感じる。おそらく、匂いもそこから。誰かが、自分と緑の行為を覗いている。櫻はそんな気がしてならなかった。振り向くことはできない。緑がいつも望むのは正常位や後背位の体位で、まるで襖に背を向けさせようとしているようだ。気に留めると萎えてしまいそうになるので、集中しようと努める。けれどその視線と匂いはまるで櫻の全身を搦め捕るように流れてくる。気にしないようにしようとすればするほど、意識は背後に向かう。後ろを振り向きたい衝動を、櫻は必死で抑えていた。

 そのとき、アラームが鳴った。終了時刻を知らせる合図。緑が喘ぎ声をぴたりと止め、四肢を放り出した。櫻が体をどかすと、緑はその細い体を布団から這い出させる。

 これだけ暑い部屋の中、緑は汗一つかいていなかった。それどころか触れた場所はどこも冷たく、櫻の熱を吸い取るようだった。

 緑の体は細い。体は筋張り、骨は浮き出て、脂肪や贅肉の類はまったくと言っていいほどない。年相応にたるんだ皮膚は妙に柔らかく、白い肌に走るしみが目立っていた。吊り気味の目とつんと上を向いた鼻は彼女を強気そうに見せてはいるが、その実ほとんど自らを主張することはなく、櫻が彼女の嬌声以外の声を聞いたことは数えるほどしかない。

 緑はそそくさと服を着ていく。まるで自分の細さを隠すような、手首まで隠れた長袖のTシャツと、くるぶしまで隠れたズボン。そして布団の上で正座をし、深々と頭を下げる。

「今日もありがとうございました」

 低く小さな声。櫻が無言で頭を下げると、そのまま例の襖とは反対側のドアを開け、部屋を去っていく。

 櫻は背後を振り向いた。襖は隙間なくぴったりと閉められている。匂いの残滓は漂っているが、視線はもう感じない。

 この部屋は一体何に使っているのだろうかと櫻は想像する。矢田家は郊外にある平屋の一戸建てだ。古い造りの家で、床は歩くたびに軋み、おおよその戸は滑りが悪い。広さはある家だが、あらゆるところにがたがきている。

 家に入ると、玄関からまっすぐ長い廊下が続いている。それに沿うように左右に部屋が並んでいる。その廊下の行き止まりにあるのが、櫻が今いる部屋だ。つまりその奥にある襖の向こうの空間は、この家の最奥ということになる。

 そこには何かが棲んでいる。息を殺し、櫻と緑の行為を観察している。以前は獏とした気配しか感じ取れなかったが、先程の視線で櫻は確信した。きっと今までは耳をそばだてていただけだったその何かは、今日は襖を開け覗き見をしていた。

 櫻がどんなに襖を見つめていても、開く気配はもうしなかった。強烈な存在感も今は鳴りを潜めている。まるで、忽然と姿を消してしまったようだ。

 急に、こんこんとノックの音がした。櫻はついびくりと肩を震わせる。廊下に繋がるドアが叩かれたようだった。

「櫻さん、お疲れ様でした。よければ、お風呂お使いください」

 少々のんびりとした女性の声が聞こえてくる。緑の娘のゆかりだ。「ありがとうございます」と櫻はドア越しに返事をする。

 行為の途中でかいた汗は、部屋の暑さのせいもあってまだ引いていない。紫もそれを理解して、いつも風呂の準備をしてくれているようだった。布団の脇にくしゃりと放り投げられていた服を掴み、裸のままドアを開ける。紫の姿は既になく、代わりにタオルが畳まれて置かれていた。それを手に取り、再び襖の方を振り返った。やはり、今は何の気配もしない。自分がここから出て行った後、そこにいる何かは、ゆっくりと動き出したりするのだろうか。そんな想像をしながら、ドアを閉める。

 

 矢田家の浴室は決して清潔とは言えなかった。櫻が入る前に掃除してくれてはいるのだろうが、床はぬめり、壁の四角いタイルの隙間は黒黴にびっしりと覆われている。銀色の浴槽の底はところどころ黄土色に変色しており、この中に湯を張り浸かる気にはとてもなれない。それでも、汗を流せるだけましだった。

 シャワーを浴び体を拭き、服を着て浴室を出る。隣は先程まで櫻がいた部屋だ。気持ち足早にそこを去り、廊下を通る。玄関から一番近い部屋は居間になっており、櫻の荷物はそこに置かれていた。引き戸は開け放たれたままになっていて、中の様子を窺う。奥の台所で、洗い物をしている誰かの後ろ姿が見えた。

「お風呂、ありがとうございました」

 声をかける。振り向いて顔を覗かせたのは紫だった。水を止め、エプロンで手を拭きながら櫻の方へとやってくる。

「お疲れ様でした。今、タクシーを呼びます。よければ座ってお待ちください」

「ありがとうございます」

 櫻は小さく会釈をすると、座布団の上に腰を下ろす。外の庭に面した窓が大きく開け放たれていて、日射しは燦々と降り注いでいるが微風は涼しい。

 緑の姿はどこにもない。いくつかの部屋の中のいずれかにいるのだろうか、行為のとき以外、彼女は櫻の前に現れようとはしなかった。

 しばらくして、紫が盆を持ってやってくる。急須と湯呑を卓袱台に置き、注いで櫻の前に差し出す。櫻は小さく礼を言い、口をつける。熱さで舌先まで浸すのが精一杯で、すぐに台の上に戻す。

