第五話 姦しい葬式

 

 櫻は吉乃を見上げる。黒く染めた髪を後ろに一つでまとめ、上品そうな笑みを浮かべ櫻を見つめ返している。瞬きもせず、みじろぎもせず。櫻は吉乃に近づき、手を合わせ一礼した。そしてもう一度、吉乃を見上げる。先程と全く変わらない表情が、黒く太い縁取りの中に映っていた。

 焼香を済ませると、遺族席に向かって一礼をする。パイプ椅子に並んで座っている四人が、一体吉乃とどんな続柄なのか櫻には分からない。四十代くらいの男女が二人ずつ。吉乃の子供とその配偶者だろうかと想像する。一人は忙しなさそうにスマートフォンで何かを打っており、一人は櫻の派手な髪色に露骨に目を丸くしていた。残りの二人は、恭しく礼を返す。

 自分の桜色に染めた髪が、この場に相応しくないのは櫻自身もよく分かっていた。黒ばかりで誂えられた中で、あまり良くない意味で目立ってしまうのは承知の上だった。でもきっと、この髪色のままでいた方が、吉乃だって喜んでくれる。故人の代弁など愚の骨頂だと自嘲しながらも、櫻は心の中でそう言い訳した。

 弔問者の席に着こうと通路を歩いていると、ふと強い視線を感じた。その方へ顔を向ける。三人の老女が、櫻の方を見ながら何やらひそひそと話していた。

 一人はふくよかな体つきをしていて、黒いワンピースに贅肉をみっちりと詰まらせている。ソーセージのような指で口元を隠し、顎の肉を揺らしながら話している。

 一人は随分と派手な装いをしていた。化粧は濃く、大粒の真珠のネックレスを首から下げ、濃いブルーのイヤリングと指輪が目を惹く。

 一人は強い印象を与えてくる二人に比べ、どこか地味だった。ぶ厚い眼鏡と化粧っ気のない顔のせいかもしれない。けれど背筋はぴんと伸び、脚も綺麗に揃えている。

 こちらを見てくる三人に、櫻はにこりと笑みを返した。三人が同時に、息を呑むのが伝わってくる。

 太った女性は慌てたように視線を泳がせ、派手な女性は訝しむように睨み、地味な女性は頬に手を当てうっとりと目を細めた。三者三様の反応を楽しみながら、櫻は席に着いた。

 

 弔問客の焼香や喪主の挨拶を終え、通夜振る舞いの時間となった。櫻は座敷の席の隅の方で、ちびちびとビールを飲みながら寿司を口に運ぶ。八十を超えた老人の通夜で、櫻のように若く派手な青年はやはりどうしても目立ってしまうらしく、先程から痛いほど視線を感じる。一体どんな関係なのだろうかと怪訝に思われているのだろう。なるべく早めにこの場を去った方がいいかもしれない。ビールを流し込むペースを、少し早めたときだった。

「ねえ。ちょっといいかしら」

 声をかけられた。顔を上げる。そこにいたのは、先程櫻を見ていた三人の老女たちだった。三人とも、溢れ出る好奇心を隠しもせずに顔面に張り付けている。

 この内の誰が声をかけてきたんだろうかと想像しつつ、櫻はにっこりと微笑み返す。

「はい。どうかされましたか?」

 三人が同時に、意表を衝かれたような表情を浮かべる。まるで人形が喋り始めたかのような大仰な反応だ。太った女性が、ずいと更に体を櫻へと寄せてくる。

「あなたね、吉乃さんとどういう関係なの」

 よく通る声だ。一文字一文字をはっきり口にするような喋り方で、真っ赤に塗られた唇は鯉が餌を求めるが如く大きく開閉している。動作も大きく、彼女が動くたびに後ろで一つにまとめたパーマのかかった髪が跳ね回る。

「ごめんなさいね、こんなこと不躾に尋ねたりして。でもね、はっきり言ってみんな気になってるんですよ。あなたみたいな若くて派手な子が、吉乃さんとどういう関係にあるのか、全然説明がつかないんですもの」

 ぺらぺらと早口でまくし立ててきたのは、派手な装いの女性だった。けれど動くのは口だけで、他は固まったままだ。烏の羽のような睫毛の下の大きな目を、見開いたまま櫻をじいっと見つめている。

