怒りって光と似てる 路地裏の掃き溜めすべてはじまりだった

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録

 たいした覚悟もないまま、ほぼ思いつきのような感じでサラリーマンを辞めてから、もうすぐ一年が経とうとしている。現在の私は、短歌を書いたり、エッセイのような文章を書いたり、ラジオに出たりスナックで働いたりしていて、「上坂さんって今は何をされているんですか」と言われるたびに、我ながら自分は何をされている人なんだろうと思う。元々は短歌の本を出してデビューした立場なので「歌人」と呼ばれることが多いのだけど、その割には短歌よりその他の仕事の割合の方が大きい。というか、短歌で言いたかったことは最初の本に詰め込みすぎてしまって、最近は短歌をつくるのが本当に苦しいから、短歌制作の依頼は断ってしまうことすら増えた(無職のくせに!)。
 全ての歌人がそうというわけでは全くなく、あくまで私の感覚であるが、短歌をつくることは排泄に近いと思う。誰に頼まれるでもなく、自分がしたいからアウトプットするもの。猛烈に出したいときがごく稀にあって、そういうときは出すととてもすっきりする。逆に、出したくないときはどれだけ頑張っても出ない。だから「●日までに十首できますか?」と聞かれることは、「●日までにうんこ十回出ますか?」って聞かれてるのと近くて、「出るかもしれないけど出ないかもしれません」としか答えようがない(もちろん依頼者にそんなことは言わないけど)。もし依頼を受けたらなんとか十回出すために、日々想像を膨らませたり感情のメモを取ったり人の歌集を読んだりしており、多分こういう行為が短歌における食物繊維の摂取にあたるんだと思う。そうやって自分なりに頑張ってはみるものの、短歌にも便にも質があるので、ゆるすぎたり硬すぎたり小さすぎたりすると、それは十回に含めて提出できないこともある。
 とくに欲求もないのに無理やり短歌を捻り出そうとすることは、健康診断で便を提出しなければならないのに一向に出ず、ひとり便座の上で途方に暮れているときのような苦しさが続く。便を排出するのが楽しいと思う人がおそらく少ないのと同様に、楽しんで歌をつくったことなんてそもそもないのだけれど、猛烈に歌をつくりたいという強いモチベーションも最近はあまりない。それでも私は歌人と呼ばれたり、そう名乗らざるを得ない状況もあって、短歌の神が私を見ていたら怒られるんじゃないかと真剣に考えたりもする。排泄に似ているなんて言いながらも、私は短歌のことをとても大切で神聖なものだと思っているらしい。自分は本気で短歌や創作と向き合えているのだろうか、不埒な態度になってはいないだろうかと、誰に言われたわけでもないのに悩んでいた。会社を辞めたせいで、こういうことを考える時間は無限にあるのだった。

 二〇二三年七月末。
 TwitterがXになったとき、ああ、世界ってこういうふうに終わるのかと思った。
 巨大な権力を持った存在が突如やってきて、それまでの文化や風習をガラッと変えてしまう。青色の鳥なんて元々存在しなかったかのような振る舞いに民衆は口々に不満を述べるが、それが支配者に届くことは決してない。数ヶ月も経てば私たちは鳥がいないことに慣れていってしまって、それでも生活は続いていって、だけどそうやってぬるりと、じわりと、何かが塗り替えられていって、きっと世界もこういうふうに終わるに違いないと思った。
 止まらない気候変動、何度投票に行っても変わらない世界、どれだけ反戦の意志を持つ人がいても繰り返される戦争、リアルタイムで可視化される差別と貧困。数年前からそろそろ世界は終わりそうだと思っていたけれど、TwitterがXになったとき、初めて「終わること」に具体的な手触りを感じた。あーあー、これは終わる、終わります。世界サ終のお知らせ。そう思ったら不思議なことに、私は今までにないほど自由になった。
 現代を生きる私たちはもはや人の目を気にする余裕なんてなく、やりたいことをやればいいのだ。キャリアプランとかは関係ない、だって世界はもうすぐ終わるのだから。社会的地位や肩書きのような、他人からしか見えないものなどどうでもよくて、私は私が楽しい方向に生きればいい。エッセイを書きたいときは書いて、ラジオをやりたいときはやって、スナックで働きたいときは働き、そして短歌をつくりたくなったときはつくればいい。TwitterがXに変わってから、年齢に見合わないんじゃないかと思って着れないでいた服を着るようになって、人にどう思われるかを恐れることなく誰とでも会えるようになった気がする。だって世界はもうすぐ終わるのだから。うんこは、したいときにすればよかったのだ。

 TwitterがXになってしばらくした後、Xの黒いアイコンにひび割れたダメージ加工が施された。青い鳥からすべてを奪った上でやることが表層だけのダメージ加工。宮下公園からホームレスを排除して綺麗な綺麗な建物を建てた後、“レトロ風”居酒屋ができていたあの現象に似ている。やっぱり世界はこんなにも残酷である。だけど私は、クソみたいな世界で闘いながら僅かな希望を見出す物語が、そういう主人公が、結構好きだ。

 

 

(第2回へつづく)