待ち合わせしましょう各々の最寄の海で すべてはつながってるから

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録

 付き合っていた人に、「靴下を裏返しのまま洗濯機に入れるな」と注意されたことがある。さすがに丸まっている状態だとちゃんと洗えなさそうだからそれは平らに直すけど、私は基本的に裏でも表でも、洗うのに支障はないと思う派だ。だから靴下を裏返しのまま洗濯機に入れてはいけない理由がわからず相手に尋ねると、「いや、普通はそうするでしょ」と言われた。
 靴下を表にして洗濯機に入れることくらい正直簡単にできるのだけど、彼の「普通はそうするでしょ」という言い方には納得できなかった。表に返さないと汚れが落ちない? 本当に? 肉体に接してるのは靴下の内側、本来そっちの方が汚いから裏返しのまま入れるべきなんじゃない? とか、お互い科学的根拠のない靴下論争に発展した。

「普通は○○でしょ」という言い方、会社や学校やいろいろな場面で、今までにも何度か聞いたことがある。これは世の中の大多数がそうしていることが「普通」で、大多数がそうしているのだからそれが正しいという論理。でも、大多数がそうでもぜんぜん正しくないことなんてたくさん、たくさんあるじゃないか。
 私だって会社の同僚や友人だったら、いちいちここまで突っかからない。これは相手が恋人だからだ。恋愛というジャンルは、なぜだか「普通○○でしょ」が蔓延している。普通男が奢るでしょ、普通は記念日にプレゼントするでしょ、普通○年も付き合ってたら結婚するでしょみたいな、マジでどこの誰が決めたんだよっていう謎の言説で満ち満ちている。しかし本来的には恋愛って社会や他人は全く関係がなく、二者間の意見のみで成立する唯一のことだ。第三者を巻き込むことなく二人の間に適切な合意があり、互いが心地よくいられる関係を築けているならば、社会的にどれだけ外れ値でも問題ないのが恋愛という競技である。
 このときの私たちは、私の方が年収が高かったからだいたいは割り勘か私の奢りで、記念日はお互いそもそも覚えておらず、結婚には二人ともあまり意味を感じていなかった。別に世の中の「普通」に反抗しようとしてそうしたわけじゃなくて、お互いの意思を尊重したら自然とそうなった。今まで二人だけの「普通」を作り上げてきたのだから、この人とはそういう恋愛のルールを共有できているはずだという信頼を持っていた。そこで急に「普通はそうするから俺たちもそうするべきだ」みたいな、第三者の、または社会の存在を持ち出されたのが、どうしても許せなかった。
 私は最終的に「『俺のこだわりでどうしても表じゃないと気持ち悪いんだ』って言ってくれたら従うのに。自分の意見を多数派の意見にすり替えるな、私とお前の話をしろよ!」とかなんとか言ったと思う。彼はあまり納得がいっていない様子で、そんなに怒ることか? という表情を浮かべたまま、渋々引き下がった。
 数ヶ月後、この件とはまったく別の部分で折り合わない問題があって、彼とはお別れすることになった。別れてから大分経った後に居酒屋のテレビをぼーっと見ていたら、「靴下を洗うとき、表裏どっちの方が汚れが落ちる?」という特集が放映されていた。番組の調査によると、表のままで洗う人が八十パーセント、裏返しで洗う人は二十パーセントらしい。彼の言った「普通(大多数)はそうするでしょ」は、一応統計的事実として正しかったようだ。しかし番組内では、裏返しで洗濯した方が汚れ落ちが良い、と結論づけていたので笑ってしまった。まあ別に、そこはどっちでもいいんだけど。

 ある時、物書きの友人に「上坂さんは、良識はあるけど常識はないよね」と言われた。本当にその通りで、もはや私は常識のアンチであるとも言える。「常識」というのは、大多数が決める「普通」というものとかなり近いから。
 十八歳まで地元にいた頃、私は「変すぎる」という理由で常に浮いていて、その後美術大学に進学したら「まともすぎる」という理由で常に浮いていた。つまり社会での「普通」っていうのは、所詮その場にいる数十人程度によって形成されるんだとわかったとき、「普通」なんて存在しないし、あったとしてもたいしたもんじゃないなと体感的に思った。多分その頃から、マジョリティを指すときの「普通」のアンチになったのだと思う。私は昔から多くの場面で「普通」に入れなかったから。

 先日、家で素麺を食べようとしたとき、友人が白葱を用意していたのでびっくりした。素麺には絶対に青葱だと思っていた、というか白葱って加熱しないと食べられないものだと思っていた。やや引いている私を横目に、友人は大丈夫だよ〜うちではいつもこれだよ〜と言ってパラパラと葱を散らす。恐る恐る食べてみると美味しかった。調べてみると、素麺の薬味に青葱を使うのは全体の六十四パーセント、白葱を使うのは二十六パーセントらしい(残りは「そもそも葱を使わない」という人が十パーセント)。ただ地域によりその差は顕著で、東海地方よりも西のエリアではほぼ青葱。しかし関東・北陸・甲信地方以東では白葱派が多いようなのだ。私は静岡県の出身だから、青葱が「普通」だと思い込んでいただけだった。青葱よりも日持ちするし汎用性があるので、私はそれ以来素麺にも白葱派になった。

 アンチを自称している割に、まだまだ自分の中にも「普通」があった。だけど、こうして自分の中の「普通」が覆されるたび、私も世界も、少しずつ自由になっていく気がする。世界に中心なんてなくて、青葱派の私と、白葱派のあなたが目の前にいる、それだけのことなのだ。

 

(第8回へつづく)