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 その日以降、キャンパスでヒロの姿を見かけるようになった。向こうから声をかけてくることが多かったが、春崎たちの方からおもしろ半分で声をかけると、ヒロは目尻をくしゃくしゃにして笑顔を見せた。
 ヒロは春崎とさやかの同学年だが、年齢は二つ上のようだった。子どもみたいなヒロ相手に敬語はおかしい気がした。「浪人とか留年とか?」と春崎が聞くと、「ちょっとねー」と返ってきた。その話題についての返答はそれだけだった。
 ヒロといると、そういうことがよくあった。大学以前のことを聞くと、ヒロはきまってはぐらかすような返事をして、微妙な間ができるのだった。普段は距離が近いヒロだったが、プライベートのこととなると口を閉ざした。春崎は、尊重というよりは、まあそんなものだろうと受け流し、無闇に踏み込みはしなかった。自分だって、特別話したいとは思わない。
 春崎は、人の過去だとかはどうでもいい、とさえ思っていた。「今」が大事だった。大学は就職のためのステップに過ぎなかった。それは猶予期間と言ってもよかった。春崎はよくこんな想像をした。足首の周りに、輪っか状になった縄がある。それはまだたっぷりと余裕があって、足を締めつけたりはしていないが、就活、就職、社会人生活が近づくにつれて、ゆっくりと狭まってくる。やがて自分は、縄に繋がれた状態になる。でもそれが働くっていうことだ。自立するっていうことだ。仕方がないからこそ、今を楽しもうと思うことができた。そこまでなかよくもない知り合いと遊んだりするのはめずらしいことでもなかったが、さやかにつきあって共に時間を過ごすうちに、ヒロとは友だちと言っていい関係になっていった。
 三人とも部活にもサークルにも入っていないから、手持ち無沙汰な時間があれば、とりあえず連絡を取るようになった。大学には、春崎がひとり暮らししているマンションがいちばん近かったから、ワンルームの狭い部屋で三人で飲んだりもした。
 ヒロの家にもいったことがある。褪せたクリーム色の外壁に黒ずみの目立つ、築何十年も経つようなオートロックさえないアパートだった。
 ヒロの家の、あまりのなにもなさに驚愕したことを覚えている。廊下に小ぶりのキッチンがくっついていて、その向かいにトイレ、脱衣所と風呂があって、リビングは六畳ほど。間取りは春崎の家とほとんど同じだったが、驚くほどにモノがなかった。
 食器も机も家電もなくて、ただリビングの真ん中に、シーツをかけたマットレスがひとつある。
 隅の方には、洗濯物であろう衣類が雑然と詰め込まれた大きなビニール袋。
 それだけしかない部屋だった。
「なんだこの……これ……」
 春崎はショックだった。
「ここ、もしかして引っ越したて?」
「違うけど? えーっと、二年、いや、三年暮らしてるかな」
「三年、ずっとこれ?」
「そうだけど?」
 そんなの、かわいそうだ。
 こんな空っぽの家で生活していていいわけがない。
 そう思ったのは、春崎だけではないようだ。さやかはヒロのことをやたらと心配した。「ご飯どうしてるの?」「こんだけなにもないと気持ちが……嫌になっちゃわない?」「メンタルとか、その、大丈夫?」
「ええー?」とヒロは笑ったのだ。
「この家ってそんなにおかしい?」
 春崎とさやかは、深刻さを伝えようとぶんぶんと頷く。
「他の人にも心配されたことないか?」
「いや別に。あーそういえば、この家に誰か呼ぶのはじめてだ」
「しんどくならないか? こういう家は」
 暮らしのにおいがしない。三年も暮らしているというのに、この家から未だに、貼り替えたばかりの壁紙やフローリングの清潔さがにおってくるような気がした。それは、さびしいにおいだと思った。
「普通は家ってこんなんじゃないんだ?」
