最から読む

 

 ふたりは店を後にすると、始発までしばらくカラオケで時間をやり過ごした。歌えるような気分ではなく、ただソファに横になっていた。三須美の話に鎖のように絡み取られ、体が重たかった。由希から話を聞いた時もそうだったが、ヒロの過去の話に、ぐったりとやられてしまった。自分たちはヒロじゃない。当事者じゃない。ヒロの傷を背負うことなんてできやしない。他人だ。どこまでも他人なんだ。だからこそ、ヒロがつらさを分かち合いたいと思えるような友だちでいたい。できたら、いつまでも。
 始発で帰路に着いた。電車の中で春崎がうつらうつらとしていると、さやかが「春崎、さっきの店で泣いてたね」と声をかけてきた。
「最近泣いてばっかりじゃない? 春崎って、そんなにナイーブだったっけ?」
「え?」
「なんか、やさしくなったよね?」
 ナイーブとやさしさは、違うんじゃないか? そう思うが、眠気で言葉がぼやけたようになって、「うん?」としか言えない。
「ヒロに似てきてない?」
「ああ、そう?」
 うれしいような気がする。そのことを、家に帰ったらちゃんと言葉にしようと思って、目を閉じた。

 目を覚ますと山手線の西日暮里駅で、いつの間にか隣で眠っていたさやかを慌てて起こし、千代田線に乗り換えて根津駅で降りた。人のいない日曜日の早朝、マンションの方へと坂道を上った。
「そういえば、ここで俺たち別れ話したんだっけ」
「うーわ。懐かし」
「なんでケンカしたんだっけ」
「思い出せないな。ケンカするほどのことだったっけ」
「大事だったんだろ。ケンカすることが。あの時の俺たちには」
 さやかがふざけるように背中を叩いてきて、「いってー」と春崎が言うと、思っていた以上に声が響いたから慌てて口を噤んだ。
「おかえりー」
 玄関を開けるとヒロが言った。
 いつものような口調だったが、それは「ような」と思ってしまうほどには、ふたりにはどこか緊張した声色に聞こえた。
「どうかした? ヒロ」
「いや? なんで?」
 と言うので、それに合わせてふたりは微笑んだ。
 春崎とさやかは、三須美という男と出会ったことをヒロに説明した。
 そして、さやかが録音していた音声をヒロに聞かせた。
 三須美の声をそのまま伝えるしかないと思った。
 どうしたって、つらい話だと思う。ヒロはショックを受けるかもしれない。だとすればせめて、正確なかたちの傷つきであった方がいい気がした。
 由希さんの時も、録音させてもらえばよかったな。
 三須美の話が終わると、さやかが「三須美さん、ヒロの『悪いこと』が自分のせいなんじゃないかって気にしてた」と言った。
「まさか! あの頃の僕はちょっと混乱してた。それだけだよ。誰かひとりのせいになんてできない」
 あの頃の?
「三須美さん、元気そうだった? 懐かしいなあ」
 元気そうだった? 懐かしい?
「えっ……? ヒロ……?」
 ヒロって、そんな目だっけ。瞳の中を、突然なにかが走り抜けたみたいだ。悲しみも、よろこびも。駆け抜けたなにかに引っ張られたみたいにきらめきが差している。いつになく、落ち着いた声だった。
「全部、思い出したんだ」

