最から読む

 

 九月になった。暑さは先月と比べれば少しはましという程度だった。蚊の姿が散見された。真夏の間はあまりの暑さで、蚊さえまともに飛べなかったのだ。春崎は由希を訪問したあの日のことをよく思い出す。揺らめく陽炎や人の群れを。その光景が頭に浮かぶ度に、なんだか夢みたいだったな、と思うのだった。
 生前のヒロについての調査は難航していた。葬儀場にいた男の手がかりは掴めないままだし、あれから大学時代の別の友人やゼミの教授などをあたってはみたものの、由希から聞いた話よりも有力な情報は出てこなかった。ヒロはおよそ誰の前でも、自分のパーソナルな部分を話していないようだった。
 土曜日の夕方だった。冷房を切ってベランダの窓を網戸にしていると、雨上がりの夏らしい、草を擦り潰したようなにおいがどこかから漂ってくる。春崎は昼寝でもしようかとベッドに仰向けになって、ぼーっと天井を眺めていた。開け放した扉の向こうのリビングでは、ヒロがやたらと楽しそうに旅行番組を見ていて、その隣でさやかがスマホをいじっていた。
「うわっ!」
 とさやかが声をあげたので、春崎は寝返りを打ってそちらを見た。
「そうか。そんなにかあ~」なにかに感じ入ったようにさやかが言う。「ヒロ、覚えてる?」スマホの画面をヒロに見せていた。
 話を聞くに、学生時代に三人でライブにいったバンドが、今日で結成二十周年になるらしかった。
「ちょっと待ってね」
 とさやかがそのバンドの曲を再生した。
 どんな親も尊い、どんな子も尊いなんて歌詞の曲が流れて、ああ、あのバンドか、と春崎は思う。
 今聴いても、あんまりいいとは思えない。
「発表当時はこの曲あんまり反応よくなかったんだけど、ショート動画のBGMとして流行したりして、今じゃあ代表曲だもんね」
 さやかはそれから彼らの曲をいくつか流した。
 個人と世界の軋轢だったり、個人と社会的な役割に板挟みになった苦しみを歌った曲もあれば、さきほどの曲のようにシンプルに世の中を賛美する曲もあった。最近はどうも、世の中を肯定する曲ばかりのようだった。
 ヒロは、どの曲にもピンときていない様子だ。
「そういえばヒロ、けっこう怒ってたんだよ? さっきのが、新曲だってことでライブのアンコールで歌われた時」
「そうなの?」
 と他人事のように言う。
「あっ!」
 今度は春崎が声をあげた。
「どうしたー」
 とさやかが、リビングから声をかける。
 春崎は起き上がって、「ヒロに渡すものあったの、忘れてた!」と言いながらクローゼットを漁った。
 捜し物はすぐに見つかった。
「これ! ヒロ、俺さあ、ごめん大学生の時からずっと、借りっぱなしだったんだ」
 手に持ったCDプレイヤーを見せた。ヒロの表情は変わらない。
「ああ、まあこれも、ピンとこないか。思い出せないか」
「うん。ごめん」
「いいっていいって、謝らないで」
「それ、中身入ってるの?」
 さやかが言った。蓋を開けると、CD-Rが収められていた。
「これな。タイトルもなにも書いてないけど。確か、ヒロに借りた時から中に入ってたんだよな。そうだ、ヒロ、このプレイヤー、大事な人からもらったとか言ってなかったっけ」
「そうなの?」
「そのCD、聴いてみようよ」
「電池切れてる」
「替えたらいいじゃん」
「まあ、そうか」
 電池を新しいものに入れ替え、ふたりの前で再生ボタンを押した。
 数十秒、待ってみた。
「なにも流れないな」
 プレイヤーの丸い小窓から、CDが回転しているのは見えるのだけど。
「このディスク、データ入ってないんじゃない?」
「そうっぽい」
 春崎は、額に手をあて考え込んだ。
「なあ、さやか」
「なに?」
「今から、新宿いかないか」
「今から? どうして」
「どうしても。ちょっと、確かめたいことがあるんだ」
「それって、僕に関係のあること?」
「たぶん」
 さやかが言った。
「じゃあ、いくしかないね。ヒロ、ちょっといってくるね。留守番お願いね」
「……わかった」

