第三話 最奥に棲む
翌週もやはり同じように、昼十二時からの予約が緑から入った。いつものように紫に部屋へと案内され、いつものように緑と体を重ねる。
けれどいつもと違うことがひとつだけある。櫻が、襖の奥に棲むものの正体を知ったということ。緑を貫き、緑の嬌声を耳にしながら、櫻の意識はいつにも増して背後へと向かっていた。
ふと、鼻腔を妙な匂いが通っていく。長い年月をかけて蓄積し熟しきった匂い。皮脂や垢、汗や糞尿、人間が排出するありとあらゆるものが混じったような匂い。櫻の頭の中で、その臭気と、ベッドに横たわる老年の男の姿が結びつき像を作っていく。
次に襲い掛かってくるのは、視線。櫻の背後では、おそらく襖が少し開いている。その隙間から彼は覗き込んでいる。一体、どんな思いで彼は妻の行為を見ているのだろうか、と櫻は考える。
ああっ、すごいっ。すごくおおきいっ。そんな言葉を声高に叫ぶ緑の声の間から、息遣いが聞こえてくる。ふう、ふう、と荒く息を吐き、吸い、吐く音。時折挟まれてくるしゅるる、という空気を抜けるような音は、食い縛った歯から漏れる息の音だろう。
小さく呻く声も櫻の耳の奥へと流れ込んでくる。ううい、とも、いいあ、とも聞こえる声。何と言っているんだろう、何を伝えようとしているのだろう。怒りなのか、怨嗟なのか。耳を聳てているうち、櫻は気づく。彼が、みどり、みどり、と妻の名を呼ぼうとしているということに。
ぞわ、と櫻の全身に鳥肌が立った。櫻が裸の尻を向けた、わずか数十センチ先。うまく動かない半身と舌を持て余した老爺が、妻の名を藻掻くように呼びながら、じっと見つめ聞き耳を立てている。その事実は、櫻の全身を凍り付かせるのに充分だった。
動きが鈍くなった櫻に頓着することなく、緑は身悶え続けている。櫻の中に芽生えた恐怖心の隣で、好奇心も膨らんでいく。一体どんな目で、口で、自分たちの行為を見つめているのか知りたくなる。
櫻は緑を組み伏せたまま、ゆっくりと後ろを振り向く。体は完全に捻ることはできず、けれど先程までぴったりと閉まっていたはずの襖に、隙間が生まれているのが見えた。
そして、その中にいた。脂ぎった額。薄い眉。ぎょろりとした目。その下の大きないぼ。横に広がった大きな鼻。薄い唇に挟まれた、ところどころ隙間のある黄色い歯。襖の黒い枠にべったりと顔をくっつけるようにして、櫻と緑の結合した下半身を睨みつけていた。顔の位置は低い。おそらく這い蹲るようにして、畳に伏せているのだろう。
櫻は声が漏れそうになるのをどうにか堪える。小さな黒目が、ゆっくりと上がってきた。櫻と目が合う。血走った隻眼は、煮え滾るような熱を孕んでいた。
「み、緑さん」
遂に櫻は、声をかけてしまった。けれど名を呼ばれたはずの緑は、応えることなくただ喘ぎ続けている。襖の奥の男は、身動ぎもせず櫻を睨みつける。
「緑さん!」
櫻がもう一度名を呼ぶのと、アラームが鳴ったのはほぼ同時だった。ぴしゃり、と襖が閉じられる。
同時に、ぴたりと緑の声も止まる。まるで何事もなかったかのように服を着て、櫻に礼を言い、部屋を去っていく。
櫻の背はぐっしょりと汗で濡れていた。けれどそれは、この部屋の湿度や暑さのせいだけではないことは、櫻にもよく分かっていた。閉じられた襖は、開く様子はもうない。
櫻は大きく息を吸った。意を決し、口を開く。
「あの、すみません」
襖の奥に声をかける。返事はない。
「すみません」
先程よりもはっきりと呼びかけるが、呻き声ひとつ聞こえない。
一体声をかけてその先、どうするつもりなのだろうかと櫻は自問する。緑の夫が自分に敵意や悪意を持っていることは明らかだ。そんな相手と対話したところで、良くない結果になることは目に見えている。それでも櫻が元来持っている猫のような好奇心は、自らを危機に晒しかねなかったとしても溢れて抑えきれない。
「櫻さん」
ドアの向こうから声がした。紫だ。びく、と櫻の肩が震える。
