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 二週間後、春崎とさやかは五人の旧友たちと焼肉屋に集合した。春崎とさやかと同じ経済学部の連中だった。出版社の社員、喫茶店のアルバイト、タレント事務所の経理、ダイビングのインストラクター、コワーキングスペースの運営業など様々なメンツだったが、「花池比呂のことでなにか思い出すこととかあるかな?」と聞いて返ってきた反応は一様に同じだった。「思い出、あんまりないなあ」「あんたたちの方がいっしょにいたでしょ?」という返事があるばかりで、たいした成果は得られそうになかった。春崎とさやかがなにより驚いたのは、ヒロの話もそこそこにすぐに話題が変わってしまったことだった。
 自分たちふたりと他のみんなでは、ヒロに対するテンションがだいぶ違うようだった。ヒロのことより、仕事の愚痴を共有して笑い合ったり、焼けた肉を焦げないうちに各自の皿に分配していくことの方が大事みたいだった。
「おまえら、なんでそんな感じなの?」
 網からもうもうと立ち込める煙を浴びながら、春崎はそう言った。
「ヒロが死んでまだ半年も経ってないよなあ? それなのになんで、もう折り合いがついてるどころか、取るに足らない話題のひとつみたいになってんの?」
 さやか以外の面々は春崎の言葉に気まずそうな顔をしたものの、すぐに「だって。ねえ?」と、おかしなことを言っているのはそっちの方だとでもいうように苦笑いし合った。
 食事会が終わると、二次会へ向かうという彼ら彼女らを残して、春崎とさやかは帰路に就いた。
 春崎はマンションへの坂道を釈然としない気持ちで歩いた。さやかもそうなのだろうか。しばらく無言で歩いていたが、「いやあ。まいったなあ」と言って、八月の夜空を見上げた。さやかは、どこか開き直るような口調でこう言った。
「当たり前だけどさあ、あの人たちにとってもうヒロは死んでるんだよ。死んじゃって、もうそれきりなんだよ。幽霊というかたちでさえ、もう会うことはできないんだ。この言い方が合ってるかわかんないけどさあ、私たち、恵まれてるよね。ヒロといることができて」

 それからというもの春崎は、これまで以上にヒロとの時間を大切にしよう、と思うようになった。ヒロが言ったように、いつ変わってしまうか、いつヒロがいなくなってしまうのかわからないのだ。まるでそうすることで「今」というものを濃密にすることができるとでもいうように、とにかく思ったことはなんでもヒロに話すようになった。それと同じくらい、ヒロとのなんてことのないだらだらとした時間も大切にしようと思うようになった。春崎とさやかでタイミングを合わせて有給を取り、ヒロと過ごすための時間を作った。家から出られないヒロは退屈だろうと、YouTubeでいろいろな場所のライブカメラの映像を流したり、部屋を暗くしてヒロを真ん中にしてぎゅうぎゅうに詰めてソファに座り、一日中映画を見る日なんかもあった。
「俺たち、なんか大学生に戻ったみたいじゃない。この、モラトリアム感というか」
 ヒロの希望で、トマトが人々を襲うZ級映画と、サメが竜巻になってニューヨークを襲う映画のシリーズを立て続けに見ながら、春崎はつぶやいた。
「昔に戻ったみたいだ」
「ね」とさやかが言う。
「へえー。じゃあ、けっこう楽しかったんだね。僕ら」
 春崎はヒロを見て、それからさやかの横顔を見たけれど、さやかはじっと画面の光を浴びるように映画を見ている。
 さやかとの仲は、よくなっていっている、というのとは少し違う。でも、悪くなっているわけでもないと思う。よいとか悪いとか、なにかそういう枠組みとは違う場所に今自分たちがいる気がする。「離婚」や「結婚」という枠組みも飛び越えて、大学時代の、「恋人」と「友だち」の間みたいな、どっちも含まれたあの時間にいるような。とはいえ、もちろん、今は昔じゃない。じゃあ、俺とさやかの関係って、なんなんだろう? なんだか同じことばかり考えている気がする。でも、少しずつ変わっているようにも思う。
 画面の中で中年の白人男性が、チェーンソーを構えながら、サメと共に竜巻の中を泳ぎ始めた。
 なんでそうなるんだよ、と春崎がツッコむと、ヒロが突然こう言った。
「僕は悪いことをしたんだ」
「悪いこと?」
「そんな気がする」
「気がするって。またそれか」
 ヒロ自身にわからないなら、その悪いことがなんなのか、どうにも手繰り寄せようがない。ぴっと先端だけはみ出した細い糸。ヒロの過去に繋がるであろう糸口が見えてはいるのだが、それをどうやって掴めばいいのかが、春崎にはわからない。
「やっぱり、妹さんに連絡取るのは?」
 春崎が言ってみると、ヒロは答えを濁すように「やっぱり、このままじゃダメかな」と言った。
「僕が、自分がどういう人間だったのかわからなくても、ただふたりといられればいいよ。このまま三人でいられれば。消えないよ僕。消えないから」
 この間ヒロが言ったことと矛盾している。そのことに春崎は、目の前に薄い膜がかかったようなちょっとした違和感を覚えた。
「ヒロは、怖いんじゃないのか?」
 核心を突くというよりは、その周りをゆっくり歩きながら様子を探るように、春崎は言ってみる。
 ヒロが黙ったので、さやかが「怖いって?」と春崎に聞く。
 春崎は、どこまで踏み込むとヒロを傷つけることになってしまうのか、そうならないようにと慎重にこう言った。
「妹さんが抱えているなにかが、ヒロには怖いんじゃないか?」
「そう、なのかな」
 動揺しているヒロを気遣うようにさやかが、「ちょっと春崎」と言うけれど、春崎は続けた。
「妹さんに会ってきていいかな。俺たちだって、おまえのこと知りたいんだ。ヒロのことが、大事だから」

