わたしたちみんなひとりを生きてゆく 横一列で焼き鳥食めば

上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録


 生きていると、友人がなにやら憤っている様子で、「聞いてよー!」と言ってくることがある。どうしたの、と半ば反射で声をかけて話を聞く。一部始終を聞いて、私は思う。(まあ、確かに気持ちのいいことではないけれども、そんなに怒ることかな)と。
 私自身に怒りが降りかかることもある。そういうときは友人に「聞いてよー!」と言う。新鮮な怒りというものはウナギのようで、掴みかけてはにゅるんと逃げられる。だからこの怒りにつながるポイントを後から思い出したりして、「あっそれで、実はその前にね」などと、話は時間軸を行ったり来たりする。私は、この黒々とした立派なウナギが、私と同じように友人に見えているだろうかと不安になる。話している途中で友人が「?」という表情をしていたら、よりウナギの実体に近い部分のエピソードを重ねたりもする。怒濤の勢いでひとしきり話し終えて、「……っていうことが、あったんだけどさ」と結ぶ頃には、友人は「???」という表情を浮かべていることがある。それで友人はこう言う。「まあ、嫌な気持ちはわからんでもないけど、そんなに怒ることかな」と。さっきまで掴んでいたはずのウナギは気づいたらいなくなっていて、ぬめぬめした不快な手触りだけが、私の記憶に残っている。

 通称“そんなに怒ることかな現象”は日常にたくさんある。
 十人中十人が怒るだろうという体験であれば皆に共感してもらえるのだろうが、そういう怒りが我が身に降りかかることは稀で、多くの場合は「全員が全員じゃないかもしれないけど自分はどうしても許せない」という怒りだ。つまり、怒りポイントが人によって異なっているために、“そんなに怒ることかな現象”が起きている。
 これについて長年考えていて、一つの仮説にたどり着いた。それは、人間が怒りを感じるのは、自分が人一倍プライドを持って頑張っていることを、他者が蔑ろにしたときなのではないか、ということだ。例えば、飲食店の店員さんに横柄な態度を取る人に異常なまでの嫌悪感を抱く人は、自分が店員さんに対して丁寧に接することを信条としている。身だしなみが疎かになっている人にやたらイラついてしまう人は、自分が身だしなみを整えることに強いこだわりを持っている。
 人の怒りと美学は表裏一体なのだ。美学は人それぞれ異なっていて当たり前。だから“そんなに怒ることかな現象”が起きたときは、自分や他人の価値観を深く知ることができるチャンスでもあるだろう。

 自分はどういう人に苛立つかということを考えてみると、まず思い当たるのは「覚悟を持たずに罪を犯す人」である。具体的に言えば、一人では何もできないのに、集団になると嬉々として悪口を言うみたいな人。大前提、何かを憎んだり悪口を言わないで済むならもちろんその方がいいのだけど、こんな不条理な世の中ではそういうわけにもいかない。嫌いな人・物が生じるのは仕方ないとして、好きか嫌いかというのは、いかなる場合も自分の心のみで決めるべきだと私は思っている。皆が嫌っているから自分も嫌っていいみたいな人を見ると、自分の悪意を正当化しているようで、リスクや責任を取ることなく甘い蜜を啜ろうとしているようで、そういう生き様が本当に許せない。悪口を言うことが許せないのではなく、悪口を言うことに覚悟や責任を持っていないことが許せないのだ。逆に、皆が好きだというから自分も好きだという理屈も、悪意と違って他者への被害が生まれないからまあ許せはするが、あまり美しくはないと感じる。偏った思想なのは理解している。でも、「世界中の人がAを好きだとしても私は絶対にAを許さない」「世界中の人がAを嫌いでも私は絶対にAを好きだ」というのが、本来的に正しい好き・嫌いの感情だと思うのだ。
 こんなに激しい怒りを感じてしまうのは、私の中に、集団の和よりも個の意思を尊重すべきだという美学があるからである。私はこの美学が強すぎるせいで、学生時代はとにかく馴染めず、クラス内でハブられたこともあった。それでも自分の好き・嫌いを尊重してきたので、そういったリスクを負わない人のことが人一倍許せないのだろう。そうなると人の怒りというものは、個人の後ろ暗い思い出とも密接に関わっているかもしれない。

 先日とある知人が、実は大麻を吸い始めたのだと言ってきた。大麻所持は日本の法律では禁じられているが、その是非はここではいったん置いておく。私が「なんで吸い始めたの」と尋ねてみると、「知り合いの人が一緒に吸おうよって熱心に誘ってきてさ。俺の分を調達してわざわざくれるもんだから」と言う。私は「法を犯すなら自分の意思でやれよ。『人に誘われたから』って理由一番ダサいよ」と、気づいたらキレていた。彼の振る舞いが「覚悟を持たずに罪を犯す人」のように感じられたのだ。
 そのことを別の場で話したところ、裏社会に精通するその人は「いやでも大麻って、自分と他人の境界を曖昧にするためにあるものだからなあ……」と、相手に同情するように言った。それを聞いたとき、自分の大麻に対する知識不足を反省するとともに、往年の名ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』で窪塚洋介が言う「悪いことすんなって言ってんじゃないの。ダサいことすんなって言ってんの。わかる?」という名台詞みたいなキレ方をしてしまったなということに気づき、すごく恥ずかしくなってきた。別に自分や他人に危害があったわけでもなし、今考えるとあそこまで言わなくてもよかった気がする。相手は全然気にしていないようだったけど、件の知人には後日謝った。

 優れた短歌というのは、主体の心中だけに存在した景色が、他人にも伝わる形で巧みに言語化されている。私は短歌に触れるたび、その人の心の中にしか存在しない景色って、どんなものであれ美しいなと思う。想像世界の出来事や、喜び・悲しみ・そして怒り。社会的常識からすれば妄想という言葉で片付けられかねないものだけど、社会の周波数に合っていないからこその味わいが生まれ、詩歌というのはそういう幻みたいなものを掬い取る文芸だ。許せない出来事に接したときのあのウナギは、私の心に確かに存在した。あの手触りを、匂いを、感じとることを忘れないでいたい。そして大麻の一件を踏まえて、その怒りを発話するべきかどうかは別の問題であることも、忘れないでいたい。

 

(第8回へつづく)