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 葬儀場から家へ帰ると、春崎は何度も顔を洗った。体全体がにおう気がした。服だけじゃなく、自分の皮膚にもファミレスのチーズくさいようなにおいが染みついている。微かに線香のにおいもするが、頭に浮かぶのは小川たちの雑な笑い声ばかりで、そんなものにヒロの葬式を上書きされてはいけないと思った。
 顔も拭かずにソファに腰掛けた。なににも焦点を合わせずぼうっとしていると、スマホが震えた。
 さやかから、ひとりで飲んでくる、とメッセージがきていた。
 さやかは飲むのが好きだ。日頃から、手頃なバーを見つけてはひとりで入って店の雰囲気を楽しんでいる。春崎は一度さやかに自宅近くの店に連れていってもらったが、その静かな雰囲気はどうにも退屈に感じられた。けれど、こういう日にひとりで飲みたいという気持ちは理解できた。
 趣味と言えるものがない春崎には、気の紛らわし方がわからない。呆然とするしかなかった。自分の内側にでかでかと存在する、友人の死という穴に呑み込まれ続けるように。
 ドアが揺さぶられる音で目が覚めた。いつの間にか、喪服のままソファで眠ってしまっていた。時計を見ると日付が変わる間際だった。酔ってるな、と春崎は思った。マンションの廊下に立って、鍵穴に鍵をうまく挿し込めずにドアノブをがちゃがちゃと回すさやかの姿が頭に浮かんだ。想像の中のその姿を、やけに微笑ましく感じる。さやかに俺がいてよかったと思うし、俺にさやかがいてよかったと思う。
 ドアを開けると、さやかがしゃがみ込んでいた。肩が震えている。声を漏らさないようにか、顔を両手で覆いながら泣いていた。春崎は隣にしゃがみ込んだ。なにも言葉は交わさない。しばらくそうやって、慰め合うようにふたり、無言でいた。春崎は、さやかの背中に手を回し、俺の分まで泣いてくれているのかもしれない、と考える。
 はーー、とさやかが言った。手のひらをぺたぺたと顔に何度か押し当てるように涙を拭くと、「よし」とつぶやいて立ち上がった。それから、「わっ、びっくりした」と春崎を見下ろした。
「いたんだ」
「ええ? いただろ。さっきからずっと」
「ごめん気づかなかった」
 相当酔っているようで、春崎が見上げるさやかの顔は暗めのピンク色に染まっている。
 気づかなかったって、そんなことあるか? なんなんだ。うっすらと傷つけられたように感じながら家へ戻ると、先に入ったさやかのパンプスが脱ぎ散らかされていて、洗面所から、こすっ、こすっ、という音が聞こえてくる。
 さやかの喪服からするものなのか、家にはまた別のにおいが漂っていた。紙巻き煙草のにおいと、バーで誰かが吸っていたのかもしれないやたらと甘ったるい電子タバコかなにかのにおい。それらが混ざったものを嗅ぎながら、そうだ、と春崎は思う。
「ハンドソープ切れてたんだった」
 春崎の声が聞こえていないみたいにさやかは、こすっ、こすっ、と空の容器をプッシュし続けている。
「俺、買ってくる」
 気持ちをリセットしようと、さやかの返事は聞かず、夜中まで営業している最寄りのドラッグストアへ向かった。ハンドソープの詰め替え用と、それだけ買うのもどこか損な気がしたので適当なスナック菓子を買って家に戻った。
 さやかがソファに座ってペットボトルのお茶を飲んでいた。首だけで振り返り、手に直接詰め替えパックとお菓子を持った春崎を見て、「あれ?」と言う。
「あれ? 出かけてたの?」
「え。うわ、さっきのこと覚えてないのかよ」どんだけ酔ってたんだ、と思いながら、「まあ、いいや」と言う。
 春崎はそれから洗面所へいきハンドソープを替えようとしたが、空の容器を手にして「あちゃ~」と声を漏らした。
「どうしたどうした」
「このハンドソープの容器さあ、泡タイプの詰め替え用じゃないと使えないのに液体の買ってきちゃった」
「またあ? いっつもじゃんね」
「なんだよ。いつもって言ったって、買い替えるの三か月に一回とかだろ」
「気をつけてって、私毎回言ってるよ? それで結局私が買ってくるんだから」
「あのさ、その態度、なに? さっき俺ちょっと傷ついたんだけど。さびしかったんだけど」
「なんの話」
「なんの話とかって言う、それがまさにそうだよ」
「言いたいことあるならはっきり言ってよ」
 さやかの声は大きかった。まだ酔っていて自分でそのことに気づいていないのか、それとも意識的にそうしているのか。春崎は大きくため息を吐いた。それだけでは気持ちが伝わらないと思って、洗面所の壁を叩いたが、その音がした瞬間に、やり過ぎかも、と思って、撫でるように手のひらを壁に押しつけた。
「俺ら、葬式のあとでこんなことでケンカしちゃうのかよ」
 春崎は自室に入り、きつくドアを閉めた。
 喪服から部屋着に着替えていると、クローゼットの中で開いたままのダンボール箱が目に入った。中に入っているCDプレイヤーをそっと手に取る。
 俺はこれを、どうしたらいいんだよ。
 ヒロが死んだせいで、捨てるに捨てられない。
 捨てようなんて思ってないけど、じゃあ、一生持っておくのか?