 ヒロの話はこうだった。
 昨日、春崎とさやかが出かけた後、何時間も「再生中」のまま放置されていたCDプレイヤーから、突如、音声が流れたのだった。
「隠しトラックって知ってる?」とヒロは言った。「昔のCDアルバムにはたまにあったんだ。全ての曲が流れ終わって、何十分か何時間かそのまま再生し続けると、クレジットには表記されていない隠れた曲が流れ出すってことが」
「それは、なに? そういう遊び心みたいなもの? よく知ってるな。そんなこと」
 三須美の影響だったりするんだろうか、と春崎はまだ整理のつかない頭で思う。
「プレイヤーの中のCD、無音が何十分も続いたあとで、突然音声が流れ始めた。これを聞いて」
 ヒロが再生ボタンを押すと、音声が流れ始めた。
「あーあー」と声がした。いっしょに、ぱちぱちとざらついた音がしている。
「聞こえてる?」
 と声が続くと、ヒロの声だ、と春崎の目から涙が流れた。
 また泣いてる。確かに俺、なんかナイーブになってるか?
 目の前にヒロがいるのに、その声を聞くと、生きてるヒロだ、と実感した。
 大学生の時の、俺たちといっしょにいたヒロだ。
 しー、と幽霊のヒロが微笑みながら指を立てたから、春崎とさやかは耳を澄ませた。
「僕の人生にすごいことが起こったんだ。だからこうして記録しておこうと思う。CDってレトロだけど、モノとして声を残せるっておもしろいよね。今日は僕にとって記念すべき日なんだから、僕は、感謝したいんだ。由希、三須美さん、いっしょに働いた仲間たちに。母と父には、感謝なんかしないけど、ふたりがいたから今の僕がいる。僕がどういう人間に育ったのであれ、それは事実だ。
 はじめに、人によっては聴いていてつらいかもしれないことを話します。だから、今、心が弱っているなあって、つらくてどうしようもないって感じている人は、ここで停止ボタンを押してくれると僕としてはうれしい。
 といっても、この音声は、誰かに聴いてもらうために残しているわけではないんだけど。なにが起こるかわからないから、念のためにね。
 僕について、少しだけ話そう。
 僕はね、ずっと、死にたかったんだ。自分のことが嫌で仕方がなかった。どうして僕はこうなんだろう。普通になれないんだろうって、子どもの頃からずっと、何年も苦しかった。傷つけられたり、自分を傷つけたりすることで、ようやく僕はここにいるんだって思えるんだ。そんな風に、何年も思い続けてきたんだ。いつの間にか僕は、疲れ果ててしまった。
 でも、出会った人に救われた。最初にも言ったけど、由希、三須美さん、それに、僕と友だちになってくれた春崎とさやか。
 今日ね、朝起きて、カーテンを開けると、まぶしい光が目に飛び込んできたんだ。窓を開けてベランダに出ると、風が気持ちよかった。小さな鳥たちが鳴いていた。じゃれ合うように飛び立って、空に螺旋を描いてどこかに飛び立っていた。たったそれだけのことで、今日はいい日かもしれない、そう思えた。そんなことを思うのは、生きていてはじめてだった。下を向くことしかできなかった僕だけど、やっと、ただ普通に前を向いてもいいのかもしれない。大げさかもしれないけど、そう思ったから、僕はまだ、生きていける気がするんだ。これを聴いてる君は笑うかな? この録音は、死ぬのをやめた記念として残したんだ。君が、未来の僕自身なのか、それとも他の誰かなのか、今の僕には知る由もない。僕のこの気持ちは、誰にも知られないまま、このCDごとどこかに消えてしまうかもしれない。第一、今自分で話していて、ちょっと恥ずかしいしね。再生してもすぐには見つからないところに隠しておくことにするよ。もし運よく僕を見つけた君は今、どんな風に生きてる? 楽しい? 人生に価値なんてないと思ってる? どんな君でもいいと思うんだ。どんな君でも素敵だって、僕は、無責任に言ってしまおう。だって、録音の声だけの僕は君に会えっこないんだから、これくらいのわがままは許してよ。もっとわがまま言っていい? 君がどんな選択をしようと、ひとつも間違ってないんだよ。できたら僕は君に、生きてほしいなって思うけど。じゃあね。元気でね」
 しばらくざらついた音だけが続いたが、もうなにもないらしく、ディスクの回転がゆっくりと止まっていった。
「これを聴いた瞬間に、頭の中がパッて光ったんだ。まぶしいって、そう思ったら、なにもかもを思い出してた」
 つらさも喜びも溶け合って、すべてひっくるめてヒロは、微笑んでいる。
「これは、僕が死ぬのをやめた時に録音したものなんだ。大学二年の時に録音して、それから今まで、死のうと思ったことは一度もない」
「え?」
 と、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたさやかが言った。
「わかったんだ。死にたかったわけじゃない」
「じゃあ、なんで」
 なんで死んじゃったんだよ、と春崎が弱々しい声を出すと、ヒロは、「あのー。それが……」と照れと申し訳なさが半々という感じで言った。
「思い出のために。僕は、拾おうとしたんだ」
「拾う?」
「覚えてる? 昔、三人でプリクラ撮ったじゃん。潰れかけのゲームセンターで、めちゃくちゃ古い機種の、背景が三種類くらいしかないショボいのでさ。僕、それ、気に入ってて、ずっと財布に入れてたんだよね。今年の三月の、あの日。バイト終わりに歩道橋の上で夜風に当たってたら、ふとこう思ったんだ。あの録音を録った時みたいに、生きてるのって悪くないなあ、って。それで僕は、ふたりのことを思い出したんだ。さやかとも春崎とも最近会ってないけど、どうしてるんだろう、って。あはは。すぐに連絡したらいいのに、僕は財布からプリクラを取り出してね、思い出を噛み締めるみたいに、じっと眺めた。
 それが、風で飛んでしまったんだ。プリクラ拾おうとして、歩道橋から身を乗り出して落ちてしまった。それだけのことなんだ。それだけだった」
「……は?」間の抜けた声が出た。「なんだよ。ふざけんなよ。ふざけんなよおお」
 春崎はヒロの手を掴んだけれど、やっぱり、なににも触れていないような隔たりの感覚があるだけだ。
「なにそれ。悲しい。悲しいよ」さやかは、あー、と両手で顔を覆った。「ほんとに悲しいと、悲しいってはっきり言っちゃうもんなんだね」
 ヒロは困ったように微笑んだ。
「僕は、運が悪かったんだね。運が悪い方に振り切れちゃって、だから、ふたりの前に現れたのかな。ふたりと過ごしたこの三か月くらい、本当に楽しかったよ」春崎とさやかを交互に見て、ため息を吐くように微笑んで、何度か自問するようにまばたきすると、今度は心の底からよろこぶような笑顔を見せた。笑顔を、見せてくれた。「ありがとう。これまでの不運を全部なしにできるくらい、最高の時間だった」