「それにしても、あなた、綺麗なお顔立ちねえ。お人形さんみたい。肌もつやつやで羨ましいわあ。毛穴もちっともないじゃない。いいわねえ、若いって」

 詰め寄ってくる二人とは対照的に、地味な格好の女性はおっとりと鷹揚な様子だ。眼鏡の奥の細い目を、更に柔和に細めている。話しながら常に腕がゆらゆらと揺れる様は、まるで猫の尻尾だ。

 櫻は三人の顔をゆっくりと見比べたのち、一拍置いて口を開いた。

「僕は、吉乃さんの恋人です」

 三人が、目を丸くする。そして一斉に喋り出した。

「ほらあ、やっぱりわたしの言う通り。絶対恋人だと思ったのよお」

「何言ってるのよ、あなた、愛人って言ってたじゃない。愛人と恋人は全然違うんだからね」

「恋人だろうが愛人だろうが、こんな若い子と吉乃がお付き合いしているだなんて、あたしは信じられません。吉乃は貞淑を絵に描いたような方だったんですよ。この方が勝手に仰ってるだけじゃないかしら」

「吉乃さんって、貞淑っていうのかしらねえ。わたしはどっちかと言うと、さすが吉乃さんやるわねえ、って感じだったけれど」

「そうね。よっちゃんはパワフルな人だったからね、私は若い子と付き合ってたって聞いてもそんなに驚かないわね」

 櫻を蚊帳の外にして、三人が喧々諤々と言葉を交わす。櫻は圧倒されながらも、「あの、すみません」と口を挟む。

「みなさんは、吉乃さんとお友達だったんですか?」

 三人がぴたりと唇の動きを止め、それぞれの顔を見比べる。どう答えていいのか考えあぐねているように見えた。太った女性が、おずおずと頷く。

「そう、そうよ。友達。友達よ」

 ええ、そうね、友達。私も友達よ。残りの二人が追随する。

 そこでようやく、櫻たちは自らの名を名乗り合う。太った女性は藤子、派手な女性は紅子、地味な女性は八重子といった。三人は旧知の仲というわけではないらしい。それぞれが吉乃の知人であり、この葬式で知り合い意気投合したそうだ。

「でもね、なんだか私の知ってるよっちゃんと、お二人が話すよっちゃんが、どうしても結びつかないのよね」

 藤子が指で自分の頬を叩きながら、首を傾げる。

「結びつかないっていうのは?」櫻が問う。

「なんだか別の人の話をしてるみたいなのよね。私の知ってるよっちゃんはね、すっごいパワフルで元気な人だったの。明るくてリーダーシップが取れるような人。でも、二人は違うのよね」

「ぜーんぜん違います」

 紅子が唇を尖らせ、肩を竦める。

「あたしの知ってる吉乃は、すごく物静かで陰のある子でしたよ。小さく笑う癖があってね、なんだか守ってあげたいって感じなんですよ。だからあたしも妹みたいに可愛がっていたところはありました」

「まあねえ、確かに騒いだりするタイプじゃなかったけど、でも守ってあげたいって感じでもなかったわねえ」

 八重子が眼鏡の奥の眉を顰め、こめかみを押さえる。

「なんていうか、気高い女王様、っていうか。この世の人たちはみんな自分のしもべ、みたいに思っててもおかしくないって顔してたわ。でもね、嫌な感じじゃないのよお。わたしなんかは、むしろ吉乃さんになんだか憧れちゃってたわねえ」

「確かに、結構バラバラですね」

 黙って相槌を打ち話を聞いていた櫻が、そこでようやく口を挟む。「でしょう!?」と三人が一斉に詰め寄る。

「でも、相手によって態度や言動を変えるのは、それなりによくあることじゃないでしょうか」

「にしてもよ、にしても!」藤子が顎の肉を揺らしながら叫ぶ。「それにしたって違い過ぎよね! まるで違う人の話をしてるみたい」

「本当に。カメレオンみたいですわ」

「カメレオンっていうか、ぬえって感じじゃなあい?」

「鵺? 鵺って何?」

「あら、ご存じない? 猿の顔をして、手足は虎で、尻尾は蛇で……っていう生き物なのよお。でねえ、見た人にどんな生き物だったかって訊くと、色んな答えが返ってくるのよ。あれは猿だった、いや虎だ、違う蛇だ……って。見る角度によってそれぞれ違う姿が現れる。まるで今の吉乃さんみたいじゃなあい?」

