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 とにかく、わからないところの多いやつだった。けれど、振り返ってみてそう思っているだけかもしれない。学生の頃なんて、誰のことも曖昧に理解していた。ひとりひとりの友人知人よりも、その場のノリみたいなものが大事で、空気を読むことで人間関係が回っていた。春崎にとって例外はさやかだった。さやかのことは誰よりも理解しているし、逆もそうだと思っていたかった。
 ライブの日からしばらくの間、ふたりでいる時もさやかは、ヒロのことばかり話すのだった。「今ヒロ、なにしてんのかな」「ちゃんとご飯食べてるかなあ」「またなんか買っていってあげようかな」冷静に考えるとそれは、庇護欲のようなものだったのかもしれない。春崎は最初は、さやかに同調してヒロの話をした。共通の友人は他にもいるが、確かに、ヒロほど変わってて、噂のしがいのあるやつはいない。だから話に乗った。それに実際、春崎の胸のうちにもヒロを心配する気持ちはあったのだ。けれどさやかの口から何度もその名を聞くと、そんなわけはないだろうとわかっているのに、もしかしてさやかは、ヒロに気があるのか? なんて思ってしまう。
 その疑いが、本当に自分自身が抱いているものなのかどうか、わからなかった。男が女の話をして、女が男の話をしていたら、そこには恋愛的ななにかが、「好き」が隠れているはずだ──そう思わなきゃいけない空気を、春崎はその二十年ほどの人生で、肺いっぱいに吸ってきた。その空気をそのまま漏らすように、春崎はこう口にした。
「もしかしてさやか、ヒロに気があんの?」
 その口調には様々な侮蔑が混ざっていた。ヒロみたいな捉えどころがなくてなよなよした男を馬鹿にする気持ち。そんな男のことを好いているのかもしれないさやかを馬鹿にする気持ち。まさかそんなわけないよな、とまるで冗談を言うみたいに春崎は笑っていて、笑っているからオッケーだろ、となにもかもをうやむやにするような。
 自分が、本当にこういうことを言いたいのかどうかわからない。でも、ずっとこういうことが言いたかった気もする。
「なんで?」とさやかは言った。「マジで言ってる? どこをどう見たらそう思えるわけ」
 眉間に皺を寄せながらさやかは続けた。
「春崎にそういうこと言われるの、ショックっていうか、ちょっと信じられないんだけど。うちら、ふたりでヒロとこの三、四か月会ってきたじゃん。遊んできたじゃん。過ごしてきたじゃん。私、ああこういう関係いいなって思ってたんだけど。ただ友だち同士でさ。ヒロがいてくれることで、ちょっと楽だったんだよ。ヒロはさあ、みんなが興味あることに興味がなさそうじゃん。誰が誰とつきあってるとか、誰のこと好きとか、みんなが楽しそうに話してるそういうことをまるで気にしてなさそうで、私にとっては、なんのプレッシャーもなくいっしょにいられる男の子なんだよ。だから、やめてよ。男女の仲とかそういうのにヒロを巻き込むの」
 春崎は頬を押さえた。紙で切ったような切り傷がそこにある気がしたのだが、手のひらはそれに触れられなかった。どうしてか、さやかの言葉に傷つけられた気がした。
 傷つけているのはきっと、俺の方だっていうのに。
「なんのプレッシャーもなくいっしょにいられる男の子」──確かにそうだ。ヒロは、他の男と違って、俺にマウントを取ってきたり、馬鹿にするような感じで女子を品定めしたりしない。ヒロはまるで、自由みたいだ。俺はそんなヒロが羨ましくて、憎たらしいのかもしれない。
「……嫉妬だ。俺の気持ちは。でも、本当にそうだったらどうしようって、心のどこかでは思ってた。さやかが本当にヒロのこと好きなら、俺はショックだなって」
 気づいたらそう言っていた。言ってしまってから、あれ? と思う。
 こんな言い方はまるで、俺がまださやかのことを好きみたいじゃないか。
 さやかもそう思っているのか、目を逸らして、それからうつむいて、それで、心なしか頬を赤らめて、照れてるみたいに見えるのは、やっぱり俺がさやかを好きだからか?