 なにかのタイミングで、妹さんに渡せばいいのだろうか。
 講義に必要だからって借りただけのもの。どうせならもっと、思い出があるものだったらよかった。そういうのだったら、感傷に浸ることだってできたのに。
 クローゼットの扉を閉め、ベッドに仰向けになる。白い壁紙のわずかにでこぼこした格子模様を眺めながら、そもそもどうしてヒロと出会ったんだっけ、と考える。
 スマホの写真フォルダを遡ってヒロの姿を確認しようとするが、写真は一枚も見当たらなかった。ヒロのものだけではなく、三年以上前のものがごっそりなくなっていた。なにかのタイミングでデータ容量不足のために一括削除したのだろう。
〈ヒロの写真持ってる?〉
 リビングにいるさやかにLINEすると、すぐに既読がついた。それから数分経ってから、ヒロがうつっている写真が何枚も送られてきた。
 三人で遊んでいる時のものばかりだ──どうしてか駅前のクレープ屋の前でディズニーランドにいるみたいにはしゃいでいる写真。突然ヒロが髪を水色にして大学に現れて、講義中にくすくすと笑いながら横顔を撮った写真。その冬にヒロが突然丸坊主にした時の写真。春崎の家で鍋をしている写真。それからすぐ眠ってしまった春崎の寝顔にヒロが落書きしている写真。学生時代ということもあってか、三人とも、服装も髪型もやけにやぼったいというか、垢抜けてはいない。ヒロもさやかも春崎も、その時の「今」が心の底から楽しいみたいに笑っている。
 こんな風に俺は、ヒロは、さやかは──写真を見つめていると、ようやく涙が込み上げてきた。

   *

 八年前の春のことを思い出す。一九歳、大学二年だった。春崎の記憶の中にキャンパスの景色がおぼろげに広がっていく。正門から入って少しいったところに、クリスマスになるとイルミネーションの装飾が施される大きなモミの木があって、そのそばには芝生の広場があった。広場は、お笑いサークルや大道芸サークルの稽古場みたいになっていて、いつも騒がしい。レンガ仕立ての講義棟や学部棟は、田舎から出てきた春崎には随分と洒落たものに見える。そうだ。うちの大学はおしゃれなのに、いつも油っぽいにおいがしていた。キャンパスに入っているコンビニから、揚げ物のにおいが漂っていた。
 その日は一限から講義があった。さやかと購買で待ち合わせ、学部棟の教室へ向かった。
 さやかとは一度目の破局からしばらく経って、ようやく友だちの関係に戻れたといった時期だった。春崎にとって解せなかったのは、別れたあともさやかがこれまで通り連絡してくることだった。〈おまえ友だちいないだろ〉と送ってみると〈春崎しかいない〉と返信がきたので、その正直な吐露の前では、春崎は変な意地を張ることもできなかった。
 別れたあとも、さやかとは買い物にいったりする仲だった。他のやつらから見ると俺たちってカップルなのかな、と考えるとモヤモヤした。けれどそれはモヤモヤの域を出ないから、自分の気持ちを受け流すように友だちの関係を続けていた。俺はたぶん、「友だち」のラインが低い、と春崎は思っている。何度か顔を合わせてご飯でもいっしょに食べたらもう友だちだし、なんなら、知り合いの知り合い程度の同世代も、その場のノリが合いさえすれば「友だち」という言葉で括ってよかった。さやかはきっと、違うんだろう。そのさびしさ、人間関係に対するある種のハードルの高さというか、こだわりみたいなもの? は俺にはわからない。その分だけ、さやかに「友だち」だと言われるのは、うれしかった。
 一限の授業は一五〇人規模の教室で行われた。席は七割ほど埋まっていて騒がしい。教室の後ろの方では、付属高校からエスカレーター式に入学した内部生がトランプをして遊んでいる。水筒に日本酒を入れてきた、と自慢しているやつもいる。小柄で、ほうれい線の濃い年齢不詳の教授は、騒がしい学生のことも静かな学生のことも無視するように、難しい経済用語を使いながら淡々と講義をしている。夜勤バイト明けの春崎は、あくびばかりしながらさやかの話を聞いていた。さやかは一方的に、あるバンドの話を小声でし続けている。昨日、音楽特番のトリを務めたらしい。通りに面した大きな窓から陽が入ってきてあたたかかった。教授の言葉もさやかの言葉も眠気を誘ってきて、まどろみの中にいた。なにもかも普通だ、と春崎は思った。大学生のなんてことないモラトリアムで、こういう平和ボケしたみたいな時間が、ずっと続くわけないのに、ずっと続くんだろうと思えてしまう。退屈で、俺の人生みたいだなんて、うとうとしながら考えてしまう。