「なあにそれ、すごい不気味ね。結局何なの? 猿なの虎なの?」

「だからね、違うのよお。鵺なの、鵺。猿でも虎でもないの」

「実際にいる生き物ってことなんですか? その、鵺っていうのは」

「それは、どうなんでしょうねえ。ほら、幽霊とか宇宙人って、絶対いませんなんて言えないじゃない? それと同じよお」

「あら、宇宙人なんているわけないわよね。幽霊ならともかく」

「やだ藤子さん、幽霊信じてらっしゃるの?」

「ええ、それはもちろん。だからこそこういうお葬式とかお通夜とか、お盆とかっていう行事があるんでしょう?」

「嫌ですわ、あんなの残された人たちが勝手にやってるだけですよ。死んだら人間はおしまい、それで終わりです」

「あらあ、なんだかずいぶんと寂しい考え方だわあ」

「そうよね、ちょっとそれは寂しすぎるわよね。もしよっちゃんが幽霊としてここにいたら、きっと悲しんでるわよ」

「どうかしら。案外、こうやって吉乃のことを話してるあたしたちを見て、くすくす笑ってるかもしれませんわよ」

「それなら、みなさん」

 話題から大いに逸れ、そしてぐるりと一周しようやく本題に戻ってきたところで、櫻は切り出した。

「よかったら僕たちで、吉乃さんの思い出話をしませんか」

「思い出話?」藤子が細い眉を上げる。

「そうです。通夜って、本来そういうものでしょう。故人の思い出を、みんなで語る場所。それにそれぞれの思い出を披露し合ったら、もしかしたら吉乃さんという人が見えてくるかもしれませんよ」

 櫻の言葉に、三人は顔を見合わせる。

「まあ、確かに一理ありますわね」紅子がゆっくりと首肯を繰り返す。

「そうねえ、わたしも確かに、みなさんの思い出気になるわあ」八重子がにっこりと柔らかい笑みを浮かべた。

「そういうことなら、まず私から、お話しさせていただきましょうかね」

 先陣を切ったのは藤子だった。どこか緊張したような面持ちで、正座をした脚を整え、口を開いた。

 

 私がよっちゃんと知り合ったのは、コーラス会でだったの。老人向けのね、合唱サークルみたいな感じ。

 よっちゃんはね、そこの中心的存在だったわね。サークルに入ったばかりで不安だった私に、たくさん声をかけてくれたの。

「藤子さん、どう? ここには慣れてきた? 困ったことがあったら何でも言ってね!」

「藤子さんって歌上手いのねえ! 私びっくりしちゃったわ」

 そんな感じでね。すごく気さくで明るい人でね、私たち、あっという間に仲良くなっちゃったのよね。よっちゃん、藤ちゃんって呼び合う仲になってたわ。

 よっちゃんは私のことをよく歌が上手いって褒めてくれてたけど、とんでもない。よっちゃんの方がものすごく上手かった。パワフルで、でも綺麗な歌声で。元気で美人なよっちゃんそのものの歌って感じで私は大好きだったわ。合唱のときは周りに合わせてたけど、ソロのときなんてすごい迫力だったのよ。

 だからね、思わず私言っちゃったの。よっちゃん、歌手になればよかったのにーって。そしたらよっちゃん、ちょっと困った顔して言ったの。

「実は、私、昔歌手だったのよね」

 私、驚いちゃって。だけど、すぐ納得したわ。だってそれくらいよっちゃん、すごかったのよ。

「えーっ、やっぱりそうなのね! すごいわ、さすがよっちゃんよ! 本名でやってたの? 全然分からなかったわあ」

 私ね、今はこんなんなっちゃったんだけど、昔は結構可愛かったから、芸能界に憧れがあったのよ。きらきらして、みんな素敵で、あんな世界に入れたらいいなあって思ってた。

 だから、ついついテンション上がってそう言っちゃったんだけど、よっちゃんたら、なんだか沈んだ顔で。あれっ、私まずいこと言っちゃったかしら、って焦っちゃったわ。いつも元気なよっちゃんの、そんな顔見たことなかったんだもの。どうしようどうしようってあわあわしてたら、よっちゃんが笑って私の腕を叩いたわ。

「やあだ、そんな慌てないで。ちょっと色々思い出しちゃっただけ、ごめんね!」

 私、よっちゃんのそういうところに何度も救われてきたのよね。場の空気が悪くなりそうなのを、笑顔でからっと雰囲気変えちゃうところ。やっぱり素敵な人だわって改めて思ったの。