「うん。もっと、なんていうか、生活らしさみたいなのがある」
「生活らしさかあ。そういうの、僕にはちょっと無理だなあ」
「無理?」
 春崎とさやかは口を揃えて聞いた。
「無理だ。無理なんだよね。僕、ダメだ。そういうの想像しようとすると、頭が痛くなっちゃう」
 それは、比喩だとかではないようだった。ヒロは頭を押さえ、なにもないリビングにうずくまった。それなのに、笑っていた。
 思い出の中のヒロは、笑ってばかりだった。本当にそうだった。笑うことしかできないみたいに、いつもにこにこしていた。その笑顔の中に、他の感情を滲ませていたのだろうか。
「頭痛い?」とさやかが、ヒロと同じ目線にしゃがみ込んだ。それからななめ掛けの小さなかばんを前に回して、中のポーチから鎮痛剤を取り出した。「飲む? お水も、持ってくるね」
 春崎はヒロの肩に手を置いた。ヒロは怯えた獣のように、激しく体を震わせた。
「え、ごめん」春崎は驚いて、それから囁くようにこう言った。「触っちゃダメだったか。悪い」
「平気平気ぃ」
 ヒロは涙目になりながら笑っている。さやかが、棚を漁って見つけた紙コップに水道水を注いで戻ってきた。促されるままにヒロは錠剤を飲み込んだ。うう、ああ、とうめくように声を漏らすとマットレスの上に寝転び、気絶したように眠ってしまった。
 春崎とさやかは、困惑して視線を合わせた。ヒロが起きるまでしばらく待ってみたが、その気配もないので、家を出ることにした。
 梅雨の気配もまだない六月の空は、青みがかった灰色の雲に覆われていた。お互いにヒロのことを考えているのだと春崎にはわかった。沈黙をなんとかしようと、「あいつ、ちょっと変わってるよな」と少しの軽薄さを含ませて、わざと半笑いで言ってみる。
「そうだね。はじめて会った。ああいう男の子」
 春崎のような軽薄さはなく、「大丈夫かな」とつぶやくさやかの声には、真心のようなものさえこもっている。春崎の額に汗が滲んだ。これは、焦り?
「あいつ変だよ。どうかしてるよな」
 強い言葉が自分から出てきて、はっとする。本当に俺は、そこまで思っているだろうか。否定したいのか。ヒロを? いや、なにをだろう……。
 さやかはそれには乗らず、「大丈夫かな」ともう一度言う。
「ああいう生活って、風邪ひいたりしたら大変そうじゃない?」
「確かに。毛布でも、買ってやろうか」
 買ってやろう、って。その程度のマウントを取るのに精一杯だった。
 さやかは春崎の思いなど知らず、「それだ!」と指を鳴らした。なにか気に入ったのか、その場でくるっと回って、「それだ!」ともう一度指を鳴らした。
 その足で駅の近くにある、二階と三階がホームセンターのようになったスーパーに寄った。金を出し合い、四千円ほどの無地の毛布を買った。
 アパートへ戻ると、ヒロの部屋がある三階まで階段を上がり、鍵もかかっていなかったから、そっと家の中に入った。ヒロはまだ眠っていた。なにかやましいことをしているような気持ちになりながら、できるだけ音が立たないように毛布の封を開け、ヒロの痩せた体にかけてあげた。
 ヒロはそのことに随分と驚いたみたいだ。
 その次に会った時、ヒロはこう言った。
「寝て起きたら突然そこに毛布があったでしょ!? ええー、なに!? って、超常現象じゃん! おばけでも出た? って僕、びっくりしちゃった」
「へえー、そう」さやかがにやにやしながら言った。
「あれ絶対、ちょっといい毛布だよ。もしかしたら、四千円くらいするかもしれない。やさしい誰かが、駅前あたりで買ってきてくれたのかもしれない」
 ヒロは、あれがさやかと春崎の仕業であると理解しているようだった。
