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「あ、ここって、そっか、ふたりの家か。ふたりって今もつきあってるんだね?」
「あー、それは」春崎は曖昧に言って、「てか、俺たちのことはわかるんだな?」と聞いた。
「それはね、うん。そうだね」
「どこまでを覚えてる?」
「どこまで? そういう風に聞かれると、よくわからなくなっちゃうな。自分の名前はわかるよ? 春崎のこともさやかのことも。でも、大学時代に住んでたマンションの名前とかはもう忘れちゃったし、昔よくいってたご飯屋さんの名前も思い出せない。でもそれって、みんなにもある、普通のことだよね。だから、どこまでって聞かれてもなあ」
「じゃあ……この間まで暮らしてたマンションの名前は?」
「えっ? えーっと。あれ……? なんだろう。僕が、こうなるまでに借りてた家ってことだよね。あれー? え、その家って、どうなってるの? 僕がこうなって、解約とかは誰かがしてくれたのかな」
「そういうのは、大丈夫だと思う。妹さんがしてくれてると思う」
 さやかが言うと、ヒロは驚いて目を見開いた。
「妹? 僕に妹がいるんだ?」
「それも、覚えてないの?」
「最近のことは? どこで働いてたとか、誰と仲よくしてたとか」
 ヒロは少し考えてから、困ったように首を振る。
「俺たちに会う前の、もっと昔のことは?」
 さっきよりも早く首を振った。「……ていうことはつまり」とヒロは言った。
「僕は、ほとんどのことを覚えてないってこと? 記憶がないってこと? それってさあ、記憶喪失じゃん!」
 ヒロはどうしてか、それがワクワクすることであるかのように言った。それから、心配そうなさやかと春崎に、「ごめんごめん」と言った。
「ちょっと自分でも、どういうテンションでいればいいのかうまくわからなくてさ。だって、幽霊になるのなんて。ね。はじめてだし」
 さやかはヒロの言い分に「それはそうだね」と笑った。
「ヒロ、どうなってるの? なんで急に話せるようになったの? ていうか、なんでいるの? いてくれてうれしいけどさ。普通に怖いよ。幽霊なんだもん」
「僕だってそんなの。え。僕って、いつからここにいる?」
「二週間くらい?」
 さやかが春崎を窺うように目を合わせてきたので、「だね」と春崎は同意する。
「二週間!? その間僕、なにしてたの」
「ただ立ってた。ここにずっと。他になにもせずに」
「なにそれ」
「こっちが聞きたいよ」
 さやかはため息を吐いて、微笑んでいる。「そもそもさ」と春崎が聞いた。
「そういう時間感覚とかって幽霊にもあてはまるもんなの?」
「どういうこと?」とさやかが言う。
「いや、俺たちと時間の流れ方が違ったりするんじゃないかなって。どうなの?」
「僕に聞かないでってば」
 そう言うとヒロは、今はじめて動くことができると気がついたみたいに、脚を陸上選手のように高く上げ、もう片脚もそうやって、足踏みをした。「なんだこれ」と自らの体の動きそのものに、はじめておもちゃを与えられた子どもみたいによろこんでいる。それから屈伸をしたり、伸びをしたりし、家の中をいそいそと歩き回った。テーブルの上のテレビのリモコンを持ち上げ、キッチンへいって冷蔵庫を開け、ガスコンロのつまみを回して火をつけて「わっ」と驚いている。
「モノに触れられるんだ!?」
 とさやかが聞くと、「そりゃそうでは?」とヒロは言った。
「これってさあ、俺たち以外の人が見たらポルターガイストみたいに、勝手にリモコンが宙に浮いてるみたいに見えるわけ?」
「ええー、どうだろう。でも、そうなのかも」
 そう言ったあとさやかはヒロにこう聞いた?