「何なさってるんですか?」
「あ、いえ、べつに……」
「お風呂の準備が整いましたので。どうぞ」
それだけ告げ、去っていく足音が聞こえる。櫻は立ち上がると、襖を一瞥し、部屋を出て行った。
櫻が風呂から上がり、居間へ顔を出すと、そこには紫の姿はなかった。いつものように窓は大きく開け放たれているが、外は大雨になっていた。先程まで快晴だったのが嘘のようだ。窓の外を覗き込むと、紫が慌てて洗濯物を取り込んでいる姿が見えた。シーツなどの大物も多いようで、まごついている。
櫻は玄関へ向かい靴を履くと、慌てて紫の元へ駆け寄る。豪雨が地面を叩きつける中、ハンガーに掛かった服を手元へ手繰り寄せる。ぬかるんだ地面に足を取られないよう家へと駆け、服やシーツを部屋の中へと放り込んでいく。
全ての洗濯物を取り込み終え、二人は縁側から家へと上がる。二人とも、雨で髪と服がぐっしょりと濡れていた。
「すみません、櫻さん。助かりました」
額に張りつく前髪を中指で掻き分け、紫が頭を下げる。
「お風呂入ったばかりなのに、また濡れてしまいましたね。タオル持ってくるので、そのままお待ちください」
紫は外に向かってスカートの裾を少し出し、両手でぎゅっと絞る。指の隙間から水が滴りいくつも線を作り落ちていく。ある程度服から水気を切ったところで、紫は小走りで居間を出て行った。
櫻は窓の外を見つめる。灰色の空から大粒の雨が降り注いでいる。ざあざあという音が静寂を掻き乱し、水捌けの悪い地面には小さな川が生まれ泥水を流している。櫻はシャツを脱ぐと、両端を持って絞った。水が落ちて川の一部になる。
「あっ」
背後から小さな声がした。振り向くと、紫がタオルを持って立っていた。櫻から目を逸らし立ち竦んでいる。
「あ、ごめんなさい、こんな格好で」
櫻は慌てて濡れたシャツを着ようとする。だが「いえ、お気になさらないでください」と紫が遮る。
「濡れた服を着ていると風邪を引いてしまいますから、どうぞそのままで。これ、お使いください」
手渡してきたタオルを、ありがとうございますと櫻が受け取る。
「服、お貸しできればいいんですけど。父のものはほとんど寝巻ばかりで、それも病人のものですから、あまり心地好くないかなと」
「ああ、いえ、大丈夫ですよ。鞄には着替えもありますから」
「そうなんですか。お着替えされてきますか?」
「いえ。体が乾くまでは、このままで」
そうですか、と小さく答えると、洗濯物を挟んで櫻の隣に腰を下ろす。洋服やシーツはぐっしょりと濡れていて、もう一度洗濯をしなければならなさそうだ。紫が豪雨の風景を見つめ、髪をタオルで拭きながら問いかけてきた。
「櫻さんはお仕事柄、やはり人前で裸になることに抵抗はないんですね?」
その言葉に、思わず櫻は自らの裸を見下ろす。体を拭いていたタオルを首にかけ、先を広げてなるべく裸体が紫の目に触れないようにする。
「そんなことはないですよ。いつも裸になるのは気恥ずかしいですし、全く知らない方と行為をすることにはなかなか慣れません」
「そういうものですか」
頭を拭いていたタオルを床に置き、そのまま濡れた木の目の板を拭き始めた。着替えを薦めておきながら、紫は自分が服を替える気はなさそうだった。
「でも、私もお気持ち、少し分かるかもしれません。痛いのも、つらいのも、恥ずかしいのも、いつまで経っても慣れません。きっといつか慣れる、だから大丈夫だと自分に言い聞かせ続けて、でも本当に慣れるときなんて来ないんです。感情が麻痺したふりで、もうなんともないなんて思っていても、急に首を絞められたみたいに苦しくなる瞬間が来たりするんです」
ひたすらに床を見つめ続ける紫の瞳は、伏せた睫毛に覆われてよく見えない。けれど彼女の中に、暴君の父との日々が思い浮かばれているのは櫻には容易に想像できた。
「今日」
櫻は言いかけて、言葉を止める。話すべきだろうかと逡巡する。が、もう一度口を開く。