 春崎はさやかの肩に手を置こうとした。抱き寄せたかったのかもしれない。
 かもしれない、なんて自分で思うのは、肩に手が触れた瞬間に、さやかが身を寄せてきたからだった。抱き寄せたみたいな。抱き合っている、みたいな。
 ああ、と春崎は思う。
 俺らってまた、つきあうんだろうな。
 さやかはお祭りが好きだった。
 陽気な騒がしさの中に自分が溶けていくような空気感が好きだと言った。
 その夏、春崎はさやかといっしょに、遠くの夏祭りへとよく出かけた。
 一度目につきあった時とは様子が違っていた。大学一年のあの頃はふたりとも、誰かとつきあっているということが大事だった。そのステータスのようなものを求めて、お互いをアクセサリーとして着飾るような恋だった。誰かに見せるためにつきあっていたとさえ言えた。自分は世間に乗り遅れていないのだ、人とつきあうことのできる勝ち組の側なのだ、とアピールしたかった。それは特定の個人にというより、なにかもっと厄介でふわふわしたものに対してだった。けれど、二度目の交際では、お互い少しは自由でいられた。
 夏の間、どちらかの家に入り浸った。春崎としては、間取りが広くてマンション自体も高級なさやかの家にずっといたかったが、さやかは春崎のこぢんまりとしたワンルームを気に入った。一度目の交際の時は若さに頼ったセックスをしていたが、二度目の交際ではただ抱き合う時間が増えた。友だちである期間を経験したからだろうか? 恋人らしいデートやセックスをするより、小学生みたいにきゃあきゃあ騒ぎながらハグをし、誰への見栄にもならない、取るにたらないことをささやくように話すのだった。
 春崎は、さやかから親のことを聞いた。春崎の家で冷房を限界まで下げ、煮えたぎる激辛鍋を食べていた時のことだった。
「うちの親ってけっこう高圧的なんだよね。なんでだろう。お金持ってるからなのかな。他の人のことを見下すのが当たり前になってるっていうか。そうしないと、本当は自分たちに価値がないって認めることになるのかもね。お金しか持ってないんだ、って」
 春崎の答えは求めていないような口ぶりだった。ただ、そういったことを吐き出せるのは春崎しかいないようだった。
「こういうこと言っちゃう私がいちばん性格悪いよね。育ててくれたことには感謝してるんだけどね」
「いいよ別に」と春崎は言った。「俺の前では性格悪くていいよ」
「あはは」とさやかは笑った。「だから春崎といるといいんだよな。別に春崎ってあったかくないし、私もあったかくしなくていいっていうか」
「うん? 鍋めっちゃ熱いが?」
「え? そこ通じない?」
 へえそう、とさやかは、どうしてか満足そうに微笑んだ。
 春崎の方からさやかに愚痴や弱音を漏らすことはほとんどなかった。さやかの方がたくさん傷ついているみたいだったから、俺の話をしてもな、と思ってしまう。ひとりで歩いていると知らない男にぶつかられる、という話はよく聞いたし、ふたりで外食をすると、さやかだけが飲む時でも、ほとんど必ず春崎の近くにビールが置かれた。どうしたってさやかは「女」で、春崎は「男」で、ふたりいっしょにいると「男女」として見られる。そのことで損をしているのはさやかばかりだった。生活しているだけで消耗してしまうのかもしれない。そんなのってありかよ、と春崎は思う。
 さやかは疲れていた。夏の間、半同棲のような状態だったのだが、そのことでさやかには発見があったようだ。心が疲れてなにもできない時間というのが、どうも他の人には毎日訪れたりしないらしい、ということを春崎と過ごすうちに知って、驚いていた。
「私ももっと、春崎みたいに鈍感に生きたい」
 さやかは冗談のようにそう言った。
「鈍感って、それって悪口だろ」
