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 チャイムが鳴った。春崎とさやかは、疚しいことをしていた瞬間を親に見つかった子どものように体を緊張させた。
「どっちが出る?」
 さやかがささやき声で言い、「俺出る」と春崎が頷いた。インターホンを確認しようと春崎が振り返っても、さやかの視線はそれに注がれたままだった。まるで誰かがその存在を確認していないと、それが消えてしまうのではないかと疑っているかのようだった。
 インターホンの画面には、制服を着たふたり連れの警察官が立っていた。二十代くらいの男性警官と中年の男性警官で、後ろに立っている中年の方の警官はマンションのセキュリティを確認でもするようにやたらときょろきょろしていた。春崎が通話ボタンを押すと、若い方が口を開いた。
「通報があったようですが、どうかされましたか?」
「い、いえ。別に……」
 春崎の口調に怪しいものを感じ取ったのか、中年の方がこう言った。
「ちょっと、お宅の方確認させてもらってもいいでしょうか?」
「あ……」
 春崎は窺うようにさやかを見たが、さやかはそれをじっと見つめたままだ。
「どうしました?」
 と若い警官が言う。中年の警官は無線機に向かって何事かを伝えている。通さないと面倒なことになるのかもしれないと、彼らの動作に急かされるようにして春崎は解錠ボタンを押した。
 今度は玄関のチャイムが鳴った。ピー……ン……ポーン、とやけに間延びして聞こえた。前からこんなんだっけ、と春崎は思うが、冷静に考えることができない。背中にぐっしょりと冷や汗をかきながら玄関を開けた。
「大丈夫ですか?」
 中年の警官が手前にいて、後ろの若い方がドアを──閉じられないようにするためだろう──さりげなく手で掴んでいる。
「家の中、見せてもらっていいですか?」
「いや、その。間違えて電話かけちゃっただけなんで」
「間違えて一一〇番しませんよね、普通。そちらの女性の方、大丈夫ですか?」
 さやかは警官たちの方は向かず、監視するようにそれを見つめたままだ。さやかの代わりに、春崎が取り繕った。
「ほんとに、なんにもないので」
「そちらの方とのご関係は?」
「えっと、恋人、じゃなくて、妻です……あ、違う」
 もう違う。
「違うんですか?」
「離婚を、したところで」
「へえ。そうなんですか? 奥さん?」
 奥さん?
「奥さん?」
 と中年の警官が続けて言う。さやかは背中を向けたまま返事をした。こちらに届けるためか、かなり大きな声だった。
「あの、さっき彼が離婚したって言いましたよね。だから私『奥さん』じゃないし、はじめて人からそう言われましたけど、なんかイライラしますね。『奥さん』っていうの。家庭の奥の方に閉じ込められてるみたいで」
 さっきは自分でお嫁さんなんて言ってたのに、と春崎は考えたが、そんなことを言う余裕はなかった。
 中年の警官は眉を顰めたが、さやかの言い分に返事はせず、「ではおふたりは、家族ではないということですね?」と言う。若い方が手帳になにかをメモしている。「でしたら、どういうご関係ですか?」
「どういう関係?」
 離婚届を出したのだから、もう、恋人同士というわけでもないのだろう。
 俺とさやかは、どういう関係だ?
