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 参列者は二十人ほどと多くなかった。大学で関わりがあった連中が大半のようだった。喪服姿の連中がほとんど口数もなく、夜に紛れるように静けさを身に纏っていた。
 ヒロの死因は事故死という以上の詳細は伏せられていた。本当は自殺なんじゃないかという噂話が耳に届くと、硬いパイプ椅子に身を納めながら、春崎はめまいに襲われた。悪い夢だと思った。いつ撮られたものなのか、スーツを着て笑っているヒロの遺影が、視界の中でぐにゃぐにゃと歪んだ。焼香をして、花を棺桶に入れながら顔を拝んだ。死化粧をされて笑っている。こっちを気遣うみたいに笑ってる。
 ヒロは死んでいるんだ。
 自分でも驚くほど、目の前の光景を受け入れていた。
 ヒロの死という一枚の布が春崎の頭にぐるぐると巻きついて、それ以外のことをうまく考えられない。もうヒロは死んでいた。
 ひさしぶりに会うのが、こんなかたちなのか。
 喪主は、ヒロの妹が務めていた。
 ヒロに似た人好きのする顔立ちだった。その分、春崎は彼女に、どこか弱々しいような、人間関係のトラブルに一方的に巻き込まれてしまうような印象を覚えた。
 遺族として出席しているのは、彼女ひとりだった。葬儀が終わると、さやかは彼女に話しかけにいった。
「ヒロは、大事な友だちでした」
 それだけを言った。他に、なにを言えばいいのかわからないようだった。
 ヒロの妹は深々と頭を下げたあと、さやかと、その一歩後ろに立つ春崎に、目を潤ませながらこう聞いた。
「あの、兄は、どんな人でしたか?」
 春崎はその質問に漠然とした違和感を覚えながらも、「明るくて、誰にでも好かれるやつでしたよ」と答えた。
 ヒロの妹は一瞬、えっ、と驚いた顔をした。それから、微笑んだ。
「そうですか。おふたりに会えて、兄はしあわせだったと思います」
 もう一度頭を下げた。
「あの、他のご家族は」
 聞いてもいいものかと思いつつ、春崎は口にした。ヒロの妹は遠くを見るような目つきをした。
「父は三年前に病気で他界していて。母は、兄との関係が悪くて」
「そんな」とさやかがつぶやく。
 仲がよくないからって、息子の葬儀に顔を出さないだろうか。
 力になれることがあればなんでも言ってくださいね、と春崎とさやかは、ヒロの妹の由希ゆきと連絡先を交換した。その場でスマホを出し合うのは不謹慎に見えるかもしれないと思って、葬儀場のメモ帳にそれぞれの電話番号を書いた。
 由希と別れると、さやかが囁き声で、「煙草ないよね」と聞いてきた。
「いや、ないよ。吸うの?」
 ふたりとも学生の時には喫煙者だった。さやかは、当時の推しがアイドルにはめずらしく喫煙者であることをアピールするキャラだったことも相まって、一日にひと箱のハイペースで吸っていた。そのアイドルが突如スピリチュアル志向に走ったのを機に追うのをやめ、それに合わせて禁煙したのだ。そこからはもう何年も吸っていないが、吸いたい気持ちは春崎にも理解できた。近くのコンビニで、ライターとアメリカンスピリットの8ミリを買った。葬儀場の喫煙所で火を点けると、ふたりとも盛大にせた。そのことで、ほんの少しだけ余裕ができた。
「よくさあ、よくこうやって三人で」
 さやかの口調も、心配になるほど暗いわけではない、という程度には回復している。
 一方で春崎は、昔を思い出すことで込み上げるものがあり、頷くので精一杯だった。
 学生時代、よくヒロは春崎とさやかが喫煙所へいくのにつきあってくれた。学部棟の裏に隠れるように設置された、何年分もの、ひょっとしたら何十年分ものいろいろなステッカーがべたべたと貼られまくった灰皿スタンド。閑散としている時もあれば、ひどい時にはケースに入ったつまようじみたいにギュッと喫煙者たちが集まっていた。ヒロにつきあってもらっていることに、春崎は時々申し訳ない気持ちになった。「煙くない? においもつくし」そう言っても、ヒロは「大丈夫大丈夫。つきあいで慣れてるから」なんて平気そうにしていた。
 つきあいって、なんだ?
 煙で肺をいじめながら、春崎は考える。
 今そう思うってことは、当時も疑問を抱いただろう。
 ヒロは、なんて言ってたっけ?