 ふたりはその扉を忌々しげに見つめた。
 中央に縦長の採光窓のある、濃いキャラメル色をした木目調の重厚な扉。
 今日も、さやかの両親とはケンカばかりだった。
 けれど、回数を重ねるうちに進展を感じるようになってきたのは、春崎の気のせいだろうか。月に一度だから、さやかが両親に離縁を告げられてからもう六度目の訪問になる。その度にだんだんと、言い争いはヒートアップしている。寡黙なさやかの父親の口数は増え、母親の方はいよいよ口の汚さを隠さなくなってきた。そのことが春崎には、なんだかいいことに思えるのだ。本当にムカついてしまう瞬間も多々あるけれど、気持ちを隠さないでいられる関係になったことに、清々しささえ覚える。
 両親との離縁のきっかけは、ホテルの創作中華料理店で会食をしたあの日だった。
 さやかの友人という他人に見られたことが大きかったのか、さやかと春崎の関係は、さやかの両親にとっては許し難いものになってしまった。
 母親から電話で一方的に、「もう家の敷居をまたがないで!」と言われた時はさやかも落ち込みはしたが、その一時間後にはもう、「縁を切るなんて絶対にさせない」という強い気持ちをたぎらせていた。
 自分と春崎のいつまでも半端な関係を納得させたいわけではなかった。
 そうではなく、離縁というかたちで受け入れられないものを徹底的に排除するというその意思表示がさやかには我慢がならないらしかった。
「私は変わらないし、あの人たちを変えようとも思わないけど、ただ認めさせてやる」
 さやかはそう意気込んで、月に一度、春崎を連れて両親の家にいった。
 敷居をまたがせないと言っていたさやかの両親も、結局は家に上げる。
 けれどそこからは、お互いに譲らない言い争いばかりを繰り広げるのだった。
 このケンカがどうなっていくのか、春崎にはわからない。それでも、一年ほど前に結婚の挨拶にきた時よりも、さやかの両親になんでも話せるようになったのは確かだった。
 高級住宅街を駅へ向かって歩いていると、肉じゃがかなにか、家庭料理のにおいが漂ってきた。そのにおいに、もうさびしさは感じない。ただ、空腹を覚えるだけだ。
 これから自分たちがどうなっていくのかということへの不安は相変わらずあるけれど、それは、今までよりも少しは自由な不安だ。結婚も離婚も、どうでもいい。そんなのに囚われるのはバカみたいだ。だって俺たちは、幽霊と暮らしたんだから。