 春崎が答えあぐねていると、中年の警官が無線機になにか早口でつぶやいた。
「ちょっと、お宅の中拝見しますね。いいですね?」
 許可なく立ち入ることはできないのか、「いいですね? 安全が確認できたら我々も帰りますんでね」と言う。
 春崎は断りきれなかった。高圧的な態度のせいで潔白を証明しなきゃいけないような気分にさせられていたというのもあるし、どうせなら、という思いもあった。どうせなら、自分とさやか以外の第三者にそれ、、がなんなのか判断してほしい、と考えた。
 警官ふたりは靴の上からビニールのようなものを履いて家に上がり込んできた。ふたりで家中を引っかき回しでもするのかと思ったが、若い方は逃がさないようにするためか春崎のそばにぴったりくっついて、名前や職業などを聞いてメモを取りはじめた。春崎は聞かれたことに従順に答えながら、中年の警官をちらちらと見た。彼はさやかに質問をしながら、室内を物色していた。
 さやかは、夢から覚めたばかりのような、あるいは夢の中にいるかのようなぼんやりとした口調で警官に話をしている。
「……離婚した理由、ですか? ええっと、あれ、なんでだっけ」
 ねえ、なんでだっけ、とさやかが春崎の方を向いたその時、家を物色していた中年の警官が、足をそれ、、の方へと向けた。そして、今にもぶつかる──というその瞬間、警官はどうしてか九十度向きを変えた。その不自然さに自分で気づいていないみたいに、さやかと春崎に、「変なクスリとかしてないよね?」と言った。
「あの、この家、なんともありませんか?」
 春崎の問いに、中年の警官はため息を吐いた。
「あなたたち以外はなんともないでしょう」

 イタズラでの通報は金輪際やめてくださいね、と強い口調で言い残して警官たちは帰っていった。お邪魔しましたとも言わず、なんの配慮もなく閉められた玄関ドアを見つめながら、春崎はさやかにつぶやいた。
「ぶつからなかったな」
「ていうかそもそも、見えてなかったよね」
「俺たちにしか、見えないのかな」
 春崎はあらためて、ソファの隣に立っている彼を見つめた。
 口角がわずかに上がっていて、微笑んでいるように見える。開かれた目はまばたきひとつしない。どこにも焦点が合っていないようだった。けれど、虚ろな目つきというわけでもない気がする。春崎の見たことのない、上下共にオレンジ色のスウェットを着ていた。もしかしたら、事故当時の服装なのかもしれない。けれど、外傷らしきものは傍目からは確認できなかった。髪は黒く、短く揃えられている。微笑んではいるが、ふわふわしているというよりは、どことなく精悍な印象を受けた。歳を取った証なのかもしれないし、なにひとつ反応がないからそう見えるだけかもしれない。
 春崎は彼のすぐ近くで手を振ってみた。「おーい」と言ってみる。反応はない。彼があまりに微動だにしないので、人形でも見ているようだった。
 そうだ、と春崎は、インターホンの録画を確認した。チャイムが押されてからの三十秒間が記録されるようになっていて、一番古いログは一年も前のものだった。来訪者を確認する作業は妙に緊張した。不審者でも映っていたらどうしよう、と思ったが、その言葉に彼はあてはまらなかった。春崎の中で不審者とはもっと生々しい存在だった。少なくとも、なにかしらのよくないアクションをこちらに起こしてくる。
 直近二四時間には、さきほどの警察官ふたりの他には、一名の配達業者が映っているだけだった。昨日の午後の時間に春崎もさやかもどちらも不在だったため、宅配ボックスに荷物を入れてくれていた。
 彼の姿が録画に映っていないという事実は、春崎の心に奇妙な安心感を生んだ。
 じゃあ、そういう、、、、ことなんだな、と、彼が目の前にいるということよりも、録画カメラに映っていないことによって信じることができた。
 目を遣ると、さやかが彼に触れようとしていた。手のひらを、おそるおそる彼の肩に近づけている。その肩に触れたさやかの手は、触れた、というよりも、見えない壁にぶつかったような、ある一点で止まったかのようだった。
 春崎は、彼の肩甲骨のあたりにそっと手のひらを添えてみた。感触がなかった。こちらの手が麻痺でもしているかのように「無」を感じた。触れることができているわけでもないのか……と思うと、やりきれなさがふつふつと湧いてきた。電車で八王子の葬儀場へ向かった時のような、現実味のなさが胸を占めはじめた。それなのに、春崎の目からは涙がこぼれた。
 ヒロ。
 呼んでしまうと、取り返しがつかなくなる気がした。
 得たいの知れないなにかが、決定的なものになってしまう気がした。
 春崎は、ささやいた。
「ヒロ」
 すると、さやかが叫んだ。
「ヒロ!」
 もう、それ、、ではなかった。
 ヒロだ。ヒロの幽霊だ。