「今日、お父さんと目が合いました」
紫の床を拭く手が止まった。顔を上げようとはせず、そのままタオルを持ち上げ、ゆっくりと膝に乗せる。グレーのタオルは水を吸ってところどころ変色していた。
「緑さんは、僕との行為をわざとお父さんに見せているんですよね。どうしてそんなことをしているんですか?」
「さあ。私には分かりません」
紫は小さく首を傾げた。濡れそぼり束になった髪が、ふらりと揺れる。
「前にも申し上げました通り、娘の私にも、母の考えていることはよく分からないんです」
嘘をついている様子はなかった。きっと紫は緑の考えていることが、本当に分からないのだろう。分からないまま、若い男を金で買い家に呼びつける母親を受け入れている。その行為を父親に見せつけていることも。そして、そのことに抵抗や嫌悪を覚えるふうでもない。
「復讐、とかでしょうか」
「復讐」紫が櫻の言葉をぽつりと鸚鵡返しする。
「緑さんは、お父さんにずっと虐げられ続けてきたんですよね。その復讐として、自分の妻と他の男との性行為を見せつけてるのではないかなと思いまして」
「なるほど。復讐」
紫の指がタオルの端を畳み三角を作り、また元に戻す、を繰り返している。視線はぼうっと窓の外に向けられている。雨脚は先程よりは弱まったものの、未だ止む気配はない。
「確かに、父はつらいかもしれませんね。七十を越えても父は、まだ性欲に支配されていますから。母のあんな姿を見るのは苦痛で仕方ないかもしれません」
「それは……今のように半身不随になっていてもですか」
「そうですよ。櫻さんは、あの時間、父が襖の奥で何をしているかご存知ですか」
あの時間、というのは、櫻と緑が交わっているときのことだろう。櫻は首を横に振る。
「あの人ね、自慰をしているんですよ」
じい、という言葉が、自らを慰めると書くのだと気付くのに、櫻は少し時間を要してしまった。唐突な告白に、思わず声を失う。
「襖の隙間から母とあなたの行為を覗きながら、自慰をしているんです。手がうまく使えないので、陰茎を畳に擦りつけ、刺激しているんですよ」
櫻の脳裏に、先程の男の顔が蘇る。血走った目、食い縛った歯、荒い吐息。櫻にとって自慰行為は当然身近なものではあったが、まさか自分を対象に、それも自分のすぐ近くでそれが行われているなど、想像もしたことがなかった。ぞわぞわ、と全身に鳥肌が立つ。もちろん、雨に濡れた体が冷えたからではない。
「で、ですが……どうしてそれを、紫さんはご存知なんですか」
「分かりますよ。おむつを替えるときに、べっとりとついているんです。白く濁った液体が、べっとりと」
紫は淡々と告げる。その声には嫌悪すら滲んでいない。
櫻はふいに、この矢田紫という女が空恐ろしくなる。夫に性行為を見せつける妻も、それを覗き見ながら自慰行為をする夫も、間違いなく異常だ。けれどこの家で最も異常なのは彼女ではないだろうか。両親の行動を受け入れ、それどころか間男にお茶と苺を出し雑談をしている。本来ならば、櫻も嫌悪される対象であるはずなのに。
「なんだか、妙な話ばかりしてしまい申し訳ありません。櫻さんにはわざわざお越しいただいているのに」
紫が深々と頭を下げた。髪が濡れているせいで、白髪がいつもより余計に目立つ。
「そんな、謝らないでください。訊いたのは僕の方ですから」
「そういえば、そうでしたね」紫がゆっくりと頭を上げる。「櫻さんが、母にそんなに興味を持つとは思わなかったです。こういった職業の方って、なんというか、もっと淡々となさっているのかなと思っていたものですから」
「確かに、そういった傾向はあります。僕の働いている銀楼館でも、客に深入りしないようにしているスタッフが多いです。でも」
ぽた、と水滴が櫻の腕に垂れてきた。まだ水気を保っていた髪が、雫を吐き出したらしい。櫻は首に掛けていたタオルでわしわしと髪を拭く。