 最寄駅に着くと、ドラッグストアに寄ってハンドソープの替えを買った。
「間違えてない?」
 さやかが茶化してくるから、「間違えてないよ」と春崎は言う。
「あっ。でも、どうせなら、引越し先で買った方が楽だったな」
 春崎の言葉に、「あ~」とさやかは坂を歩きながら空を見上げた。
 通知音がしたので春崎がスマホを見ると、社用メールにきたもので、昨日更新したブログ「生産者さんの声」にコメントがついたという通知だった。四か月前から、「知ってほしい! 生産者さんのお悩み」というコーナーを新しく設けていた。その名の通り、「生産者さん」の悩みや愚痴に特化したコーナーで、ネット上では「中年男性の弱音を聞けるいい機会」なんて言われ、地味な人気を得ている。
 さやかは住宅部材加工の会社を辞めた。規模は小さくなって給料も減るが、ひとつひとつの工程を大事にする事務所へと転職した。
 なにかが少しずつ変わっている。その変化は、生活を続けていると当たり前に訪れる類のものと言ってもいいのかもしれない。けれど、変化のひとつひとつを噛み締められるようになった気がする。
 家に帰ると、家具のほとんどがなくなって広々とした空間に迎えられた。引っ越しはまだ先だが、二週間ほど前から荷造りを始めている。大量にあったドライフラワーも全て処分した。ヒロと過ごした痕跡はもうほとんどない。ただ、思い出のソファだけは残すつもりだ。
「モノのない部屋に帰ってくる度に、胸がキュッとなる」
 さやかが言った。
「うん」
 と春崎が言う。
 妙に湿っぽい空気に包まれた。数秒後、どちらからともなく笑い声が漏れた。
「なんで笑ってんの?」
 さやかが言い、「おーい」と春崎が周囲を見渡すと、玄関扉から、鼻と膝頭が少しだけ飛び出していた。
「隠れてるつもりか」
「バレたか」
 ヒロの体が、玄関扉をぬううっとすり抜けて現れた。
「おかえり。どうだった?」
「うーん。ちょっと僕の部屋、ふたりと比べて小さい気がするんだけど」
 ヒロは引っ越し先の新居の見学から帰ってきたのだった。内見にもふたりと共にいったけれど、気になって仕方がないからと、今日はひとりでいってきた。ついでに、花畑に寄って〝チャージ〟してきたらしい。
 記憶を取り戻してから、ヒロは自由に動けるようになった。どうしてそうなったのか、他に比べようもないので春崎にはわからないが、今のところヒロは幽霊であることを楽しんでいるみたいだ。
 半年前、動けるようになったばかりのヒロは、ふたりが夜眠っているうちに家を飛び出して、そのまま何日も帰ってこなかった。
 春崎とさやかは、てっきりヒロが成仏したものだと思い込み、不思議な充足感混じりの悲しみに包まれたものだった。ところがある日の夜、ヒロが突然壁をすり抜けて現れたものだから、春崎は悲鳴を上げた。
 きゃーーーーー。
 と長く叫ぶ春崎を咄嗟に撮影した動画を、さやかは今もふたりの前で再生した。
「いつまでそれでからかうんだよ」
「だって、かわいいからいいじゃん」
「ねえ、僕の話聞いてた? 部屋、ふたりの方が広いのなに?」
「広さは変わらないよ? 天井がちょっと低いだけじゃん。その代わり窓がひとつ多いから、遜色なくない?」
「えーじゃあ、引っ越したらさやかの部屋と替わってよ」
「うーん。まあ、いいけど?」
「え? いいの? やったー」
「浮いてる浮いてる。万歳して浮き過ぎだって」
 天井近くに漂うヒロを見て、春崎はふと思い出した。
「あ! あのさあヒロ、ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「ヒロが、何年か前にSNSにあげてたやつ、あれ、なんだったんだろうなって。ほら、ええと、そう、『自分とはさよなら~』みたいな」
「うん?」
 春崎はSNSを遡って、そのつぶやきをヒロに見せた。
 もう、僕とはさよならだな。
「ああこれ、なんだっけ? あー、えっと? スマホ買い替えなきゃと思って書いたんじゃないかな」
「は?」
「だから、もうスマホと僕はお別れだなって」
「はああ?」
 ヒロは春崎の言葉を無視し、「そうだ!」と手を叩く。
「ソファ買い換えようよ。あの黄色いソファ、もう破れてるじゃん」
「いいの? あれ、ヒロとの思い出が……」
「思い出はさあ、これから作れるし。ソファはきれいな方がいいよ」
「ほんと? 実は私も、言い出しにくかったんだけど、ソファはきれいな方がいいと思ってた。春崎はどう?」
「ええ? ふたりともガチ? じゃあ俺、ずっとこれに座る。俺だけはこのソファ使い続けるから」
「ふふ」
 さやかが笑う。
「なににやけてるんだよ」
「別にぃ?」
「でもまあ、春崎が使うなら、しょうがないから、僕も使い続けようかな?」
「私も」
「なんだそれ」
 ぼろぼろのソファに三人で詰めて座った。スマホで家具のカタログを見た。新しい生活にはなにが必要かと話し込んだ。春崎がふたりの肩に手を回した。しあわせだって、ふたりに伝えようと思った。しあわせなんて言葉にしたことがなくて、たった四文字なのに緊張した。「しあわせだなって」と言うと、さやかとヒロからものすごくにやにやした顔で見られたから、「しあわせなんだよ!」と叫ぶように言った。網戸から風が流れてくる。外を歩いている誰かが、「春だなあ」と言うのが聞こえた。

 

(了)