 突然に思い出したのだ。大学時代の、あの日のライブの帰り。歌舞伎町で、寄るところがあったと言って、人の群れの中へと消えていった不穏な様子のヒロのことを。それからしばらくの間、ヒロと連絡が取れなくなったことを。
「これって、なにか手がかりになりそうじゃないか?」
 電車に揺られながらさやかに伝えた。
「まあ気にはなるけどさ。でも、歌舞伎町にいって、それでどうする? なにが見つかるってわけでもないだろうし、だいたい、ヒントにしては漠然とし過ぎだよね」
「手当たり次第に聞いてみよう。ヒロのこと知らないかって」
「ええ? 途方もないでしょ、それ」
「でも、いてもたってもいられなくなったから」
「しょうがないな」
 さやかはため息を吐いたが、どこかうれしそうだった。
 新宿駅も歌舞伎町も、人でごった返していた。
「この前渋谷いった時も思ったけどさ、アラサーになるともう、ザ・東京って感じの街で遊んだりしないよね。人多くてびっくりしちゃう。なんなの? なんでこの人たち、なにをしてるっていうわけでもないのに、ただ突っ立ったり通行人眺めたりしてるの?」
 人の多さに苛つくさやかの言葉に、春崎は苦笑いする。
「なんとなく、落ち着くんじゃないか?」
「落ち着く?」
「こんだけいろいろな人がいればさ、自分が独りでもちょっと安心できるっていうかさ」
「なにそれ。あんまりわかんないかも」
「まあ、刹那的な街だよなあ」
 とりあえず、歌舞伎町一番街をゴジラヘッドの方へと歩くことにした。二百メートルもないわずかな距離だが、居酒屋やカラオケのキャッチに何度も声をかけられた。その度にふたりは、学生時代のヒロの写真を見せ、この人に見覚えはないかと聞いてみた。
 いろいろなヒロの写真を見せた。三人で自撮りしているものや、ヒロと春崎が大学の喫煙所で立ち話しているのを遠くから撮ったもの。ヒロがひとりでおにぎりを食べているもの。さやかは昔の写真を全てクラウドに保存しているのだった。スマホの中には、幽霊のヒロと撮った写真もあった。今のヒロの姿を見ることができるのは自分たちだけだということが物寂しかったが、その中にはほんの少しの誇らしさのようなものもあった。自分たちがヒロにとってきっと特別で、ヒロのために行動できているということが。
 聞き込みは失敗続きだった。誰に声をかけても、「いやあ、知らないっすねー」「わかんないなあ」などと同じ意味の返事ばかりが返ってきた。キャッチだけではなく通行人に聞いてみても望む成果は得られなかった。ヒロのことを知っている人が簡単に見つかるわけがない。見つかる保証なんてどこにもない。自分たちはただ無鉄砲なことをしているだけだと最初からわかってはいたが、否定の返事ばかりを耳にしていると、無根拠な自信のようなものもだんだんすり減ってきた。
 日が落ち、代わりに街の明かりがまぶしい。四時間近くも、歌舞伎町の路上にいる人たちに生前のヒロの写真を見せ、この人のことを知らないかと尋ね続けた。街に漂う下水のようなにおいにも慣れてしまった。
「今日はもう終わりにして、別の日にこようか」
 春崎はさやかを気遣ったが、さやかの返事はこうだった。
「なに言ってんの。帰りの電車なくなるまで続けてみようよ。聞き込みなんて、とにかく数をやらないと意味ないでしょ?」
「わかった。できるだけ続けよう。でも、ちょっとだけ休憩しないか? あの人ダメだったら、喫茶店にでも入ろう」
 春崎は、路上で喫煙をしている上下黒スーツの水商売風の男を指差した。茶色い長髪を後ろで括った、三十代後半くらいに見えるやけに痩せた男だった。
「あの、すいません」
 声をかけたが、男は自分に話しかけられているとは気づいてなさそうで、春崎はもう一度、「すいません」と声を張った。
 男は春崎と、それからさやかを見た。目の動きでふたりの存在を認めただけで、無言のままだ。
「この、真ん中の人のこと、知りませんかね」
 さやかがスマホを見せた。三人で自撮りしている写真だった。さやかはスマホの充電が残り一パーセントなことに気づき、かばんからモバイルバッテリーを取り出して挿し込んだ。「すいません」とさやかがもう一度画面を見せ、ヒロの他の写真を次々とスワイプして表示していく。
 男は相変わらずだんまりだったが、これまで声をかけた相手とはなにかが違った。
 春崎は男の表情をじっと見つめた。まるで、なにも見ていないみたいに瞳が動かなかった。
 長い間の後で男は「これ誰っすか? 知らない、っすねー」と言った。
 っすねー、のところで声が掠れた。男は何度も苦しそうに咳払いをしたかと思うと、「出勤あるんで」と逃げるようにその場を離れた。
「だめかあ。じゃあ一旦、喫茶店入ろうかあ」
 ため息を吐くようにさやかが言ったが、春崎は「いや……ちょっとなんか……」と男のあとをつけ始めた。
「え? え?」
 戸惑いながらも、さやかもついてきてくれる。
「なにしてんの? ねえ、あの人のこと、追いかけてる?」
 小声で聞いてくるさやかに、「なんか、わかんないけど」と春崎も小声で返す。「あやしいかも」と春崎が言うと、まるでその言葉が聞こえていたみたいに、十メートルほど先を歩く男はちらりと振り返り、明らかに早足になって通りの角を左に曲がった。

 

(つづく)