「でも、僕はなるべくお客さんのことを知りたいんです。僕にとって、お客さんはみんな、恋人ですから」
「恋人?」
紫が怪訝そうな視線を櫻に向けた。
「はい。僕のモットーなんです。仕事中は相手のことを、恋人だと思って接する。だから相手のことをなるべく知りたいし、望みに沿いたいと思っているんです」
ゆっくりと語る櫻を、紫はただじっと見つめていた。だがだんだんと眉根が寄り小鼻が膨らみ、唇が歪な形を作っていく。
「ふっ」
紫の口元から、空気の漏れる音がする。
「あはは! あはははははは!」
紫が唐突に哄笑し始める。タオル越しに腹に手を当て、文字通り抱腹絶倒の有様だ。笑いが止まらない様子の紫を、櫻は唖然と見つめる。
「ご、ごめんなさい……ふふっ。あまりにも、おかしくて、つい」
「僕……そんなおかしいこと、言いましたか?」
「はい。なんていうか、櫻さんって、おめでたい方なんだなあって」
紫は涙まで流している様子で、タオルの端で目の端を拭いている。櫻は自らの言葉を嘲られた怒りよりも、今まで無表情無感情を貫いてきた彼女の、突然の呵々大笑にただ呆気に取られることしかできなかった。
「櫻さんの中で恋人って、きっと幸せな関係なんでしょうね。街の中を二人で手を繋いで歩く。夜景の見えるような素敵なレストランで笑いながら食事をする。恋人という言葉を聞いて、そんな風景を思い浮かばれるんでしょうね」
さっきまでの笑いが嘘のように、紫はいつの間にかいつもの無表情に戻っていた。光の見えない瞳が、じっと櫻を捉えている。
「私は違います。私が恋人と聞いて思い浮かべるのは、女性が男性に殴られたり、口汚く罵られたりする姿です。家族だって、きっとみんな思い浮かべるのは、父親と母親、二人の子供がいて、遊園地や動物園に行ったり、家で騒がしくしながらも楽しく過ごす、そんな光景なんだと思います。私は違います。父親の怒声と罵声が響き、硬く握り締められた拳が唐突に降ってきて、母親と娘はただひたすらに耐え抜く。そんな光景です。私にとってはこれが普通で、日常なんです」
淡々と語る紫に、櫻は何も言えなかった。彼女の様子には卑屈さはなく、ただ世間と自らの乖離を寂しがっているように見えた。
「それに、櫻さんは母のことを知りたいって仰ってますけど……逆に、母に全てを知られる覚悟はあるんですか?」
「か、覚悟、ですか」
「はい。私には櫻さんという人は、紳士的で口数がそれほど多くない、物静かで丁寧な方という印象を抱いています。でも、本当に櫻さんは、そういう人なんでしょうか。私には、ただそんなふうに装っているように見えます」
紫は櫻をじっと見つめる。櫻も見つめ返す。そのまま、沈黙の時間が流れた。雨の勢いはだいぶ弱まり、豪雨の残滓のような水滴が泥だらけの地面を緩やかに叩いていた。
櫻が、ふっ、と小さく笑った。
「そうですね。確かに、僕は装うことが得意なのかもしれません」
でも、と櫻は続ける。
「月並みな表現かもしれませんが、どういう装いだとしても、僕であることには変わらないです。どんな態度も格好も言葉遣いも、僕の一部であることに間違いはありませんから」
「……そうですか」
紫は急に興味を失くしたように、櫻から顔を逸らし窓の外へと向ける。雨の降りしきる荒天の中、紫の横顔が浮かぶ。いつも前髪で隠れている額は今日は剥き出しで、左眉の数センチ上に小さな傷があるのが見えた。
「蝉」
雨音に掻き消されそうなほどの小さな声で、紫が呟く。「はい?」と櫻が訊き返す。
「あの蝉、雨で流されちゃったかしら。昨日まではね、元気に鳴いていたんです。蝉ってね、意外と長生きするんですって。一週間以上は普通に生きるらしいんですよ。だから、もしかしたら仲間が見つかるかもって、思ってたんですけど」
紫の言葉は、軒下から垂れる雨垂れと似たようなリズムで、ぽつぽつと緩慢に吐き出されていた。櫻もつられて、窓の外に目をやる。雨はまだ、やみそうにもなかった。