「さっきから楽しそうだけど、もしかして、そういうのも覚えてない? 冷蔵庫の中はつめたいとか、コンロからは火が出るとかも」
「ううん。そういうのはわかる」
「わかるのかよ!」
 と春崎。
「わかるんだけど……なんていうかな、なんでもかんでも新鮮に見えるっていうか」
 ヒロは少し照れたようにそう言うと、「ここって何階? 外、見たい! マンションの外観とかも見てみたい」と玄関のドアノブに手をかけた。
 開いた扉から外へ出ようとしたが、できなかった。
「え? なにこれ? なにかにぶつかってる? これ以上前にいけないんだけど」
「あー。はいはい」
 と春崎には、意味がわからないなりに直感として理解できる気がした。ヒロの体に触れた時の透明な壁にぶつかっているような感覚、あれがヒロにも訪れているんじゃないかという気がした。
「家の外に出られない?」
「うーん。そうみたい」
「そうかあ」
 ヒロには気の毒だけど、いろいろと不思議なことが起きすぎて、そういうこともあるか、と思えてしまった。そういう制約というか、家の外には出られないという縛りがあるのは、なんというか、“幽霊っぽい”と思ったのだ。
 ヒロは外に出られないことを残念がってはいたが、さしてショックを受けた様子でもなくリビングに引き返した。「へー。いっぱいモノがあるんだね」と、お正月に気心の知れた親戚の家にやってきた子どもみたいに家具にべたべた触れたり、モノを半端に持ち上げては戻したりした。
 ソファの後ろに落ちていた向日葵を持ち上げ、「これ、枯れてるよ?」と言った。それを聞いてさやかが、「ほら、やっぱり、関係あるんだよ!」とよろこんだ。
「そうなのか?」と春崎は言った。「そうなのか」とつぶやくように繰り返すと、突然、胸の中にあたたかいものが生まれた。
「俺、ちょっと花屋もっかいいってくる。あるだけの向日葵を、あるだけの花を買ってくる」
 ふたりにそう告げて、家を飛び出した。
 夏の夜はもう不快ではなかった。とびきりの暑さも、走り出したくてたまらないこの体も、ヒロが蘇ったかのような奇跡を讃えたくて仕方がないみたいに、エネルギーに満ちていた。花屋へ向かって走りながら、春崎は不思議な思いに駆られていた。自分の一挙手一投足もヒロに関係があるのだとどうしてだかそう思って、思い切り腕を振って花屋へと走った。
 花屋の店主は、過呼吸になる寸前といった様子で息を切らし、水中から現れたみたいに汗だくの春崎を見て唖然としていた。「あの、さっき買われたお花に、なにかトラブルでもありましたか?」とおそるおそる春崎に聞いた。春崎はその質問にはこたえず、吐きそうになりながらこう言った。
「……あの、あるだけの花を、ウッ……ぜんぶ、ください」
「えーっと、あるだけ、というのは?」
「全部だ! 早く!」
 店主は、よほど春崎の表情に鬼気迫るものを感じ取ったのか、すでに受注している分や明日の営業用に必要な分を除き、店にあるほとんどの花を売ってくれた。向日葵、立葵、デルフィニウム、ラベンダー、スターチス、ハイビスカス、アンスリウム、アスチルベ、ペチュニア、インパチェンス、ジキタリス、ブーゲンビリア……。
 店主は大量の花をいくつかの束にして英字新聞に包んでくれようとしたが、春崎は支払いを済ませると、ひったくるようにして両手いっぱいに花を抱えた。そのままのっそのっそと、着ぐるみの頭部でも持っているかのように、前もろくに見えないおぼつかない足取りで店をあとにし、バランスを保てるようになると、マンションがある方に向かって走り出した。途中ですれ違った人たちは、猛スピードで花びらを撒き散らしながら駆けてくる色とりどりのかたまりを見て悲鳴を上げたり、動画を撮ったりした。
 マンションに着くと、両手が塞がって鍵を取り出せず、なんとかしてオートロックに部屋番号を入力して呼び出した。
「……春崎、だよね?」
 さやかの声がした。
「そう、だけど……」
 ゼェゼェと春崎は息が荒い。
「あーよかった。なんか、そういう花だらけの不審者かと思った」
「不審者って」
「いるかもしれないでしょ? そういう人も」
「あの、開けてくれ……」
 エントランスのドアが開き、エレベーターに乗って五階で下りた。鍵の開いている玄関ドアを開けると、「ぎゃあ!」と悲鳴が聞こえた。
「……いや、なんで……ゼェ……ヒロが驚いてるんだよ」
「だって。そんな花だらけの怪物見たことないんだもん」
「あのなあ。不審者とか怪物とか、おまえら」
 春崎は数え切れないほどの花を床にぶちまけると、倒れるようにその上に仰向けになった。
「はあ、疲れた」
 春崎の体の熱気が花々に吸い込まれて、汗臭さと強烈な芳しさが部屋に漂っていく。
 カシャ。
 さやかがこちらを見下ろし、写真を撮ってきた。
「うわーなんか、花の絨毯の上で寝てるって、昔のビジュアル系バンドのMVみたい」
「えー、いいなあ。僕も寝転ぼうっと」
 そう言ってヒロが、春崎の隣にごろんと横になる。
「春崎、どんだけ走ってきたの? 体から湯気出てんだけど」
 と笑っている。
「がんばったんだよ」と春崎は胸を上下させ、天井を見つめながら言った。「あんまり、床に寝転ぶ幽霊って聞いたことないな」
 ヒロの方を見ると、目を閉じていた。
「え。おい……ヒロ?」
 ヒロからの返事はなく、代わりにさやかが小さな声で言った。
「大丈夫。寝てるだけみたいだよ。ほら」
 よく聞くとヒロは寝息を立てていて、よく見るとヒロは鼻ちょうちんを膨らませていた。
「眠る幽霊も俺、知らないんだけど」
「私も。映画とかでも見たことないかも」
 さやかは、花を左右に分けて押し潰さないようにしてから、春崎の隣に横になった。
 顔と顔の距離が、すごく近くにあった。春崎がさやかの方を見ると、さやかもこちらを見ていた。
「ねえ、見て」
 とさやかが言った。顔をヒロの方に向けると、ヒロの周りの花々だけが、急激に色味をなくしながら縮まって、枯れていき、ドライフラワーのようになっていった。
「すごいな。どうなってんだ」
 そうつぶやいてさやかを見ると、目を閉じていた。
 春崎も目を閉じた。ふたりに挟まれて眠った。

 

(つづく)