「よければこれもどうぞ」

 ヘタが綺麗に切り取られた苺の入った透明の器が、ことりと音を立てて置かれる。真っ赤で大きな粒の果実が、縁から零れんばかりに盛られている。

「ありがとうございます。いただきます」

 一粒摘まみ、口に放り込む。奥歯で噛むと果汁が溢れ、甘味とわずかな酸味が舌の上に広がる。紫の出してくる苺は、いつも瑞々しく甘い。紫が櫻の向かいに腰を下ろした。何か話しかけるわけでもなく、窓の外をじっと見ている。

 緑によく似た顔立ちだ。特につんと上を向いた鼻は、まるっきり同じ形をしている。紫の方が幾分かふくよかな印象だが、それでも黒いワンピースの袖から覗く手首はやたら細い。こんなに暑いのにもかかわらず、長袖を頑なに捲らないのも、母親と似ている。

「今日は、とても暑いですね」

 ゆるりとした、けれど一文字一文字をはっきりと発音するような喋り方で、紫が言葉を発する。

「そうですね。四月とは思えないくらいで」

「今からこんなに暑くなっていたら、七月八月が怖いですね」

 紫は毎度、苺を頬張り茶を啜る櫻の向かいに座っては、庭を見ながら益体もない話題を時折投げかけてくる。紫は会話を楽しもうとしているわけではなく、だからといって沈黙を恐れ場を繋ごうとしているわけでもなく、ただ言葉が頭の中に思い浮かび、たまたま目の前に櫻がいたからそれをぶつける、そんな話し方をいつもしてくる。櫻はそれに対し、いつも言葉少なに返す。

 矢田家の庭には大きな木が一本立っている。太陽の光を枝葉の形で遮り、地面に影を落としている。風が吹くと、影も同時にゆらゆらと揺れる。苺を頬張りながらその様子を眺めていると、唐突にジジジ、と無機質な音が響いてきた。

「蝉」紫が呟く。

「蝉ですね」櫻が返す。

「四月に蝉が鳴くなんて。やっぱり暑さのせいでしょうか」

 紫はあまり櫻と目を合わせようとしない。対面するときも視線は喉元の辺りに注がれ、今も顔は庭の方ばかりに向いている。

「かわいそう」

 小さな声で紫が言った。蝉の声に掻き消されそうなほどの囁きだった。

「かわいそう、ですか」

「はい。そう思いませんか。きっともうみんながいる季節なのだと勘違いして、羽化してしまったんです。でも、実際土から出てきてみると、周りには誰もいない。誰かいないの、一緒にいようよ、と叫んでも、誰もいないから、誰にも届かない。そんなふうに考えると、あの鳴き声もなんだかせつなく感じてきませんか」

 誰もいないの、一緒にいようよ、の部分を、妙に芝居ががった言い回しで口にする。淡々とした口調の中で、そこだけが妙に浮いていた。

 一陣、風が吹いた。カーテンが翻り、櫻の揃えた前髪が揺れた。桃色の隙間から紫の顔が見える。彼女はどこかアンバランスな顔立ちをしていた。目の隈や深い法令線は紫を老けさせて見せ、けれど短く切り揃えられた髪や長い手足は少年のようでもある。一方表情はほとんど変わることはなく、若い男を毎週呼んでは体を重ねる母親のことを、どう感じているのか全く読み取れない。

「あの」櫻が声をかける。「一つ、お尋ねしたいことがありまして」

 紫が、ゆっくりと櫻の方を向いた。一瞬目が合って、けれどやはりすぐに、視線は首元の辺りまで落ちる。

「はい。なんでしょうか」

「僕が、いつもお邪魔している部屋は、何の部屋なんでしょうか?」

「あそこは、母の部屋です」

「そうなんですね。では、その奥は何の部屋ですか? 襖で仕切られた向こうの部屋です」

「ただの物置ですよ。埃っぽいので開けないでくださいね」

「そうなんですか。なんだかいつも、人の気配がするもので」

 紫が黒目をゆっくりと動かし、櫻の目を見た。一重で三白眼気味の瞳が、櫻をじっと捉える。

「幽霊かしら。怖いですね」

 ぴくりとも表情を変えず、冗談めいたことを吐く。そしてまた首を動かし、窓の方を向く。

「そういう類ではない気がするんです。なんだか、緑さんと僕の行為を、じいっと見つめている誰かがいる気がするんです」

「気のせいだと思いますよ」

 蝉が喧しく鳴く。その中でも、決して大きな声ではないが紫の言葉ははっきりと耳に入ってくる。有無を言わさぬ響きだった。それ以上踏み込んでくるなと言わんばかりの強さがあり、櫻はつい口を噤む。

 窓の外から、ざりざり、と音がした。タイヤが砂利道を擦る音だった。どうやら、呼んでいたタクシーが到着したらしい。

「タクシー、来ましたよ」

 紫が腰を浮かせる。後に続くように、櫻も立ち上がった。二つだけ残った苺を見つめながら、「ご馳走様でした」と礼を言う。

「今日もありがとうございました」

 紫が深々と頭を下げた。つむじの辺りには、白い毛が密集していた。

 蝉はまだ騒がしく自分の存在を主張している。

 

(つづく)