アンドゥがトロワでなんか嬉しくてすべての映画館から光

 

 高校生の頃、バイト先の女性社員であるTさんと仲良くしていた。休日には二人で旅行に行ったこともある。学校のこと、仕事のこと、恋愛のこと、好きな漫画やアニメのことまでなんでも話せるような関係で、学校にあまり友達がいなかった私はTさんにいつも救われていた。

 ある日。制服にユニクロのセーターを重ねるのが学生の中で流行っていて、私も買ってみようかなとか、そんな取るに足らない雑談をしていたとき、私が着ている学校指定のセーターを指差して彼女が言った。

「上坂、いっつも毛玉だらけのセーター着てるもんねえ」

 攻撃の意図は全く感じなかった。最近ちょっとたるんでんじゃない、というくらいの、冗談めかした軽い言い方。ぶわっと顔が熱くなって、内臓がドコドコと動いている気がする。Tさんは悪くない。平静を装って、あははそうだよねえ、とか答えた。

 家に帰ってからすぐ毛玉の取り方を調べた。私は十七歳のその日に他人から指摘されるまで、セーターには毛玉が発生するということも、それをケアしないのは恥ずかしいことであるということも、全く知らなかった。毛玉取りブラシも毛玉クリーナーも家にはなかったので、剃刀で代用することにした。セーターの全体に丁寧にT字剃刀を当てていくと、人形が作れそうなくらいの量の毛玉が取れた。

 でかい毛玉を丸めながら考えた。うちはお父さんがいないから、ふつうじゃないから、もしかしたら私は、皆が知っている当たり前のことを全然知らないのかもしれない。誰も指摘しないだけで、みっともない奴だと思われているのかもしれない。でもこれって、私が悪いのかな。お母さんは仕事で忙しいから、私のセーターなんていちいち見ていられない。それでもお母さんも私も、頑張ってるんだよ。だったらセーターの毛玉を取りましょうってこと、学校で教えといてよ。そんなこと誰も教えてくれないのに、勝手に私のこと審査しないでよ。

 誰にも聞かれてないことに対して心の中で反論し続けた。私はあの日はじめて、みじめ、という感覚を知った。

 

 あれからもう十五年ほどが経つ。最初の頃は「ちゃんとした人」になりたくて頑張っていたけど、自分はどうにもずぼらな性分のようだった。それでもSNSから大量の「ちゃんとした人」の生活は流れてくる。朝起きて観葉植物に水をあげてヨガをやってシャワーを浴びてスキンケアをして化粧をしてアサイーボウルとかを食べてその皿を洗って完璧なコーディネートを着て家を出る。仕事が終わって家に着いたら、作り置きしていたおかずとご飯で栄養バランスの取れた夕食を済ませ軽く部屋の掃除をしてキャンドルを焚きながらゆっくり半身浴をして念入りなスキンケアをしてボディクリームを塗りながらマッサージして早めに就寝するらしい。はい無理。深夜に寝て毎日昼過ぎに起きる私は「朝起きて」からもう無理。これを目指したら「ちゃんとした」に殺される。友達に相談したらそこまでやんなくていいんだよと言われたけど、じゃあどこまでやったら「ちゃんとした」で、どこまで諦めたら「ちゃんとしてない」になるのか、その境界がわからない。

 私は、ちゃんとすることを諦めた。本気でちゃんとしたら死んでしまうから、できる範囲でしかやらない。そういうわけで、洗面台が埋まっているときはキッチンで歯を磨くし、衣類のケアをするかわりに、毛玉がつきにくい服や猫の毛が目立たない色の服を着ることにしている。人の家ではできるだけちゃんとするけど、自分ひとりのときなら誰にも迷惑はかからないし、むしろこういうのは生活の創意工夫であると前向きに受け止めている。

 

 先日、軽い気持ちで鰹のたたきを取り寄せたらものすごい量だったので、友人を呼ぶことにした。友人が手土産に持ってきてくれた彩り豊かなお惣菜の数々を見て、ふと気づく。我が家にはテーブルがない。いつもキッチンのコンロを机の代わりにしているからだ(ちなみにこの原稿もコンロの上で書いている)。自分ひとりならコンロの上で食べたかもしれないけど、こんなに素敵なお惣菜を持ってきてくれた人にそれをさせるのは流石にどうなんだろう。……悩んだ末、私は廃品回収に出そうとしていたデスクトップパソコンの本体を部屋の隅から引っ張り出した。箱のようなそれを横に倒して床に置き、その上にビニールと布を敷いて、即席の机をつくった。床にラグを敷いて、その上に即席机を置いたらピクニックみたいでいい感じ。パソコン捨てる前でよかったあ、とか言いながら鰹とお惣菜をぱくぱく食べた。

 

 その友人と後日喫茶店に行った。クリームソーダなんて愉快な飲み物を注文した後、アイスコーヒーを注文した友人が真剣な表情をしているのに気づく。「あのね、言いたかったことがあって」やばい。何か怒られるのかも。

「パソコンを机にするなんて、パソコンの上で鰹のたたきを食べていいなんて、びっくりしたの。今までの世界がひっくり返るみたいだった。私は厳しい両親に育てられたから、床で物を食べることはもちろん、服のままベッドで寝転ぶことすらも禁止されてて、そういうものだと思ってた。だけど、今は自分だけの家だもんね。好きにすればいいんだよね。親のことこんなに嫌いなのに、まだ親のルールに縛られている自分に気づいたよ。あのとき床で一緒に食べた鰹、本当に美味しかったし、楽しかった。ありがとう」

 なんと、私の「ちゃんとしてなさ」が、褒められた。なにそれーって言いながら、二人でけらけら笑った。私にはもう、友達がいる。セーターの毛玉を取るべきだと知っている。ちゃんとしてる振る舞いも、ちゃんとしてない振る舞いも、選ぶことができる。その後友人の家に行って、一緒にベッドに寝転んだ。床に座って、ポップコーンを食べた。キャラメルポップコーンって、映画館の味がするよね。私たちって、自由だね。

 

(第20回へつづく)