 春崎とさやかはスクランブル交差点の信号待ちをしていた。三五度を超える猛暑日が何日も続いた八月の木曜日で、交差点の向こう側を見ると信号待ちの人の群れが陽炎になって揺れている。四方八方からバラバラに聞こえてくる街頭ビジョンの轟音にめまいがしそうで、強烈な日差しを浴びていると噴き出る汗と比例するように気力が削がれていった。
「入りなって」
 さやかが日傘に入るよう勧めてくるが、春崎は「大丈夫」と妙な意地を張ってペットボトルの水を飲んだ。
 由希が勤めるネイルサロンは、道玄坂の雑居ビルの七階にあった。古びたエレベーターに乗って七階で下りると、狭いロビーがあり、そこで靴をスリッパに履き替えて右手の扉を開けると、待合のようなスペースで由希がふたりを待ってくれていた。
「おひさしぶりです」
 まず、さやかが言った。それから、「すいません。お休みの日に」と春崎が言う。
 ヒロの話を聞かせてくれないかと、ふたりは電話でコンタクトを取る前にショートメッセージで由希に打診していた。送信した三日後に、この日は休業日だが店内で事務作業をするのでいつきてくれてもいい、と、店の所在地のGoogleマップのリンクと共にメッセージが送られてきたのだった。
 由希は無言でしっかりとしたお辞儀をし、顔を上げた時には瞳が潤んでいた。その思い詰めた様子に春崎は胸が痛んだ。やっぱり、早かったんじゃないか。ヒロに対しても由希さんに対しても、無理させてしまっているんじゃないか、と。
 話を聞くにあたって、事前にヒロと、彼女がつらそうだったり話したくなさそうだったらすぐに聞くのをやめること、という約束を交わしていた。
 出直すべきだろうか、とさやかとアイコンタクトしていると、「兄のことですよね」と由希が、さっきとは打って変わった力強い口調で言った。
「私たちが知らない、由希さんが知っているヒロの話をお聞きしたいんです」
 さやかの言葉に、由希はしっかりと頷いた。
 ふたりは施術スペースに案内された。白色のインテリアを基調とした清潔感のある空間で、薄いベージュのカーテン越しに陽が差し込んでいる。テーブルを挟んでスツールとひとり掛け用のソファが対面していた。「あ。もうひとつ必要ですよね」と由希はバックヤードからもうひとつスツールを持ってきてソファの横に並べた。どうぞ、と由希に促されると、さやかがスツールに腰掛けたので、春崎は仕方なくソファに座った。自分が今からネイルをしてもらうかのようで、どことなくそわそわした。落ち着かないのは由希もそうなのか、「そうだ飲み物」とつぶやいて、バックヤードからマグカップに入れた冷たいジャスミン茶を三人分、トレーに載せて持ってきてくれた。それから由希は腰掛け、こちらを見ながら微笑んだ。その柔和な表情に春崎は、いつもお客さん相手に見せる笑顔なのかな、と考えた。つい癖で微笑んでしまったんじゃないかという気がした。他人のことをつい安心させようとする人なんだろう。
 半袖のクリーム色のニットの上に、似た色のカーディガンを肩に羽織っている由希は、「冷房の温度、どうですか?」と、腕に手をあてながら聞いてきた。
「ちょっと寒いですか?」とさやかが聞くと、由希は申し訳なさそうに、「冷房があまり得意ではなくて」と言った。
「窓を少し、開けてもいいですかね。冷房はつけておくので」
「もちろん」
 春崎が言うと、由希はベランダに続く窓を開けた。七階にもかかわらず、熱で焼けたコンクリートのにおいと排気ガスが混じったような、都市部の夏のにおいがもわりと漂ってくる。どこかで鳴いている蝉の声が、こんな高所までうっすらと聞こえた。

 

(つづく)