「ねえねえ、藤ちゃん。良かったら、思い出しちゃったついでに、私の昔話聞いてもらえる?」

「それは、もちろんよ。でも私が聞いちゃってもいいの?」

「あたりまえ! 藤ちゃんだから聞いてほしいのよ」

 そう言って、よっちゃんは昔話をし始めたわ。

「私、小さい頃からね、歌うことが好きだったの。何をしてもダメダメな子だったけど、歌うことだけは得意だったわ」

「あら、そんなことないわよ! よっちゃんにはいいところ他にもいっぱいあるわ」

「ふふ、ありがと。そうねえ、あの頃と比べたらちょっとは成長できてるかもしれないわ。でも当時は本当にそんな感じだったのよ。うちはね、すっごい貧乏で。何日も同じ服を着させられたりなんてざらだった。ご飯もろくに食べてないからガリガリで。人間ねえ、ご飯はやっぱり食べないと駄目よ。常に気分がどんよりと沈んだ感じで、それでいて体だって臭うものだから、周りからいじめに遭ってたわ」

 今の明るくて朗らかなよっちゃんからは考えられなかった。でも嫌な頃を思い出してるよっちゃんの表情はやっぱりどこか暗くて、本当につらい子供時代だったんだなあって。

「そんな中でね、私の娯楽って歌だけだったのよ。ほら、歌って、お金かからないじゃない。街中で流れてくる曲を覚えて、家で一人で歌ってたわ。そのときだけはとっても幸せだった。貧乏なこともいじめられてたことも、歌ってるときは忘れられるような気がしたのよ」

 だからなのね、って思ったわ。私も歌は好きだけど、でもよっちゃんの好きとは、全然違うのよ。よっちゃんの好きは、もうこれしかないっていう好きで、なんていうか、命懸けって感じがしたの。

「それでね、いつしか私、歌手になることを夢見るようになったのよ。歌が好き、歌で生きていきたいって。ある日、歌謡コンクールに出演したの。藤ちゃん知ってる? 歌謡コンクール」

「あの、昔テレビでやってたようなやつ? 素人さんが歌って、優勝者を決めるような」

「そうそう、それそれ。それに出演できることになってね。それで私、優勝したの」

「ええっ!? そうなの! やだ、私毎回見てたはずなのに、全然気が付かなかったわ! えーやだ、すごいじゃない!」

 すーぐテンション上がっちゃうのが私の悪い癖よね。一人で盛り上がってよっちゃんの手なんて握ったりしたけど、またよっちゃんは浮かない顔で。あっしまったな、静かに話を聞いておこう、って大人しくすることにしたわ。

「そうね、私も優勝できたときはすっごい嬉しかった。その後、番組のプロデューサーみたいな人に声かけられて、それからはあれよあれよ、よ。デビューが決まって、曲を渡されてそれを歌って、いつの間にかCDが発売されることになってた」

 それ聞いて、またすごいわ! って拍手したくなったけど。ぐっと堪えて、「すごいじゃないの」って微笑むにとどめておいたわ。

「ありがとう。でもねえ、ぜーんぜん売れなかったの。もうそれはそれはびっくりするくらい。私だってね、デビューがゴールだなんて思ってなかった。もちろん嬉しかったけど、そこからがスタートで、より一層気を引き締めていかなきゃって思ってたのよ。でも、こんなに売れないとは思わなくて。すっごいショックだったけど、でも頑張ろうって思ってた。きっといつか評価される時がくるって。でも駄目だった。鳴かず飛ばずの日々よ。そしたらある日ね、有名な音楽番組のプロデューサーから、一緒にご飯行かないかって誘われたのよ」

 私、その番組名聞いてびっくりしちゃった。なんだと思う? みんな絶対に見てたわよ。……そうそう、それ! それよ! ね、びっくりでしょ? そのプロデューサーに誘われたんですって!

