お好み焼きの大きい方をくれたこと地球ではこれを愛とか言うよ

 

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録

 

 有名なサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』の中で、主人公のホールデンが、自分は「ライ麦畑のつかまえ役」になりたいのだと言う一節がある。危険な崖のふちに立っておいて、ライ麦畑で遊びに夢中になった子どもが、うっかり崖のふちから転がり落ちそうになったとき、その子をつかまえてやる。一日中、そればっかりをする仕事。自分が本当になりたいものといったらそういうことなのだと、ホールデンは言う。
「上坂さんって、その『つかまえ役』みたいですよね。むしろ崖から離れていたとしても、どこからでもダッシュでつかまえに来てくれそう」と、作家の友人に言われた。多分、褒められている。いやいや、そんな大層なものではないですよと瞬時に否定してしまった。でもよく考えてみると、『つかまえ役』ってなんだ。良いことかのように聞こえるけど、それでは崖から子どもが落ちてしまうという問題に対する対症療法にしかならないじゃないか。私なら崖に柵を設けるかもしれないし、そもそも論で言えば、子どもたちの遊び場を崖の上につくるべきではない。そのいずれも許されないなら、仕方ないので、崖の下にでっかいクッションを敷くと思う。だって、二人同時に落ちてしまってどちらかしか助けられないとしたら、私はきっと一生悔やむと思うし、悔やみたくないし。

 

 こういう考え方なので、友人に悩みや愚痴を聞かされたとき、「大丈夫?」「つらかったね」と寄り添ったり、被害を与えてきた相手の悪口を一緒に言ったり、そういう振る舞いが苦手だ。思っていないわけではない。もちろん心配だし、つらかったろうな、悲しかっただろうな、この人にそんなことしてくる相手マジでムカつくなと心から思う。でもそれをそのまま言葉にすることって、優しさ的なポーズをとっているだけで、本当の優しさではないと思ってしまう。だって私がどうしようもなく辛かった十代の頃、あの苦しみは誰にもわかりようがないものだった。母子家庭でお金がなくて、学校にも家にも居場所がなくて、あんなときの自分に「大丈夫? つらかったね」なんて表層的に言われることを考えたら吐き気がする。安全地帯から良い人ぶってんじゃねえよって思う。

 だから友人が本当に苦しんでいるならば、知り合いを伝っていい弁護士紹介したいし、裁判を有利に進めるための証拠獲得に協力するし、弁護士費用が足りないなら一部負担したっていい。平時においても、私が「I love you」を訳すなら「健康診断に行け」になるし、実際、恋人へのプレゼントは毎年人間ドック検査だし、仕事に悩んでいる友人に適職診断のコーチングプログラムをプレゼントしたこともあった。私の愛はいつも合理的で有益なものだ。小さい頃に聞いた「同情するなら金をくれ」って台詞は本当にその通りだと思っていて、苦しい人には実利か解決策を与えたい。それでもどうにもならないなら、今から一緒にこれから一緒に殴りに行こうか〜〜(YAH YAH YAH)って本気で思うし、友人が血を流しているなら、安全地帯から見守るのではなく、私も一緒に血を流したい。それが、私が思う真の優しさのかたち。

 

 先日、友人Mと会っていた。Mは普段あまり酒を飲まないのに、その日はやたらとペースが早い。どうしても嫌なことがあったのだと言う。話を聞く中で、私は相手とMそれぞれの問題点を明らかにし、責任の所在を明確化させた。今後Mがどう立ち回るべきかのアクションプランにも言及した。私なりに解決策を一生懸命考えて伝えた。でも、Mの表情は浮かないままだった。「こんなに飲んだのに全然酔えないや。頭が痛くなっただけ!」と力無く笑う。どうしよう。せっかく悩みを打ち明けてくれたのに、私は何も力になれないのか。裁判するのにも殴りに行くのにも付き合う覚悟はあるけれど、そんなことMはきっと求めていない。どうしようどうしようと思いながらうまく言葉が出せないまま、気づいたら終電まであと少しだ。求職中のMは明日も朝から面接だというし、こんなにストレスを抱えている中で、睡眠不足だけは避けなければならない。私は会計を爆速で終えて店を出るなり、「あと四分!!走ろ!!!!!」と叫んだ。

 脇目もふらずに商店街を走り抜け、改札前に着いてからふうっと振り返ったら、遠くの方によたよたと走りながらこちらに向かってくるMがいた。なぜか爆笑していて何を言っているのか聞き取れない。近づいて合流したら「たばこっ、たばこが」と言っていた。Mの両手には三つものたばことライター。
「上坂さんさあっ、走りだした瞬間にポケットからたばこ落としてさっ、走るたびにぽとっ、ぽとっ、てたばこが増えていってさあ、あははははは、最後にライターまで落としてさ、声かけても無視してダッシュしてるしさ、は〜ははは、あーお腹痛い、ヘンゼルとグレーテルじゃないんだからさあ」

 自分がたばこを落としたことに全然気づいていなかった。しかも三つも。私も一緒になって笑った。あはははははって笑った。逆方向に向かう電車に乗るとき、「元気出たよ、ありがとね」Mはそう言って手を振った。

 

 私はメロスとセリヌンティウスのような、万が一のときには命をかけられる関係を友人だと思っていた。でも本当は命をかけなくても、一緒に血を流さなくても、ただ笑い合うだけの関係でも、友人と呼んでいいらしい。友達といるときは、遊び場の安全性を考える前に、崖の上のライ麦畑で、ただ一緒に遊べばよかったのか。

 

(第18回へつづく)