 思い出せない。ヒロのことだ。はぐらかしたのかもしれない。昔から、自分のことをあまり話したがらないタイプだった。春崎はさやかにこう聞いた。
「ヒロのさあ、俺たちに会う前のことってどれくらい知ってる?」
「どれくらいって。あー。あんまり、えっと、全然知らないかも。そういうの話すの、ちょっとしんどそうだったよね。でも、家族と仲がよくないとは聞いたことあったな」
「あーそう。俺それ知らないや。あいつ、俺よりさやかに気を許してたよな」
「そう? 私には逆に思えるけど。二年の時かな。春崎が怪我したことあったでしょ。学祭の設営中の鉄骨が倒れてきたりかなんかして。確か肩を痛めたんだっけ。その時私ら三人でいたじゃん。春崎が医務室で手当してもらってる間、ヒロがしきりに言ってたよね。『僕が代わりに怪我したらよかったのにね』って」
「なんだそれ。なんでヒロが代わりになろうとするんだよ。てか、俺、怪我なんかしたっけ」
「うっそ。自分のことなのになんで覚えてないの」
「俺はカラスのこと思い出すけど」
「カラス?」
「えっ覚えてないか。けっこうショッキングな絵面だったんだけど」
「だからそれなに」
 カラスが死んでたんだ、と言おうとすると、喉がつっかえた。葬儀というシチュエーションがそうさせるのか、なんであれ、ヒロ以外の死の話をすることに躊躇いがあった。
「また今度話す。まあ、そういうこともあるか。その人のどこを見てなにを覚えてるかなんて、ひとりひとり違うもんな」
 そう言った途端、バーナーで炙られるような頭痛がした。強烈な炎で感情が焦がされていた。もう二度と、ヒロとは会えないのだ。悲しみより、「もったいない」という言葉が脳内で点滅した。生きてさえいれば、いろいろなことが訪れただろうに。いろいろな人と出会って、出会った人の分だけ、いろいろなヒロがありえたはずだ。その可能性を想像すると、ひどく悔しかった。一体、なにに? 運命とでも言うべきものに対してだ。もしなにかの歯車が少しでも違えば、こんなことにはならなかったんじゃないか。
 灰を落としてさやかが言った。
「ヒロはいつも、自分のことは二の次だったよね。やさしい子だったから、生きづらかったのかな」

 その男を見かけたのは、斎場に隣接した火葬場に集まっている時だった。
 火葬場の白いばかりでだだっ広い待合の大きな窓からは、申し訳程度の簡素な中庭が見えた。中央の小ぶりな池の周りがライトアップされていたが、あまり綺麗とも思えない。なにかをまともに見たり向き合ったりするとつらくなってしまいそうで、春崎は白いベンチソファに腰掛けながら、どこにも目の焦点を合わさずに中庭の方をぼんやりと見つめていた。
 すると、ある違和感を覚えた。
 池の奥の、照明の光が届かないところがより一層暗くなっていた。まったくの暗やみより、もう一段階濃いようだった。
 立ち上がって、顔を窓ガラスに寄せた。反射の映り込みがなくなると、夜の闇が見えやすくなった。なんだろうと思っていると、だんだん目が慣れてきた。闇のなかに、人のかたちをした黒いものがあるのだった。
 向こうも春崎のことに気づいているのか、微動だにしなかった。
 直立したまま、こっちを見ている。
 不思議と、怖い感じはしない。
「どうしたの?」
 隣でさやかの声がした。春崎は目をあちらへと向けたまま返事をした。
「いや、あそこに誰か」
 横に並んで、ほとんど窓に顔をくっつけるようにして池の向こうに目をやった。
「えー。別になんにも」
 まるでさやかがそう言うのが聞こえていたみたいに闇が動いて、背の高い喪服姿の男が現れた。
 そそくさと照明のもとを通り抜けていくその男は夜なのにサングラスをしていた。表情はよくわからなかったが、左頬に火傷のようなただれた痕があった。
「なに?」訝しげにさやかが言った。「ヒロの知り合い、かな」
「さあ。誰なんだろう」
 それから春崎は「ちょっといい?」とさやかを人気ひとけのない自販機コーナーまで誘い出した。
「俺、やっぱ無理かも。ヒロがその、骨になってるの」
「うん。わかった。あとは私がやっとくから、先に帰っといていいよ」
「ごめん」
「しょうがないよ」
「ひとりで大丈夫?」
「私はむしろ、できるだけヒロのこと見ててあげたいかな」
「そっか。わかった。帰りなんか買っとくものある?」
「うーん。いいかな。じゃあね」
「じゃあ、あとで」
 四月間際の夜はまだ寒かったが、草花を押し潰したような青々とした春のにおいがした。火葬場をあとにしたが、すぐには駅へと向かわなかった。どうしようもなく、歩きたい気分だった。体を疲れさせることで、せめて気持ちが平坦になればいいと願うように、四十分ほどあてもなく八王子の街を歩いた。けれど、どうして、どうして、という思いは湧いてくるばかりだった。これまでヒロのことなんて思い出さなかったくせに、こんなにもショックを受けている。