 瞼が重力に負けたように閉じた。こっくりこっくりと頭が揺れ、はっ、と目を開ける。
「ちょっと、聞いてる?」とさやかが言う。
 前の席の、派手な金髪の男子学生が振り返った。
「僕もそのバンド好きだよ~」
 彼はいきなりそう言った。
 は? と春崎は思う。
「好きだよ~」って、その言い方はなんだよ。初対面なのに、まるで前からの知り合いに言うようだった。こういう馴れ馴れしさは、ナンパなのかもしれない。そうも思ったが、目の前の男からはそんな雰囲気はしなかった。
「え? あ、はあ」とさやかが返事をする。
「サポートメンバーのドラムの人が替わってから一段とよくなったよね」
 彼は大胆な声量で続けた。講義の最中だということが気になってはいないようだった。
 春崎は面食らってしまうと同時に、どうしてか、こいつにとってはそれが普通なんだろう、と思う。相手のことをなにも知らないのに、そう直感した。
 こいつの声と態度、ぞわぞわする。他人と話す時にあるべき壁とか空気感とか、そういうの、普通は考えるだろ。
「静かにしろよ」
 春崎がそう言うと、彼はじっとこちらの目を見つめた。
「名前は?」
「は?」
「僕のことはヒロって呼んで」
 彼は屈託のない笑顔でそう言った。
 教授が「私語はやめてくださいねー」とマイク越しに言った。
「だってさ。出る?」
 ヒロが席から立ち上がった。
 さやかがどうしてかおもしろそうに微笑みながら立ち上がったので、春崎もふたりのあとについて講義室を出た。廊下の一角で、ヒロはさっきの続きみたいにさやかにバンドの話を振った。さやかも好きなことを話しているうちに違和感が消えてきたのか、打ち解けた口調になっている。なんなんだよ、と春崎は思う。「きみは?」とヒロから言われたので、「はい?」と嫌みっぽく返した。
「名前は、なに?」
「名前? 春崎悠太」
「いい名前だね。春崎はなにが好きなの?」
「は?」面と向かって聞かれると、よくわからない。俺に好きなものとかあったっけ、と考えながら、「漫画……?」と口にする。
「うわあ。いいなあ!」宝物を見つけたみたいにヒロは笑った。「僕、子どもの頃全然そういうの読ませてもらえなくてさあ」
 子どもという言葉が引っかかった。そうだこいつは、子どもなのかも。子どもみたいなやつ。
 春崎が妖精でも見るような目でヒロのことを眺めていると、いつの間にかさやかとヒロの話が進んでいた。
「春崎もいく? まだチケットあるっぽい」
 さやかからスマホの画面を見せられる。新宿のライブハウスのホームページだった。ふたりが話していたバンドが出演するライブが夏にあるらしい。
「これ、春崎もいかない?」
「も、って。え?」
「ヒロくんといってくる」
 なかよくなってんの?
 さやかがこんな短時間でヒロと親しくなっていることに、春崎は自分でもよくわからない危機感を覚えた。「それでね?」とさやかが言う。
「チケット、ネットで事前購入のみなんだよね。私、来月の支払い厳しくて」
「僕はクレジットカード持ってないから払えない」
 さやかとヒロは、ふたりして春崎をじっと見る。
「それで俺に払えって?」
 狐かなにかに化かされたような気分だったが、さやかのことが心配で、春崎にはライブにいかないという選択肢はなかった。素早く自分のスマホを操作して「ほら」とため息でも吐くように言いながら決済画面をさやかに見せる。
「今何時?」ふと思い出したかのようにヒロが言った。春崎がスマホを見せると、ヒロは「やっべー」と頬に手を添えて絶叫するようなオーバーリアクションをした。「バイトの時間だ。僕いかなきゃ。じゃあね」
 ヒロはつま先を打ちつけ、かかと履きしていた靴をきちんと履くと、「じゃあね!」と走っていった。
「なんだったんだろうね」
 笑いながらさやかが言った。
「ほんとだよ。てか、いつの間にかさやか、あいつとなかよくなってるし」
「そう? うーん。危ない感じはしなかったしなあ。春崎といるから私安心してたのかも」
 なんだよそれ、とつぶやいた。にやつきそうになるのを我慢した。別れたばかりのタイミングだったら、こんなことはきっと言ってくれなかった。さやかが安心してくれていることが、うれしかった。

 

(つづく)