手を握らないで人間にしないで ここが地獄だと気づいてしまう
上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』(書肆侃侃房)収録
痛みに鈍感である。
小さい頃から転んでも泣かないし、注射も歯医者も怖がったことがない。心の痛みにも鈍くて、ストレスが溜まっているのかもしれないということはいつも、連日続く微熱や蕁麻疹の発症によって初めて自覚する有様だ。
数年前に会社の健康診断で胃カメラ検査を受けた。看護師さんが力を抜いてくださいねー、上手ですよーと褒めてくれ、カメラはすいすいと私の体に入っていった。胃にカメラが到着するやいなや、医師は看護師さんに「……これって三つまでしか書けないんだっけ?」と言った。どういう意味だろうと思ったが、私は口からカメラをぶちこまれ、唾液や鼻水をだらだら排出し続けている状態だったので、発言の意図を聞くことは叶わない。
その後カメラを抜き取ってもらい、少し休んでから医師に呼び出された。
「上坂さん、おそらく十二指腸潰瘍だと思います。空腹時に鳩尾のあたりが痛む感じしませんでしたか?」
全然気づいてなかった。私は「空腹時……いやー、お腹が減ったらご飯を食べるのでわからないですね」と馬鹿みたいな返しをした。医師は事務的に「そうですか。詳しい検査結果は後日送られてくると思うので、必ず再検査を受けてくださいね」と言った。そのあと送られてきた健康診断結果を見たら、所定の用紙には胃腸検査で見られた異変が記載される欄が三行あり、そこには「ナントカナントカ胃炎」「ナントカナントカ胃潰瘍」「ナントカ性十二指腸潰瘍」と、漢字ばかりの文字がみちみちに並んでいた(詳細は忘れた)。「三つまでしか書けないんだっけ」という医者の発言はこれのことだったのか……。欄が足りなかっただけでもしかして四つ目以降もあるのかと震えたが、再検査して投薬治療を経たところ、一応無事に治った。最初から最後まで痛みは全く感じないままに、あのとき胃と腸が終わっていたらしいということだけを知った。
十代の頃は生きるのがとにかくしんどかった。姉から毎日虐められて、両親は喧嘩が絶えず離婚寸前、学校にもうまく馴染めなかった。自分の狭い世界を見渡しても悲しみや痛みや辛さしか見つからず、私にとって人生とは、日常とは、ずっとそういうものだと思っていた。平穏な日常を送ったことがある人にしか、地獄は感知できない。だから自分のことをかわいそうだとも思っておらず、ただ、人生ってあんまり楽しくないなという実感だけがあった。不幸に慣れて、物理的にも精神的にも痛覚がどんどん鈍っていって、辛いことが起きても動じなくなった。心の痛覚を封じるといくらか楽になったが、同時に、喜びや楽しみもすべて感知できなくなった。このときの後遺症みたいなもので、私は未だに痛みに鈍いのかもしれない。
小説や映画のようにわかりやすい「悪者」とか「地獄」とかって、現実にはあまり存在しない。雨垂れが石を穿つように、痛みに気づかないほどまろやかに、少しずつ、心を削っていくのが現実だ。やばいと気づいたときには、心はもう元の形には戻れなくなっている。
そこから感受性を取り戻すまでにはとても時間がかかった。
会社の仕事を頑張って多少の自信を得て、二十五歳くらいで初めてお金に困らなくなって、生まれたての子猫を飼うことになって、信頼できる人と出会って、友人に恵まれて、短歌を始めた。苦しみは渦中にいるあいだは判断ができないから、「あの頃は悲しかったんだ」「辛かったんだ」「腹が立ったんだ」ということを、幼かった自分を抱きしめるように、一つずつ認めていった。そうして、大切な人たちと桜を見たり海を見たり山を見たり雪景色を見たりしたとき、「綺麗だ」「嬉しい」「楽しい」と思う心が、少しずつ少しずつ帰ってきた。まだ人よりは乏しいかもしれないけど、それでも本当に良かった。
現実は辛すぎるから、何にも感動できなくなったとしても、辛さを感じなくて済むほうが良い、そっちの方がマシだという意見もあるかもしれない。でもそのルートはおすすめできない。人間が感受性を手放すと、あまりにも生きている意味が無さすぎるから、ふとした瞬間にすぐ死が頭をよぎるようになってしまう。
でもこんなクソみたいな世界に勝手に生まれさせられて、普通に死にたくなるなんて、予定調和すぎて癪に障ると思いませんか。私たちが感受性を保って生に齧り付くことは、こんな世界に対して唯一できる反抗であり、デモ活動になり得ると思う。世界中の人に死なないでほしい。生を全うしてほしい。感情を手放すくらいなら、最初は怒り百パーセントでもいい。生きる原動力は、大体感情から生まれるから。
ちなみに私の胃と腸が終わっていたのは、それなりのストレスと、ピロリ菌に感染していたことが原因らしかった。胃がんを発症するケースの多くがピロリ菌感染によるものだと言われており、早めに駆除しておけばそのリスクを大幅に低下できる。たまたまこの検査を受けていたとき、私は漫画『進撃の巨人』を一気読みしていたときで、主人公エレンの「駆逐してやる!! この世から……一匹残らず!!」 という台詞は、私のピロリ菌への思いと深く重なって、変な感情移入をしてしまった。
世界中の人に死なないで欲しい。だから、どうか全員健康診断に行ってほしい、そして全員ピロリ菌検査を追加してほしい。ピロリ菌検査は、スタンダードな健康診断ではプランに含まれていないことが多いから、主体的に追加オーダーしてほしい。皆もピロリ菌を一匹残らず駆逐した方がいい。
夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したとまことしやかに言われているけど、そのノリで言えば私にとっての「I love you」は、「毎年絶対健康診断行ってね」になる。全員健やかに暮らしやがれ。この地獄みたいな世界に抗って、できるだけ皆幸せになれ! 馬鹿野郎!!