ルフィより 強くてジャイアンよりでかい母は今年で六十になる

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録

 私の母は海賊である。正確に言うと、限りなく海賊っぽい女性である。家では基本リビングにどっかりと座り、業務用ウイスキー(5L)を小脇に抱えてテレビを見ながらガハハと笑う。地元・沼津に友人がほぼいない私とは対照的に、沼津の奴は大体友達、というくらい社交的で知り合いが多い。若い人にたくさん食べさせるのが好きで、姉の友人や東京から連れて行った私の友人などを自宅に招き、大量の酒や料理を振る舞ってくれ、友人たちはいつの間にか皆、母のことを慕っている。
 その日、高校生だった私は家でしくしく泣いていた。
 当時の私は世界の全てを見下しながら生きていた。家庭環境が複雑だったため、同級生に対し「お前らはいいよな、何の悩みもなくのうのうと生きやがって」などと内心蔑んでおり、悲劇のヒロインを気取りつつもシンプルに性格が悪かった。進路を決める際、私は「とくにやりたいこともないくせに、親に高い金払わせてどうでもいい大学に行く奴らが信じられない。そんなことをするくらいなら、私は高卒で働く」と口癖のように宣った。高卒で働くことは親にも担任にも止められて、それなら、と消去法的に選んだのが美大進学だった。昔から絵を描くことが割と得意で、宿題で描かされた絵が美術教師の目に留まり、「あなたが美大に行かないのはもったいない」とか言われてわかりやすく調子に乗ったのだ。ごく普通の公立高校に通っていた私は、美大に行くという決断をすることで、同級生に対してお前らとは違うんだよというパフォーマンスになるとも思った。狭い世界で何重にも自意識をこじらせた上、完全に芸術を舐めているのがヤバすぎるけど、当時はそこまでしないと、世界に自分の居場所が持てなかったのだと思う。
 美術大学に入るには美術予備校と呼ばれる場所に通わなくてはいけないことを知り、毎日毎日、学校が終わったあと十七時から二十二時ごろまで、受験対策としてのデッサンや平面構成といわれる課題に取り組んで、土曜日なんかは朝から夜まで絵を描いた。その日の課題が終わると、講師が予備校の壁に上手い順に絵を並べ、切れ味が良すぎるナイフのような講評を始める。予備校の日々は本当に体力と気力を必要とするもので、こんなに大変だったとは……と入ってみて思ったが、課題が大変であればあるほど「自分は同級生とは違う、創作の苦しみを味わっているのだ」という変な愉悦にも繋がっていた。
 そんな日々を過ごす中で、平面構成の課題が出されたある日のこと。たまたま調子が良かった私は早々にアイデアと構図を決め、誰よりも早く描きあげた。しかし講評の時間になって、壁一面に皆の作品が貼られたとき、「あっ」と声が出た。他の生徒のアイデアと構図が、私のものと全く同じだったのだ。対象の形や陰影を正しく表現する力が問われるため、アイデアが被ってもそこまで問題ではないデッサン課題に対し、平面構成課題は主に発想力を問われているため、アイデアや構図が似通ってしまうと致命傷である。さらに、その子の作品の方が壁の右側の方に貼られていて、それはつまり、相手の方が高評価であることを示していた。今考えればそこまで革新的なアイデアではなかったから、たまたま似てしまっただけかもしれないけれど、そのときは「絶対に真似されたんだ」と信じ込むほどには、精神が追い詰められていた。
 高校に上がるとき親が離婚し、私はその事実をきちんと受け止められずにいた。名字や生活環境だけがどんどん変わっていき、私はそれを紙芝居か何かのように傍観していた。姉は暴走族の恋人との付き合いを深めて日々問題を起こし、自分は自分で学校の誰とも上手く馴染めず孤独だった。さらに美術予備校のハードスケジュールをこなすことと、容赦のない実力主義による評価を受けることが重なって、受験期の私の精神を強く蝕む。しかし当時の自分は、それが異常な精神状態であることすら自覚できない、無力な一人の子どもだった。
 予備校が終わり、家に帰って泣いた。他の生徒に構図がパクられ、彼の方が高評価を受けたという、それだけの出来事で心のダムが決壊した。それまで私はあまり笑いも泣きもしない子どもで、今まで感情が乱れたときも、それをできるだけ人前に出さなかった。だから家までは我慢したのだけど、離婚後に引っ越した狭い団地の部屋では、どうやっても母に泣いているのがバレてしまう。母はその日もソファーにどっかりと座り込んで酒をあおっていた。テレビでは「エンタの神様」が流れている。「なんで泣いてんの」と言われたので、私は予備校での一部始終を伝える。話せば話すほど涙が止まらなくなって、顔全体に熱い液体が集まっているのを感じる。目線はテレビに向けたまま、静かに私の話を聞いていた母が言った一言は、「うるせえ、ピーピー泣くな!」だった。
 てっきり慰めてくれると思っていたので困惑する私をお構いなしに、「こいつを見ろ!」と言って、母はテレビを指差す。テレビの中で芸人の狩野英孝が、「ラーメン!つけ麺!僕イケメン!」と叫ぶ。母はコップに残っていた酒をぐいっと飲み込んだ。
「こいつなんてたいしてイケメンでもないのに、こんなに明るく頑張ってるだろ!こういう奴の方が気持ちがいいだろうが!!お前も狩野英孝になれ!!!!!」
 意味がわからなすぎて、私の心の中に突風が吹いた。それは、ぐしゃぐしゃした感情を全部吹き飛ばすほどの暴力的な風だった。
「な゛んで狩野英孝にならないといけないの゛ぉお゛」と鼻水まみれの顔で怒ったけど、自分でも言いながら笑ってしまった。不本意ながら、涙はもう止まっていた。
 
 私の父は離婚後の慰謝料も、養育費もほぼ払わず、というか逆に私と姉のお年玉貯金を奪ってその金でフィリピンに飛んだ。そんな貧しい母子家庭にもかかわらず、母は美術予備校だけでなく、普通の大学よりもかなり金がかかる私立美大に進学させてくれた。私を進学させるため、人を頼るのが苦手な母が、祖父を始めいろいろな人に頭を下げてくれていた事実は、大人になってから知ったことだ。今考えればあのとき、母の方がずっとずっと不安だったと思う。「ピーピー泣くな、明るく頑張れ」というのは、母が自分自身に言い聞かせている言葉だったのかもしれない。
 数年経ってから、母に「あのときなんで狩野英孝になれとか言ったの?」と聞いてみると、「酔っ払ってて覚えてない」とガハハと笑った。まあでも、他人を見下すことで自分の居場所を得ていた当時の私よりも、真っ直ぐに自分を表現する狩野英孝のほうが、たしかにずっと健やかでかっこいいよなと思った。

 

(第5回へつづく)