 七月に、例のバンドのライブがあった。早く着いた三人は、会場近くの喫茶店で時間を潰すことにした。夕方で、もう陽は暮れかけていたが、テラス席は蒸すように暑かった。そのことに春崎が文句を言って、席が他に空いてなかったからしょうがないでしょ、とさやかが嗜めた。春崎が、もう中身のないアイスコーヒーをストローで吸って、じぼぼぼと音を立てた。突然ヒロが、「あー、楽しい」と言った。
「僕、こういうことするのはじめてかも」
「こういうこと?」
「友だちとお茶したりするの」
「そうなんだ?」
「意外に見えるけどな」と春崎。
「あの、いい?」とさやかが言った。「ずっとうっすら気になってたんだけど、ヒロってうちらに会うまでどういう感じだったの?」
 ヒロはレモンティーのカップをぎこちなく口に運んだ。
「逆に聞いていい? さやかはどういう感じだった? 春崎は?」
 話を振られて春崎は、しばらく考えてから、「普通、だったな」と言った。そんな言葉になにも集約できるはずはないのに、と思いながら。だいたい、普通ってなんだ? そういう曖昧な言葉を深掘りして自分を見つめるのは、なんだか恐ろしい気がした。
「ほらね」とヒロは言った。「自分のことなんて、みんなあんまりわからない。だから、僕も、うまく言えないや」
 目当てのロックバンドは、アンコールで新曲を披露した。これまでの作風は、世の中のどうにもならなさだったり、ちっぽけな一個人ではどうにもできない、でもどうにかしようともがきたい、といった、一個人であることと世界との間で板挟みになってしまったような歌詞のものが多かった。それだけに、新曲は意外なものだった。それは随分湿っぽく、人生を讃美する曲だった。どんな親も尊い、どんな子も尊い、ということを、なんのひねりもなく、まっすぐに歌っていた。MCによると、初期に脱退した元メンバーに贈るために作った曲のようだった。その人に、子どもができたらしい。
 会場からの拍手はまばらだった。さやかとヒロほどにファンというわけでもなく、テレビでそのバンドのことを知っている程度の春崎も、この人たちがこういうのを歌うのは違和感があるというか、スベってるんじゃないか、と思った。いや、一周回ってありなのか? どういうリアクションをするのが正解なのかわからず、横目でさやかを見ると、苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、俺の抱いた気持ちは間違ってはないんだ、と春崎はホッとした。それからヒロの方を見た。
 いつものようには笑ってはいなかった。
 顔が歪んだようになっていた。それも、怒りみたいなもので。喜怒哀楽の表情の見本があるとすれば、こういう顔だ。そう思ってしまうような。
「おい、大丈夫か」
 春崎が聞くと、ヒロの表情はぬるぬると溶け出すように笑顔に戻った。
「反吐が出るよね」
 さやかは共感してくすくすと笑みを浮かべたが、春崎は、およそヒロの口から出そうにないその言葉に困惑した。
「さっきのあれ、なに? びっくりしたんだけど」
 ライブ会場をあとにし、歌舞伎町のあたりをぶらつきながら春崎は言った。
「だよねー」とさやかが言った。「まさかあの人たちがあんな歌作るなんて。あーあ。歳取って日和っちゃったのかなあ」
「そうじゃなくて、ヒロの……」
 あの表情はなんだったのか、と言おうとして口ごもってしまった。
「僕? ああ」
 ふたりの少し前を歩いていたヒロは、振り返って後ろ歩きしながらこう言った。
「僕のこと、ふたりにはいつか話すかもね」
 それからヒロは「えっ」と言った。なんだ? と春崎は思う。まるでヒロは、春崎たちに気を許している自分に驚いているかのようだった。
 突然、ヒロの目つきが変わった。春崎たちの後ろにあるなにかをじっと見つめたかと思うと、「ごめん。寄るところがあったんだった」と人の群れの中に消えていった。
 夏の間、ヒロとは連絡が取れなくなった。

 

(つづく)