 生き返ってこの家までやってきたとか、本当は死んでいないのかもしれない、とは思えなかった。それよりも、幽霊だという方がまだふたりには信じることができた。棺の中の遺体を見て、さやかは骨も拾ったのだ。それを嘘だったと思うのは、なにかヒロを裏切っているような気がするというか、品のないことのように感じられた。
「どうする?」
 春崎はさやかに尋ねた。
「どうしようか」
 ヒロの幽霊を見ながら苦笑いするさやかは、どこかうれしそうだった。
 とりあえず、写真を撮ってみることにした。春崎はさやかとヒロのツーショットを、さやかはヒロと春崎のツーショットをそれぞれのスマホで撮った。それからさやかの提案でインカメラで三人で写真に収まった。ヒロの像は写真の中にはっきりと存在していた。春崎は、「意外だな」とつぶやいた。
「この状況以上に意外なことってないだろうけどさ、写真だともっと、いかにも心霊写真みたいなおどろおどろしい感じになったりするのかなって」
「たしかに。でも、ヒロ、表情が少しも変わらないし、なにも言ってくれないから、私らが無理やり写真撮った感じになっちゃったな」
 春崎は、自分とヒロの写真を両親に送ってみた。両親ともにヒロのことは知らなかったから、〈この人、どう見える?〉とメッセージを添えて。
 すぐに父から返信がきた。
〈春崎悠太さんですけどw〉
「は?」
 と春崎は反応した。
 父が2020年代の今頃になって(笑)の意味で「w」を使うこともあるのだと知って嬉々として息子を煽ってきていること以上に、気になる点があった。
「普通さ『この人』って言われたら、俺じゃない人に反応するよな」
「もしかして、ヒロのこと見えてない? ちょっとさ、私の写真も送ってみてよ」
 春崎はさやかとヒロのツーショットも送った。するとこう返事がきた。
〈さやかさんに、『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがおもしろかったって伝えておいてくれ〉
「やっぱり、ヒロのこと見えてないっぽい」
「なんでお義父さん、今頃それ見てるの。時代を逆行していってない?」
 さやかがくすくす笑い、それから、「あっ」となにかに気づいたように、笑うのをやめた。春崎はなにかヒロに関することかと思ったが、そうではないと遅れて気づいた。離婚した今、俺の親は、さやかにとってはお義父さん、、、、、でもお義母さん、、、、、でもない。そうなることはもうないんだ。
 春崎の顔を覗き込むようにさやかはこう言った。
「私と……春崎の両親、これで縁が切れたりするのかな。もう、切れてるのかな」
「わかんない。でもまあ、うちの親はさやかのこと好きだから。なんなら、離婚のこと知っても俺よりもさやかの肩を持ったりするんじゃないかな」
「あー。あのふたりだったら、ありそうだなあ。うちの親だったらそうはいかないよね」
「たしかに」
 軽口を言い合えていることを春崎はうれしいと感じたが、だからと言ってどうなるわけでもなかった。むしろ、このうれしさが今だけの期間限定であることが強調されたようにも思えて、寂しさが一層募っていった。
「見えるのも、触れられるのも、私たちだけっぽいね」
「俺たちだけ、か」
 春崎はヒロの幽霊に、「なあ、なに考えてるんだ?」と語りかけたが、返事はなかった。
「こういう時ってどうするのがいいんだろう」
「幽霊が家にいる時?」
 言いながら春崎は妙な気持ちになる。もう受け入れることができているような言い方じゃないか、と。
 試しに、「家に幽霊が出たら」とインターネットで検索してみた。ヒットしたのは、幽霊が家に出て困っている、怖い思いをしている、どうすればいい? というような助けを求めるものばかりだった。どうすればいい? というのは春崎とさやかも思っているが、ヒロの幽霊は、怖いというわけではない。ここに彼がいることに、困っているわけでもない。どちらもあくまで、今のところは、ということだけれど。
「管理会社に連絡してみる?」
「管理会社がなにかしてくれるかなあ。それに、ヒロだよ?」
「そうだよなあ」
 春崎はさやかに「メガネ貸してもらっていい?」と尋ねた。
「え? いいけど」
 はい、とさやかが渡してくれたメガネをかけてみる。
「うわ。くらくらする。あーでも、だめかあ。視界が歪めばヒロにもなんか変化があるっていうか、もしかしたらヒロが見えること自体、錯覚だったりするのかなあ、とか、思ったんだけど」
「あー」
 いろいろなことを試してみた。普段は飲めない強い酒を飲んで酩酊してみたり、玄関の外に出て家に入るということを何度も繰り返してはヒロがそこにいるままか確認してみたけれど、なにも変わらなかった。ヒロはやはり、ソファの脇にじっと立っていた。
 試行錯誤することにも疲れ、春崎は酔っ払ってソファに寝そべりながら、ヒロがいてくれてよかった、と考えた。じゃないと今日は、さやかと大喧嘩して離婚した、最悪の日になっていたかもしれない。

 

(つづく)