「私嬉しくて。あ、やっと私の曲が評価されたんだなって思ったのよ。お食事のときもね、声が色っぽいとか器量も良くて華があるとか、すごく褒めてくれて。それでね、デザートを食べてるとき、言われたの。この近くでホテル取ってあるから、一緒にどうか、って」

 私、凍り付いちゃった。それって、いわゆるあれじゃない。そう、枕営業。

「うそ……そんなこと、本当にあるの?」って、私思わず訊いちゃったわ。

「ねえ、そうよねえ。私もおんなじこと思ったわ。芸能界ってほんとにそういうところなのねって。それでね、軽蔑しないでほしいんだけど……私、迷っちゃったの。そんなの嫌ですって、すぐに返事できなかったの」

「軽蔑なんてしないわよ!」

 思わず大きな声出しちゃったわ。よっちゃん、ぎょっとしてたわね。

「そんな状況に立たされたら、私だって迷うもの。あっ、私は、よっちゃんみたいに綺麗でも痩せてもないから、そもそもそんなお誘いなんてないかもしれないけどっ。でも、もし物好きな殿方がいたとして、誘われたりしたら、ものすごく迷っちゃうわよ!」

 私、思わず熱弁しちゃったの。よっちゃん、きょとんとした顔してて。そしたらけらけら笑い出したわ。

「あはは、ありがとね藤ちゃん! そこまで言ってくれてなんだか安心したわ。そうね、私もすっごく迷って。でも断ったの。やっぱりそれって、私の実力じゃないでしょ。そのときは、確かにテレビに出れるかもしれない。そこから一気に売れるかもしれない。でもその先ずっと、あー私って男の人と寝てこの場所にいるんだなーって思いがついて回るじゃない。だからね、倫理観とか正義感とかじゃなくて、自分のために私、断ったの。機嫌悪くなったらどうしようって怖くなったんだけど、そうかそうかって笑って、それでその場は終わったの」

 自分のために、って言い切るよっちゃんが、とってもよっちゃんっぽいなって思ったわ。自分がどう楽しんで生きることができるか、っていうのを、一番に考えているような人だったから。

「でね、ある日その番組を見てたら、私と同期の子が出てたのよ。私が優勝したとき準優勝してた子だったんだけど、やっぱり全然売れなかった子で。人気者ばっかりの番組で、明らかに浮いてた。すぐ分かったわ。この子、あのプロデューサーと寝たんだ、って。そこからあの子、あれよあれよと売れちゃって。私ね、それを見て、ほんとうに悔しくて。そんなとき、ちょっと病気になっちゃってね。喉を手術したの」

「あら、そうなの!? 今は大丈夫なの?」

「ええ、もうすっかり。そんな大したものじゃなかったんだけど、喉に跡が残っちゃって」

 そう言うとよっちゃんは、第一ボタンまで閉めたシャツを緩めて、私に喉元を見せてくれたわ。確かに、横にまっすぐ傷跡が残ってたの。よっちゃんの首は細くて白いから、余計目立ってたわね。

「その間、もちろん歌のお仕事はできなかったんだけど。でも悔しいなって思うより、なんだか安心しちゃったのよね。ああ、歌の仕事をしなくて済む、良かったって思っちゃったのよ。それでね、私、歌手を引退することにしたの」

「えっ、引退しちゃったの?」

「ええ。傷のこともあったけど……やっぱり、例の同期の子のことが大きかったわね。歌の世界にいつづけたら、その子を見るたび後悔しそうだったんだもの。ああ、私も寝ておけばよかったかな、って。そんなことを後悔する自分が嫌で、やめたわ」

 もったいないな、って思うのは、私がきらきらした芸能界に憧れみたいなものを抱いているからなんでしょうね。その世界に足を踏み入れたよっちゃんは、全然きらきらなんてしてないって、分かっちゃったんじゃないかしら。そんなつもりはなかったけど、顔に出てたんでしょうね。よっちゃんがちょっと悲しそうに笑ったの。

「ごめんなさい。きっと、がっかりさせちゃったわよね。こんな話して」

「そんな、がっかりなんて全然よ!」

 私は慌てて否定したわ。

「むしろ、そんなことがあったのに、まだ歌う楽しさを忘れてないよっちゃんのこと、さすがだなって思ったわ。私、よっちゃんの歌声も好きだし、歌っているときの顔も大好きよ。ああ、ほんとうに歌を愛してるのねって、ものすごく感じるんだもの」

 そう伝えると、よっちゃんはいつもの明るい笑顔で、「ありがとうね!」って言ってくれたわ。

 よっちゃんは芸能界を引退してから、一回も結婚せずに、ずっと一人で頑張ってきたみたい。寂しくないのかしらって思ってたけど、話を聞いてなんだか納得しちゃったのよね。きっと歌があるから、寂しくなんてなかったのよ。

 そこから私たち、もっと仲良くなれたわ。確かに、芸能界ではうまくいかなかったかもしれないわね。でもね、よっちゃんは私にとって、大スターだったの。私の、憧れの人だったのよ。

 

(つづく)