ドレミファソラシだけの世界 半音が足りない人や多すぎる人
上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録
文字というものを覚えたときは嬉しくて、いろいろなものを片っ端から読みまくった。家にずっと貼ってある茶色いカレンダー、お菓子やジュースのパッケージ、道端の標識、美容室やはんこ屋さんの看板。あらゆるものに文字があって、その一つ一つに意味があるなんてすごい、すごすぎる。読めないものが読めるようになるというのは、世界の謎が解き明かされていくようだった。もっともっと文字を読んで、世界のことを知りたい。
さっそく文字がたくさんかいてある物を探したけど、家の中には父親が購読しているスポーツ報知と、パチンコ雑誌と、なんかエッチな雑誌しか見当たらなかった。それらはなんだか「子どもは近づくな」というオーラをびんびんに纏っている気がしたので、触らないでおいた。
しばらくすると学級図書はぜんぶ読んでしまい、教科書も3回くらいは読んでしまい、仕方なく国語辞典を読み始めるほどに、わたしは活字に飢えていた。見かけた文字は全部読む癖がついていた。
ある日、ばあばとお姉と三人でお出かけすることになった。ばあばはお買い物が大好きで、いつも買った物の袋で両手がいっぱいになる。この日はいつも以上に荷物がいっぱいになって、タクシーに乗ることになった。わたしが奥に座って、ばあばが真ん中に座って、姉が手前に座る。隙間から助手席をのぞいたら、前のところに運転手さんの名前が掲げられていた。
〈依田 虹子〉
名字の読み方はわからない。でも下の漢字はたしか、「にじ」って読むんだったはず。空に架かる、あの虹とおなじ。読み方合ってるかわからないけど、このひと、にじこさんっていうのかも。虹といえば、任天堂のマリオカートにレインボーロードっていうステージがある。あれ、道路が七色だから目がちかちかするし、走りづらくて苦手って子が多いけど、わたしはあのステージ大すき。空を飛んでるみたいでわくわくするし、光の輪を通るとき楽しいもん。にじこさんの運転するタクシーはきっと、レインボーロードを走るのにぴったりだろうな。白くてそっけないタクシーだけど、だからこそあの道によく似合うとおもう。そういえばにじこさんは、どうしてタクシーの運転手になったんだろう。もしかして、虹がだいすきなのかも。雨の日も晴れの日も空を見上げていられるように、すぐに消えてしまう虹を見逃さないために、今日もタクシーに乗っているのかもしれない。
「大きいのしかないのだけど、いいですか」
ばあばがお金を払おうとした声ではっとする。わたしの空想は強制終了されて、いそいそとタクシーを降りた。「ねえばあば、次あれ買ってえ」というお姉の声がうるさい。
家についてわたしが寝転がっていたら、ばあばが「バッグがない」と騒ぎ始めた。たくさんの買い物袋に気を取られて、貴重品が入ったバッグをどこかに置いてきてしまったらしい。慌てふためくばあばをママがなだめて、「行った場所を一つ一つ考えてみて」とアドバイスすると、ばあばは「きっとあのタクシーの中に置いてきちゃったんだわ」と答え、すぐにタクシー会社に電話をした。しかし、どのタクシーかわからなければ探しようがない、一応各車に連絡は入れてみますが……との返事で、もし戻って来なかったらどうしよう、とばあばはうろたえ続けていた。
わたしはにじこさんのことを考えていた。わたしはにじこさんの真後ろに座っていたから、顔や見た目はあまりわからないけど、名前の漢字ははっきりと覚えている。だけど、「虹子」は本当に「にじこ」と読むのだろうか。もし違ったら恥ずかしくて耐えられない。それに、大人の世界のことは大人が解決するものだ。わたしはまだこの世界のルールがよくわからない。ルールをしらない競技に口出しするのは、とてもこわいことだった。運転手さんの名前がわかったところで、ばあばの悩みが解決するのか、わたしには判断がつかない。このまま黙っていてもわたしは別に困らないし、放っておけばいいのかもしれない。
ばあばはうろうろしすぎてもう歩く床がなくなってしまい、泣いちゃいそうに見えた。わたしは、ばあばのことがけっこうすきだった。
……あのね、わたし、運転手さんの名前、みてたの。お姉に、ちいさなちいさな声で耳打ちした。お姉はすぐに「ねえねえねえあゆが運転手さんの名前わかるって!!!」と大声で言った。ちがうのわかるわけじゃないの、あってるかわからないの。大人たちはいっせいにわたしの方を見て、もう取り消せない空気になって、そのプレッシャーがこわくて、わたしが泣いちゃいそうになった。ばあばはしゃがんで、うるんだ目でわたしを見て、「あゆちゃん、名前、わかるの」と言った。「あのね、たぶんだけどね、にじこさんっていうの。車の前のところに、かいてあったの。名字はわからないの」もうどうにでもなれ、っておもった。
その後すぐ、にじこさんが白いタクシーに乗って届けてくれたから、ばあばのバッグは無事手元に帰ってきた。虹子さんはにじこさんだったのだ。ばあばは大喜びして、ママと一緒になってわたしのことをたくさんたくさん褒めた。大人からこんなに褒められたのは生まれて初めてだった。お姉は「あんた、よくタクシーの名前なんて見てるね」と言いながら、わたしばかりが褒められていることにやや不服そうだった。
わたしは、にじこさんがうちまで来なくてはならなくなったせいで、見られなかったかもしれない虹のことをおもった。