天使って紙一重だよ いっぽんの棒がわずかにずれれば大便

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録

 このところ、毎年夏になると新しい挑戦が待っている。去年はオールナイトニッポン0で二時間一人喋りをやって、今年は初めての演劇に出演することになった。歳を取れば取るほど「初めて」は減っていくからこそ、初めての挑戦はいつもわくわくする。

 稽古が始まってからの数週間、心はとても健康である一方、身体のいろいろなところが終わっていた。夏風邪をこじらせて咳が止まらず内科に行き、免疫力が低下しカンジダを発症して婦人科に行き、稽古に向かう途中、何もない道端で大規模にコケて血まみれになって外科に行き、コケた際に顎を強打して奥歯が欠けたので歯科に行った。さらに以前から長いこと不眠症なので毎月の薬をもらうために心療内科にも行った。病院スタンプラリーでもしているのかという状態だが、安心してほしい。私は人一倍体力がない上に運動神経もないので、病院をハシゴすることも、その辺の道で大規模にコケて血まみれになることも、数年に一度は発生する馴染みあるイベントである。医学が発達した世界に生まれて本当によかった。医学は偉大だ。現在、不眠症以外の不調はすべて治り、コケて血まみれになった件も骨や脳に異常はなく外傷のみで、結論から言えばそれも舞台に上がるのに支障がない程度の見た目に回復した。私は初めてのことにわくわくする一方で、たとえ血まみれになろうとも既知のことについては至って冷静である。

 さまざまな病院に行きまくっている日々の中、入浴中に違和感に気づいた。お尻の穴の周辺にぷくっとした何かがある気がする。前はなかったはず。……もしかして、痔か何かの兆候だろうか。もし痔だったら相当治りづらいと聞いている。演劇にも支障が出るかもしれない。痔のせいで降板する俳優って聞いたことないけど、演劇界初のそれになったらどうしよう。そんな俳優、もう一生呼んでもらえないだろう。というか今後文筆業を続けるのにも支障が出るのでは?…………ということで、即刻肛門科に来た。今夏の病院スタンプがまた一つ増えてしまった。ここまで来たらコンプリートしてやろうかなという気持ちも湧いてくる。演劇の稽古はほぼ毎日あるので、このときの私は稽古以外の時間の全てを睡眠か通院に捧げていた。それくらい忙しい合間を縫って、私はなんとかこの肛門科の門、いや門だとややこしいか、ドアを、叩いたのだ。
 診察室に入り、早速「どうされましたか」と尋ねられる。「お尻の穴にできものがある気がして」と伝えたら、一瞬変な空気が流れた。忘れていたがこの病院は内科や外科も併設されているところで、さらに私は数日前に大規模にコケて、顔や手足をガーゼと包帯でぐるぐる巻きにした状態だった。先生は明らかに一瞬(そっち……?!)という顔をしていた。「あ、ちょっと数日前に転んじゃって、でもこの傷はもう診察を受けているので大丈夫です、あはは」と聞かれてもないことをベラベラと答えた。困惑の空気が密室に立ち込めたまま診察が始まり、私は診察台にうつ伏せになった。全身包帯だらけの患者に対し、なぜかお尻に先生が指を突っ込んでいるのは確かに異様な光景で、想像したら笑いそうになったけど、この事象が起きているのは一から十まで私のせいなので我慢した。
 先生が指を動かしながら「ここ押されると痛いですか?」「ここは?」と尋ねる。いずれも特に痛みは感じなかった。さあどうですか先生。私のお尻、ひいては私の俳優業と文筆業の未来も、すべてが先生に委ねられている。

 一通りの診察を終えた先生は、「痛みも無いようですし、これ、ただのお尻のシワですね」と言った。
 えっ??????
「ぷくっとした部分が肛門のお腹側にあるでしょう。人間は胎内で体ができあがるとき、お腹のところで合わさるので、肛門のシワはこう、人体のお腹側に寄りやすいんです」
 いやそんなメカニズムは聞いてないけど。シワ。マジで? え、私、全身包帯の満身創痍の状態で、めちゃくちゃスケジュール調整してなんとか来たのに?? シワ? ただの、お尻のシワ? 事態が飲み込めない私を置きざりにしたまま、先生は続ける。
「ところで、四時の方向と七時の方向に切れた跡がありますね。これまでの人生で少なくとも二回、肛門が切れています」
 人は尻穴の切れた跡を伝えるとき、時計の文字盤を用いるらしい。なんだか詩的である。しかし私は、二回なんてもんじゃなく頻繁に肛門が切れている自覚があった。大便をしたあとトイレットペーパーに少量の血が付いていることが日常的にある。だからこそ痔を心配してのこのこやってきたのだ。
「先生! 私、うんこが人よりでかくって、それで、普段からよく肛門切れてるんです。二回なんてもんじゃないと思います!」
 ただのお尻のシワというのは間違いではないか、これはやっぱり痔なのではないかという懸念が未だ拭えず、私は必死で説明した。こちとら演劇と文筆の未来が、というか人生がこの尻にかかっているのである。言った後、私の大便がでかいという情報は要らなかったかもしれないと思ったがもう言ってしまったのでしょうがない。それを聞いた先生は、それは大変ですねと言って浣腸型の軟膏を処方した。これは裂傷の腫れを鎮めるものだという。つまり、診断結果が変わることはなかった。

 私は有り余るほど大量の浣腸を手に立ち尽くした。私が尻の異変だと思ったものは、ただのお尻のシワだった。まあでも、病気じゃ無いならよかった……のか? そういえば肛門科に行くのも、この夏に経験した生まれて初めてのことだった。特にわくわくはしなかったが。

 病院を出た後、さっきまで青かった空は急にもったりした雲に覆われ、今にも雨が降りそうな気配がしていた。私は、今回の演劇の台本を思い出した。
 私が演じる役は登場するやいなや「うんこ我慢してるみたいな雲だわー」と発言する。他の登場人物が「雲、うんこ我慢しなくない?」と声をかけると、私の役は「じゃあションベン我慢してるってこと?」と返す。
 主宰の脚本家の方が「今回はキャストをイメージしながら書いた部分もあって」と仰っていた。イメージしすぎだ。演劇はとても上手くいった。

 

(第13回へつづく)