 かろうじて自分をなんとかしてくれそうだったのは、空腹感だった。二日前に訃報の知らせを受け取ってから、ほとんどなにも喉を通らなかった。葬儀が終わって一段落がついたと体が感じているのか、深刻な状況を裏切るように、「ぐ~」と呑気に腹が鳴った。その大きな音に、春崎は救われた気分になった。俺はどん底だけど、体は普通に生きようとしている。生理現象に身を任せるようにして、駅前のファミレスに入った。
 店内には暖色の照明がこれでもかというほど灯っていた。あたたかいという印象を超えて、見ているだけで暑い気がした。おまけに、換気扇がうまく働いていないのか湿度が高く、いろいろな食べ物が混ざったにおいが皮膚にまとわりついてくる。
 シミのついた制服を着た中年の店員にひとり席に通された。店内は騒がしく、イヤホンでも持ってくればよかった、とぼんやり考えながら賑やかなテーブル席の方を見ると、喪服姿の連中が目に入った。男ばかり五人。大学時代の友人たちだ。ヒロの葬儀の帰りに違いなかった。声をかけようか、それとも店を出ようか。どちらの選択肢も、実行にうつすだけの気力がなかった。
 と、五人組のひとり──連絡をくれた小川だ──がこちらに気づいたようだった。手を挙げて、「おー! いたんだ。こっちくる?」と声をかけて、春崎の返事も待たずに店員に「すいませんあっちの席の人こっちに移動します」と言った。
「U」の字になった席のはしっこに腰掛けた。テーブルにはフライドポテトと枝豆とからあげ、チーズと生トマトが並び、小川とかしわとユースケと米田よねだ東雲しののめはそれぞれ目の前に生ビールのジョッキを置いていた。すでにいくつかが空になっていた。友人の葬儀のあとというより、同窓会のようなあり様だった。
 こいつらも初めのうちはもっとしんみりと、喪に服していたのかもしれない。春崎はそう思おうとした。ひと通り悲しんで、悲しんでいるばかりではどうしようもないと、空元気を出しているだけなのだと。
 この五人と会うのは随分ひさしぶりだった。SNSやグループLINEでは繋がっているから、それぞれの近況はなんとなく知っていた。そのせいでかえって、なにを話すのが正解なのかうまくわからない。挨拶もそこそこにドリンクバーでホットコーヒーを淹れて戻ってくると、小川にこう聞かれた。
「春崎は、花池と仲よかったよな」
「ああ。うん。でも、ここ何年も会ってなかったから、ほんと、びっくりだよ」
 どうしてか、みんなにヒロとのエピソードを話さないといけない気がした。思い出を共有するためというよりは、この場を盛り上げるために。誰に強要されているわけでもないのに、つい、ウケる話を披露するような口調になってしまう。
 春崎は、ヒロとあのカラスの話をした。
 話し終えると、少しの沈黙が生まれた。五人とも、どういう反応をするのが正解か測りかねているようだった。
 ぱん、と仕切り直すように手を叩いて小川が、「そういえば」と明るく言った。
「春崎おまえ、さやかちゃんと暮らしてるんだよな。結婚するんだろ? 見たよ、さやかちゃんのインスタのストーリーで」
 ああ、まあな、と春崎は、どうしてこんな話をしているんだろうと思いながらも、すでに結婚している小川やユースケや柏に向かって、義理の両親とうまくやっていく方法についてアドバイスを求めたりなんかする。
 それから、仕事の話。この場では自分がいちばんいい会社に勤めているようだった。会社名を言うと、他の五人はビンゴ大会で五等の景品を引き当てたような実感のこもらない笑いを作った。仕事の話がフェードアウトしていくと、子育てがいかに大変か、という話題にうつっていった。
「夜泣きがひどくてさあ、ゲームもろくにできないんだからな」と小川は笑った。
「おまえ子どもよりゲーム優先かよ」と東雲。
「そんなこと言ってないだろ。おまえネットに書くなよ」
「炎上だ、炎上」
 ハハハハ、と笑いが起きたから、春崎もそれに乗っかっておく。
 考え過ぎかもしれないが、暗にマウントを取られている気がした。家庭を持っている奴の方が優れている、男としてちゃんとしているのだ、と。
「俺、ちょっとトイレ」
 春崎の声は誰にも聞こえていないみたいに笑い声が続いていた。その場からすっと消えるように席を立ち、うんざりした気分でトイレの個室に入った。便器の蓋に腰掛けながら、英字でタイポグラフィのような落書きがされた喫煙禁止の張り紙を見つめる。
 俺、なにしてるんだろう。
 ため息を吐くと、吐いた息の分だけ罪悪感が体に満ちていくようだった。
 ヒロに対して申し訳ない気がした。けれどその正体がなんなのか、うまくわからない。
 ヒロは、いい奴だった。いい奴だったんだ。
 あいつらなんかより、俺なんかより。
 人の話を、なんのノリでもなく、ただそれだけで聞いてくれた。
 茶化したりしない。ノリに任せたりしない。
 変な奴だったけど、あんな友だちは、もうこれからできないかもしれない。
 ──やさしい子だったから、生きづらかったのかな。
「どうしてだよ。やさしさのせいで死んじゃったら、意味ないだろ」
 強がらないと、自分で冷たいと思うような言葉を吐かないと、明日からまた社会に出て働けない気がした。

 

(つづく)