 俺だってしんどいけどな、とは言わなかった。
 夏休みが明けて九月の後半、講義終わりにキャンパスでヒロの姿を見かけた。ライブ以降なんの連絡もしていなかった。たった数十日近況を知らなかったというだけで、随分ひさしぶりに感じられた。驚いたのは、ヒロが髪を水色にしていることだった。それに、前よりも痩せているみたいだった。
「大丈夫か?」
 なんだか、ヒロに大丈夫かと聞いてばかりな気がする。春崎はヒロの風貌の変化にあやういものを感じたのだが、それを伝えていいものかどうか迷っていると、ヒロはこう言った。
「もうすぐ坊主にするから、いろいろ試しとこうと思って」
「坊主?」
「ケジメのため」
「ケジメって、なんだそれ。古くない? てか、ヒロってそういうこと言うキャラじゃなくね」
「キャラ、ね。僕のキャラって、なんなんだろうね。ねえ、もし僕が本当はひどいやつだったら、僕って、ひどくあるべきなのかな」
「は?」
 と春崎は言った。なにか聞いても、どうせちゃんと答えてはくれないのだろう。思わせぶりなことを言うヒロを鬱陶しいと思う気持ちも、ノリや空気のためじゃない、自分の言葉を持つヒロを羨む気持ちも、どちらもあった。
「お待たせー」
 学内のコンビニに寄っていたさやかがやってきて、「わーっ! ヒローっ!」と女友達を見つけた時のようにはしゃいだ。抱き合ったりはしなかったが、ヒロの手を取ってぴょんぴょん飛び跳ねていた。
 カラスが車道で死んでいるのを見たのは、秋のことだった。風に吹かれてからからとそこら中を転がる落ち葉が、横たわるその体にいくつもひっかかっていた。ヒロは、カラスを見かけるとためらいなく近づいていった。クラクションの音が聞こえていないのか、ヒロは行き交う車を無視して車道を渡った。
 さやかが強引に車を止めてヒロのもとへ駆け寄った。春崎は、信号が変わってようやく近づくことができた。
「もう無理だよ」
 そう言いながら春崎は、ヒロが危険を省みず死んだカラスに駆け寄ったことにただただ驚いていた。
 さやかが、「ヒロはやさしいね」と言ったけれど、春崎には疑問だった。これって、やさしさなのかよ。ただ、命知らずなだけなんじゃないか。
 そのうちにヒロの坊主頭は髪が伸び、わんぱくな小学生のような見た目になった。三人で鍋をしている時、ヒロから、「さやかと春崎は、似てきたね」と言われた。「リアクションも、言葉遣いも、食事中の動作とかも、似てる」
「そうか?」
 春崎としては、ヒロとさやかの方がどこか似ている、と感じていた。性格が似たタイプというか。そのことを伝えると、さやかはこう言った。
「私、逆なんだけど。春崎とヒロが似てるって思う」
「俺とヒロが? どこが」
「全然違うタイプに見えるけど、根っこは怖がりのところとか、しんどそうなところとか」
「しんどそう?」
「あはは」とヒロが笑った。「じゃあさ。僕たち三人は、お互いになれなかったんだね」
 それからも三人で過ごす日常は続いたが、卒業を機に離れ離れになった。実際に距離が離れてみると、あっけなかった。社会人生活の忙しさの中で、どこか浮世離れしたヒロとの記憶はみるみるうちに薄れていった。それでも入社して一、二年の頃は時々、残業している最中などにふと思い出した。唐突に、ヒロってどんな子どもだったんだろうと思ったけど、そういえば、昔のことをあいつは極端に話さなかった。顔を突き合わせていた時のヒロのことしか知らないというシンプルな事実に拍子抜けした。いつかのライブでのヒロの怒りに満ちた顔と、瀕死のカラスを掬い上げるヒロのことが頭に浮かんだ。あいつってどういうやつなんだろう。いっしょにいないと、ダメな気がした。どんな想像の中のヒロも、ヒロそのものではなかった。

 

(つづく)